第31話 半分に割った甘さの手前で
一瞬、しまったと思った。
ソヨンの固まった顔を見た瞬間、美奈の頭の中で小さく小さく警鐘が鳴った。
反応が大きい。
予想していたより、ずっと大きい。
菓子を渡す。
ただそれだけのことなのに、部屋の空気そのものが止まったようになる。
やはり、この身体がこれまで積み重ねてきたものは簡単には消えない。
少し態度を変えただけで、周囲はすぐに違和感として受け取る。
早かったかもしれない。
そう思う。
与えるという行為は、この立場では意味を持ちすぎる。
主が何かを差し出す。
しかも食卓の上で、自分の口にするものを分ける。
そこに好意以外の意味が乗る。
試されているのか。
機嫌なのか。
命令なのか。
あるいは何かの前触れなのか。
受け取る側は必ず探る。
軽くやったつもりでも、軽く受け取られない。
けれど次の瞬間、美奈の中で判断が切り替わった。
いや、と。
ここで引く方が不自然になる。
もう言葉を口にした。渡す流れを作った。
そこで曖昧に止めれば余計に目立つ。
しかもソヨンとは、すでにただの付き従う者ではない。
今日までに聞いたこと。
父との距離。
大妃との距離。
過去の振る舞い。
多くをこの侍女から得ている。
距離を置いたふりだけでは済まない。
もう同じ舟に乗っている。
ならば、中途半端よりは流れを整える方がいい。
美奈は表情を変えずに、右手の指を一本立てた。
軽く曲げる。
自分の方へ引く。
言葉は使わない。
来い、という合図だけ。
ソヨンは一瞬戸惑った。
けれど、呼ばれて動かないわけにはいかない。
そっと一歩だけ近づく。
まだ距離がある。
慎重すぎるほど慎重だ。
美奈はもう一度、同じ仕草をした。
今度は少しだけ強く。
もっと。
ソヨンは小さく息を止めたように見えた。
さらに半歩。
そこで止まる。
それ以上近づくのは無礼になるという感覚が身体に染みついている。
美奈はその距離を見て、自分から身を乗り出した。
卓の上を越えないぎりぎりまで前へ。
ソヨンの耳元へ顔を寄せる。
声を落とす。
限界まで。
「ソヨン」
「こういう時」
囁きはほとんど空気に混じる。
「私は、いつもどう暴れる?」
その問いでソヨンの肩がわずかに強張った。
答えはすぐに出ない。
驚きが先に来ている。
美奈は急がせない。
待つ。
ここで焦らせると声が上がる。
ソヨンは喉を小さく鳴らした。
「物を、投げられます」
小さい声。
けれど具体的だった。
「他は?」
「声を荒げて、近くにいる者、誰彼構わず・・・・」
少しだけ声がかすれる。
過去を思い出しているのだろう。
美奈は小さく頷いた。
「そう」
確認だけ。
そこに感情は乗せない。
そして続ける。
「これから、いつものように暴れる」
ソヨンの目がわずかに開く。
意味が読めない顔。
だが美奈は止まらない。
さらに声を落とす。
「その間に」
一拍。
「食べておけ」
今度こそソヨンは言葉を失った。
理解が追いついていない。
暴れる。
その間に食べる。
つながらない。
けれど説明はしない。
ここで長く話せば不自然になる。
「いい?」
問いの形をしているが、確認ではない。
指示だった。
ソヨンはほんのわずかに頷いた。
目線はまだ揺れている。
それでも拒まない。
美奈はその反応を見て、ようやく身を離した。
何事もなかったように姿勢を戻す。
卓へ向き直る。
茶器。
皿。
菓子。
空気だけがまだ張っている。
美奈は静かに菓子へ手を伸ばし、一つ取る。
指先に感じる弾力は控えめだ。
柔らかすぎず、硬すぎない。
両手で持つ。
力を均等にかける。
そして静かに割った。
無理なく、きれいに二つへ分かれる。
断面が現れる。
そこで美奈の視線が自然に止まった。
中を見る。
淡い色の餡が薄く詰まっている。
粒は細かい。
均一で、崩れもない。
丁寧に作られている。
見た目だけでなく中まで整っている。
香りも少し確かめる。
豆の気配。
甘さは控えめ。
やはり派手ではない。
不味くはない。
だが印象が弱い。
美奈はその断面を見ながら少しだけ考える。
この時代の菓子としては十分なのだろう。
ただ、自分の記憶にある味と比べるとどうしても輪郭が薄い。
刺激がない。
食べたあとに残るものが少ない。
それでも中まで崩れていないあたりに手間は見える。
見かけより丁寧だ。
美奈は半分をソヨンの方へ差し出した。
その動きは静かだった。
だが空気はさらに張る。
ソヨンはまだ受け取れない。
目線だけが菓子へ落ちる。
手が動かない。
差し出された半分の菓子。
主の手。
それを受け取るという行為の意味をまだ測っている。
美奈の手は宙にある。
半分の菓子もそのまま。
数秒が長く伸びる。
美奈はその沈黙を冷静に感じる。
やはり重い。
半分に割って差し出すだけでここまで空気が止まる。
この身体が積み重ねてきた距離は深い。
だが、まだ引かない。
「中、普通」
ぽつりと言う。
視線は菓子の断面へ向けたまま。
ソヨンが小さく反応する。
「え」
意味が読めない顔。
「もっと変なの入ってるかと思った」
本音だった。
宮中の菓子だから何か癖のあるものかと思ったが、予想よりずっと普通だ。
その言葉で、張っていた空気がわずかに揺れる。
ソヨンの戸惑いが別の戸惑いへずれる。
「その、お嬢様」
「食べるなら今」
美奈は言う。
「あとで暴れる予定だから」
そこまで言われても、ソヨンの手はまだ動かない。
指先がわずかに浮きかけて、止まる。
受け取るべきか。
待つべきか。
迷いがはっきり見える。
美奈はその迷いを見たまま、表情を変えない。
宙に差し出したままの半分の菓子。
静かな部屋。
茶の香り。
遠くでかすかな衣擦れの音。
その一瞬が妙に長く感じられる。
ソヨンの視線は菓子と美奈の手の間を揺れる。
まだ決めきれない。
美奈はその様子を見ながら、次の動きを静かに決めた。




