第33話 音だけで作るいつもの光景
奇声が部屋に響いた。
喉の奥を無理やり裂くようにして出した、高く尖った音だった。
意味はない。
言葉にもならない。
ただ、耳に刺さる。
人が聞けば反射的に身を固くする種類の声。
静かだった室内の空気が、その一声で一気に張る。
民娥はその勢いのまま、手近にあった座布団を掴んだ。
厚みのある布が手に収まる。
次の瞬間、それを床へ叩きつける。
どんっ。
乾いた音が床を通して広がる。
床がわずかに沈み、空気が震えた。
卓の上の茶器が小さく揺れる。
湯気も少し揺れた。
壁際の灯りの影が微かに動く。
ソヨンの肩がびくりと跳ねた。
驚きか、演技か。
「いや、おやめください……っ」
震えた声。
懇願の形をきちんと作っている。
喉が細くなっていて、涙をこらえるような響きまで混じる。
民娥は応えない。
代わりに距離を詰めた。
歩幅を荒くする。
床板が一か所、小さく鳴る。
先ほど確かめておいた場所だ。
その音も混ざる。
左手を伸ばす。
ソヨンの右頬のあたりへそっと添える。
触れるだけ。
力は入れない。
温度だけが伝わる程度。
その左手に向かって、自分の右手を打ちつける。
ぱんっ。
乾いた音が部屋の中央で跳ねる。
平手打ちにしか聞こえない。
だが、衝撃はない。
それでも音は十分だった。
ソヨンの目が大きく見開かれる。
次の瞬間には涙声が乗る。
「お、お嬢様……お願いします……もう……もうやめてください……」
声が少し裏返る。
民娥は心の中で短く評価する。
合格。
想像よりうまい。
右手をゆっくり上げて合図をする。
事前に決めた動き。
ほんの一瞬、ソヨンの視線が一瞬だけそこへ向く。
だが、すぐにまた怯えた顔へ戻る。
その間に、半分の菓子が口へ運ばれる。
赤い部分を避ける。
白いところだけ。
指示通りだった。
小さくかじる。
噛む。
その瞬間を狙って、民娥は再び奇声を上げた。
今度は少し長く。
音だけが先に立つ。
同時に座布団を掴み直し、ソヨンの口元へ叩きつけるふりをする。
寸前で止める。
布の端が頬をかすめる程度。
当てない。
そして顎をしゃくる。
食べながら、しゃべれ。
身振りだけで命じる。
ソヨンは必死に咀嚼しながら、涙声のまま言葉にならない言葉を吐き出す。
「やめ……て……お願い……です……」
噛みながらだから少し崩れる。
それが逆に真に迫る。
十分だった。
民娥はそのまま背後へ向かう。
壁際の小さな収納。
低い引き出しが並ぶ棚。
一段目を引く。
中は布と紙で、軽いものばかり。
一瞬で判断する。
中身だけを卓へばら撒く。
白い紙が散る。
薄い布が重なる。
音は軽いが、視覚が増える。
次に二段目。
こちらは紐と小さな包み。
同じく中身だけを出す。
空にする。
引き出しそのものは軽い。
片手で持てる。
そのまま壁へ投げる。
がんっ。
木が壁へ当たる。
軽いが十分な音。
落ちる。転がる。
中身がないから破損もしない。
三段目も引く。
小さな木札のようなものがある。
それは投げない。
卓へ落とすだけ。
細かな音が散る。
引き出しは床へ。
どさっ。
続けて、先ほど投げた木箱を足先で蹴る。
ころりと転がる。
蓋が外れ、中の布が少し出る。
部屋の見た目が少しずつ乱れる。
だが壊れてはいない。
卓はまだ無事。
灯りもそのまま。
高価そうな棚も触っていない。
あくまで散らすだけ。
民娥はさらに歩く。
窓際まで。
障子の前。
そこに置かれていた小さな敷物をめくる。
畳が見える。
それを丸めて反対側へ投げる。
布だから音は軽い。
乱れが増える。
戻る途中で卓の端を強く押す。
脚が床を擦る。
低く長い音。
茶器がかすかに鳴る。
倒れない程度に止める。
「お嬢様、おやめください……」
ソヨンの声が続く。
今度は少し近づいてくる。
役目を理解している。
泣き声が混じる。
民娥は振り返りざまにまた奇声を重ねる。
意味のない音。
怒りにも聞こえるし、泣きにも聞こえる。
それがいい。
解釈の余地がある方がらしい。
さらに座布団を掴む。
今度は壁へ投げる。
どん、と鈍く当たり、落ちる。
もう一枚。
床へ。
さらに一枚。
重ねるように投げる。
部屋の中央が布だらけになる。
動くたび衣が擦れる。
床板が鳴る。
紙が足元で散る。
引き出しは横倒し。
木箱は壁際。
見れば十分に乱れている。
誰が扉を開けても、まず暴れているとしか見えない。
その中で民娥は呼吸を乱さない。
頭は冷えたまま。
どこへ何があるか、全部把握している。
計算通りだった。
ソヨンは片手で口元を押さえるようにしながら、残りの白い部分を噛み切っている。
涙声を崩さないまま。
「お願いです……もう……」
うまい。
赤い部分は残している。
指示通り。
民娥は引き出しの一つを再び拾う。
今度は卓の脚へ軽く当てる。
木と木がぶつかる音。
それだけで十分大きい。
奇声。
懇願。
泣き声。
叩く音。
投げる音。
擦れる音。
すべてが重なる。
部屋の中は完全にいつもの光景になる。
誰が見ても疑いようがない。
民娥が暴れている。
女官や侍女たちがひたすら耐えている。
その中心で、民娥は一切表情を変えずに動く。
目だけが静かだ。
音だけが、狂っている。
狂ったふりをしている人間の目ではない。
けれど、その外側だけは完璧に作られている。
喉から出る奇声。
乱れた動き。
急な振り向き。
荒い足取り。
どれも計算済み。
狂ったお嬢様の仮面だけが、きれいに置かれていた。




