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鏡の王宮、眠る身体、動く身体 ーー体が動く間、別の名が呼ばれるーー  作者: 明日葉


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第30話 眠りのあと、卓の上の甘さ

深い眠りだった。


途中で意識が浮くこともなく、何かを考える間もなく、

そのまま底まで沈み切った眠りだった。

夢を見た記憶もない。


何かが通り過ぎた気配すらなく、暗さだけが続き、その暗さの中に自分の輪郭すら薄れていく。


眠ったというより、完全に落ちたに近い。


民娥は久しぶりに、爆睡という言葉がそのまま当てはまる眠りをしていた。


体が重いわけではない。

むしろ、深く沈んだぶんだけ余計な力が抜けている。


頭の奥に残っていた緊張も薄い。


父との会話。

不具合という言葉。

今夜のお祓い。

次へ進むという宣告。


それらを一度すべて切り離すように、眠りが容赦なく意識を奪っていた。


「お嬢様」


遠くで声がした。


柔らかい声だ。


だが、まだ遠い。


耳には届いている。

けれど意味として入ってこない。


民娥の体は動かなかった。


眠りの底からすぐには戻れない。


「お嬢様、お目覚めください」


もう一度。


少し近い。


同じ声。


ソヨンだと分かるまでに少し時間がかかる。


それでもまだ目は開かない。


まぶたの裏に残る重さがある。


呼吸だけがゆっくり続いている。


「お茶と、お菓子をお持ちしました」


その言葉でようやく意識が浮いた。


お茶。

菓子。


具体的な言葉は強い。


眠りの中でも輪郭を持つ。


「う〜ん」


小さく声が出た。


喉がまだ眠っているような声だった。


民娥はゆっくり目を開ける。


視界に最初に入ったのは天井だった。


木目。


装飾。


静かな陰影。


見慣れた、と言いかけて、まだそこまでではないと自分で思い直す。


宮中の天井。


ここへ来てから何度も見ている。

けれど完全に身体へ馴染んだとは言えない。


目覚めた瞬間に一瞬だけ、どこにいるのかが曖昧になる。


ちょっと時間がたったあとで現実が戻る。


ここは宮中。

自分は民娥。

夜ではなく、まだ日がある。


「よく寝た」


思わずそのまま口に出た。


意識して整えた言葉ではなかった。


本音だった。


これだけ深く眠った感覚は久しぶりだ。


ソヨンはその言葉を聞いて、はっきりと安堵した顔になった。


緊張していたらしい。


「よろしゅうございました。お顔色も、だいぶ良くなっております」


控えめに微笑みながら、卓の上へ茶器を整える。


湯気は強くない。

香りも静かだ。


甘さより、落ち着きを優先した茶だと分かる。


隣には小さな菓子がいくつか並んでいる。


色も形も整っている。


いかにも宮中らしい。


「そろそろ、大妃様に呼ばれるお時間です」


その言葉に、民娥は内心でだけ小さくため息をついた。


もうか、と思う。


体感ではまだ眠りの続きにいたかった。


だが、それを口には出さない。


呼ばれるなら行くしかない。


しかも相手は大妃だ。


眠かったから遅れたなど通るはずもない。


「召し上がってから、お着替えを」


その一言で今度は別の種類の疲れが浮かぶ。


着替え。


面倒だ。


この世界の衣は枚数が多い。

紐も帯も重なる。

一つ終わったと思えば次がある。


現代の感覚からすると、毎回儀式に近い。


だが、それも顔には出さない。


民娥は上体を起こし、卓へ視線を落とした。


菓子へ手を伸ばす。


一つ取る。


形は小さいが、指先で分かる程度に密度がある。


口へ入れる。


ゆっくり噛む。


「・・・・・・・・」


味を確かめる。


甘さはある。


控えめだが不足ではない。


香りも悪くない。


素材もたぶん上等なのだろう。


不味くはない。


そこはすぐに分かる。


けれど、美味しいかと問われると違う。


印象が薄い。


上品すぎるのかもしれない。


輪郭が柔らかく、記憶に残りにくい。


民娥はもう一口噛みながら考える。


刺激が足りない。


現代の菓子に慣れた舌からすると、どうしても物足りない。


甘さに尖りがない。

塩気もない。

香りも途中で引いてしまう。


パンチが効いていない。


口に入れて終わる。


食べた瞬間に忘れそうな味だった。


記憶へ引っかからない。


悪くないのに残らない。


それが一番評価に困る。


民娥はそれ以上分析をやめた。


お茶を取る。


一口含む。

口に含んですぐに高級なお茶だとわかる味だった。


香りも味も角がない。


菓子を流し込むにはかなり勿体無い部類の味だ。


口の中が整う。


「ふう」


小さく息が漏れる。


そこで民娥は、何でもない調子で言った。


「これ、ソヨンにあげる」


ソヨンはその場で固まった。


言葉がすぐには意味にならなかったらしい。


「・・・・えっ?」


目がわずかに見開く。


動きも止まる。



手に持っていた茶器の位置までそのままだった。


理解が完全に遅れる。


民娥はその反応を見ながら特に補足しない。


そのまま卓の菓子を軽く指で示す。


「残り」


短く付け足す。


それでもソヨンはまだ動かない。

「え・・・・」


今度は小さな声だった。


戸惑いがそのまま出ている。


菓子を与える。


しかも食べかけではなく、まだ整ったままのものを。


それが彼女にとって想定外なのだろう。


宮中では主の口に出たものには意味がつく。


好み。

不満。

試し。

あるいは機嫌。


どれとして受け取るべきか迷っている顔だった。


民娥は茶をもう一口飲む。


「私は一つでいい」


そう言って終わらせる。


理由は単純だ。


全部食べたいほどではない。


かといって捨てるのも無駄だ。


なら近くの人間へ渡せばいい。


それだけの判断だった。


だが、この場ではその単純さが逆に通じにくい。


ソヨンはまだ少し迷っている。


受け取っていいのか。

断るべきか。


礼を言うべきか。


その順番を探している。


民娥はその沈黙を眺めながら思う。


この世界では、何でも少し重い。


渡すだけで意味が増える。


「嫌なら置いといて」


軽く言う。


その一言でようやくソヨンが動いた。


「い、いえ」


慌てて首を振る。


「ありがたく、いただきます」


声が少し裏返る。


緊張がまだ抜けていない。


だが両手で丁寧に皿を寄せる。


その動きは慎重だった。


まるで壊れものを扱うように。


民娥は少しだけ口元を緩める。


反応が正直すぎる。


ここまで驚かれるとは思わなかった。


ソヨンはまだ完全には落ち着いていない。


菓子を見る。


民娥を見る。


また菓子を見る。


その繰り返し。


言葉を足すべきか迷っているのが分かる。


「食べれば?」


民娥が言うと、ソヨンはさらに一瞬止まった。


「今、でございますか」


「今でもあとでも」


また短い沈黙。


そしてようやく、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。


「では・・・・後ほど」


礼を重ねるように頭を下げる。


その姿を見ながら、民娥は思う。


やはりまだ、この身体の過去は強い。


何を一つ変えても、周囲はまず驚く。


それなら急ぎすぎないほうがいい。


一つずつ。


昨日決めた通り。


今日の変化はこれで十分だ。


ソヨンの「えっ」という最初の声だけが、まだ部屋の空気に残っている気がした。

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