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鏡の王宮、眠る身体、動く身体 ーー体が動く間、別の名が呼ばれるーー  作者: 明日葉


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第32話 開始の合図

差し出したままになっていた菓子を、民娥はふと自分の方へ引き戻した。


受け取ろうとして動きかけたソヨンの指先が、その途中で止まる。


また空気が揺れる。


民娥は何も説明しない。


そのまま割れ目を少し広げた。


断面をさらに開いて、中を見る。


中央に色がある。


赤い。


思ったよりも、はっきりした赤だった。


淡い色ではない。


中心だけが小さく濃く染まっている。


白い餡の内側に、芯のように色が差している。


豆か。

果実か。


この時代では珍しくもない材料なのだろう。


けれど、白の中にある赤は妙に目についた。


整いすぎているせいかもしれない。


断面がきれいなぶん、その一点だけが強く見える。


民娥は少しだけ視線を止めたあと、ソヨンを見る。


「赤いところは残して・・・・」


声は低い。

響かない程度に抑える。


「白いところだけ、食べなさい」


それは嗜好ではない。従わせるための指示だった。


ソヨンは反射的に頷きかけて、途中で慌てて動きを止めた。


条件が増えたことで、また理解を整理している顔になる。


言葉はまだ出ない。


民娥はさらに続ける。


「私が手を口に持っていったら、その時に食べ始めて」


今度は合図の指定。


ソヨンの喉が小さく鳴った。


逆らえないことも含めて理解している。


緊張しているのがよく分かる。


「それまでは・・・・」


民娥は視線をわずかに逸らした。


あくまで何でもないように。


無関心を装う。


「いつものように、嗜めろ」


言い方をわざと冷たくする。


線を引くためだった。


あくまで主と女官の会話として成立させる必要がある。


親しい囁きではなく、表に出たときに違和感のない形へ戻す。


最後に一言だけ足す。


「右手をあげたら、開始」


それだけ。


合図は明確でなければならない。


曖昧さは事故になる。


ソヨンは何も言わない。


ただ、小さく息を吸う。


受け入れたらしい。


民娥はその様子を視界の端で確認しながら、ゆっくり立ち上がった。


衣が擦れる音が静かに広がる。


深く眠ったあとだから体は軽い。


だが頭は冷えている。


部屋を見渡す。


さて、と内心で思う。


暴れているふりをする。


なら、選ぶものが重要だ。


本当に壊しては面倒になる。


壊れないもの。

壊れても困らないもの。

片付けが楽なもの。


条件は意外と多い。


まず卓を見る。


重い。


動かすだけでも音が大きすぎる。


しかも茶器がある。


倒せば茶が広がる。


匂いも残る。


片付けも面倒だ。


却下。


灯りへ視線を移す。


論外。


火が絡むものは遊べない。


飾り棚。


木目が細かい。

細工も細かい。


高価そうだ。


そこへ手を出すのは余計な問題を呼ぶ。


駄目。


壁際に置かれた小さな木箱へ視線が止まる。


蓋付き。


表面に傷も少ない。


軽そうだ。


近づいて片手で少し持ち上げる。


次に床へ視線を落とす。


座布団。


厚みがある。


投げても音だけ。


破損なし。


痕も残らない。


完璧だった。


民娥は内心で小さく頷く。


準備完了。


ただ、暴れるふりには流れがいる。


いきなり投げるだけでは雑になる。


部屋の中をもう一度歩く。


窓際。

壁。

卓。

床。


歩幅を測るようにゆっくり。


どこで振り返れば自然か。


どの位置なら扉の外へ音が届くか。


外に聞こえすぎても不自然だし、静かすぎても意味がない。


ほどよく。


床板の音も確かめる。


強く踏めば少し鳴る場所がある。


そこを覚える。


一歩。


二歩。


木箱を持って壁際まで移動。


置く。


また戻る。


座布団を足先で少しずらす。


擦れる音が出る。


悪くない。


布の擦れる音は、怒気に聞こえやすい。


さらに卓の端へ指をかける。


少しだけ押す。


重いが、かすかに脚が床を擦る。


低い音。


これも使える。


本当に乱暴にしなくても、音だけなら十分だ。


民娥は一度深く息を吐いた。


こういう準備を冷静にしている自分に、少しだけ可笑しさを感じる。


暴れる演技の段取りを組む。

それは誤魔化しではなく、外へ見せるために整えている。


現代ではまずしない作業だ。


けれどここでは必要だ。


変化は急すぎると危険。


少し前までの民娥なら、こうした場面で何かを投げても不自然ではない。


なら、それを利用する。


完全に変わったと思わせない。


今日は静かすぎた。


だから少し揺らす。


その帳尻合わせ。


民娥はゆっくりソヨンの方へ戻った。


距離を詰める。


ソヨンはまだ半分の菓子を持ったまま固まっている。


指先だけが緊張している。


民娥は顔を寄せた。


再び耳元。


声は息と区別がつかないほど低く落とす。


「では、」


一呼吸置いてから発声する。


「開始」


囁きが合図になった。


部屋の空気がわずかに震える。


民娥の右手がゆっくり上がる。


しかし、まだ口には運ばない。


合図だけ先に見せる。


ソヨンは固唾を飲んだまま待つ。


民娥はそのまま木箱へ向かった。


歩幅は少し荒くする。


普段より足音を強める。


床板が軽く鳴る。


木箱を持ち上げる。


重さは予想どおり軽い。


手首だけで十分扱える。


そのまま反対側の床へ投げる。


鈍い音。


箱は転がるだけで壊れない。


蓋が少しずれる。


中の布らしきものが見える。


悪くない。


続けて座布団をつかむ。


片手で持ち上げ、壁へ投げる。


布だから音は軽い。


だが空気は動く。


落ちる音も柔らかい。


さらに足で一枚を蹴る。


床を滑る音が出る。


これで十分それらしい。


「お嬢様、おやめください・・・・」


ソヨンがようやく声を出した。


抑えた声。


だが形はちゃんと嗜めている。


民娥は振り向かない。


卓の端を今度は少し強く押す。


脚が床を擦る。


低く長い音が出る。


部屋の中だけで響く程度。


ちょうどいい。


右手はまだ上がったまま。


ソヨンはその手を見ている。


食べる合図を待っている。


民娥は木箱を足先で戻しながら、次の動きを計る。


すべては計画通り。


すべては、崩さないために整えているだけだった。

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