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鏡の王宮、眠る身体、動く身体 ーー体が動く間、別の名が呼ばれるーー  作者: 明日葉


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第21話 改善という名の配置

衣を整え終えても、民娥はすぐにはその場を離れなかった。

立ち上がることも、歩き出すこともせず、鏡の前に立ったまま自分の姿を見つめている。

整えられた襟元、重ねられた袖、帯の位置。

どこにも乱れはない。

髪もすでに朝の形に収まっていて、外から見れば何ひとつ不足はなかった。


それでも民娥は、鏡の中の自分から目を離さない。


まだ何か足りない気がした。

正確には、外側は整っていても、内側に確認したいことが残っている。


鏡の中にいる少女は静かだ。

表情も大きく動かず、視線も落ち着いている。

少なくとも今この瞬間だけ見れば、周囲が言うような扱いにくさは感じられない。


だが、それは今の中身が美奈だからだ。


元の民娥はどうだったのか。

どこまで変わり、どこで評価され、どこで見限られたのか。


その境目を知らなければ、次にどこまで振る舞えばよいのかが決めにくい。


民娥は鏡を見たまま口を開いた。


「ねえ、ソヨン」


背後で片付けをしていたソヨンが、すぐに手を止める。


「はい、お嬢様」


呼ばれることにも、呼ばれる側にも、もう無駄なぎこちなさはなかった。

朝から何度も言葉を交わしてきたことで、空気が少しだけ整っている。


民娥はすぐには続けず、一度だけ息を整えた。


「私」


そこで言葉を選ぶ。


聞き方を誤れば、不自然になる。

だが、遠回しすぎても意味が曖昧になる。


「多少は改善したと思われたことって、あったのかしら?」


鏡越しにソヨンの様子を見る。


ソヨンはすぐには答えなかった。

視線をわずかに落とし、記憶を探るように静かに立つ。


民娥は待つ。


問いの意味を整理しているのだろう。

それとも、どこまで言ってよいか測っているのかもしれない。


やがてソヨンは小さく頷いた。


「ございます」


その返答は、民娥の予想よりもはっきりしていた。


否定される可能性もあると思っていた。

最初から最後まで扱いにくいままだった、と言われても不思議ではない。


だが違った。


「一度でございました」


民娥は表情を変えないまま、その言葉を受け取る。


一度だけ。


短いが、それだけで十分意味がある。


「いつ?」


問い返す声は静かだった。


「少し前です」


ソヨンは慎重に続ける。


「お嬢様が、言葉を荒げなくなられた時期がございました」


民娥は心の中で軽く息を吐く。


やはり、と思った。


完全に予想外ではない。

ここ数日の自分の振る舞いと重なる部分があったからだ。


声を抑える。

反射的に怒らない。

相手を見て必要以上にぶつからない。


それは昨日、自分の中で決めたやり方にも近い。


「私が?」


確認するように繰り返す。


「はい」


ソヨンは頷く。


「付人に当たることも減りました」


その一言に、民娥はさらに整理を進める。


付人に当たる。

つまり感情の矛先が身近な者へ向くことが多かったのだ。


「物は?」


「投げられませんでした」


そこまで聞いて、民娥の中で昨日の判断と重なる。


理佐方式、と内心で呼んでいた自分なりの制御法。

感情を出さず、まず観察し、反応を遅らせる。


それとかなり近い。


偶然ではない。

この体も、一度そこへたどり着いていた。


「どのくらい続いたの?」


「ほんの一時期です」


短い返答だった。

だが、その短さが逆に重い。


長くは続かなかったということだ。


一時的に変わった。

だが定着はしなかった。


「理由は?」


民娥は静かに問う。


ソヨンは少しだけ迷ったあとで答えた。


「お嬢様が、何かを期待されていると感じておられた時です」


その言葉に、民娥は鏡の中の自分を見る。


期待。


その響きだけなら前向きにも聞こえる。

だが、この家での期待はおそらく別の意味を持つ。


「誰に?」


「父君様と、大妃様の双方からです」


空気がわずかに変わる。


父と大妃。


この家の中心にいる二人。


その両方が同時に視線を向けた時期があった。


「何を期待されたの?」


問いを重ねる。


ソヨンは一瞬だけ唇を引き結んだ。


率直に言うべきか迷っているのがわかる。


だが最終的には、回さずに言った。


「使えるかどうかを、でございます」


民娥は眉ひとつ動かさない。


率直すぎるほど率直だった。


けれど、そのほうがむしろわかりやすい。


期待という言葉の正体はそこだった。


情ではない。

信頼でもない。

可能性の査定だ。


使えるかどうか。


盤面に置けるかどうか。


それだけ。


「そのとき私は?」


「落ち着いておられました」


ソヨンの答えは静かだった。


だが、その一言には評価のすべてが含まれている。


落ち着いている。

怒鳴らない。

暴れない。

指示に反応しすぎない。


それだけで、この家では大きな加点になる。


「それで?」


民娥は続きを促す。


ソヨンは小さく息を吸い、そして決定的な言葉を口にした。


「そのご褒美が、この立場でございました」


民娥はそこで初めて鏡から視線を外した。


ゆっくりと振り向く。


なるほど、と心の中で整理する。


改善したから愛されたわけではない。

理解されたわけでもない。


ただ、使えると判断された。


それだけで立場が与えられた。


「正室候補に?」


「はい」


ソヨンは静かに頷いた。


「お嬢様が落ち着いておられた時期と、お話が進んみカンテクに参加された時期は重なっております」


民娥はしばらく黙る。


胸の内に怒りは湧かなかった。

悲しみも薄い。


むしろ、あまりにも構造が明快だった。


評価は常に外側で決まる。


中に何を抱えているかは問われない。


苦しいかどうかも関係ない。


ただ、見える形が整っているかどうか。


盤上に置けるかどうか。


それだけだった。


「その後、」


静かに続ける。


「私が元に戻ったら?」


「期待は無くなりました」


即答だった。


迷いがない。


つまり判断は早かった。


使えると見て、違うと判断したらすぐに視線を引く。


「ですが・・・・」


ソヨンは続ける。


「お立場はそのままでございました」


民娥は小さく頷く。


駒は簡単には戻さない。


一度置いたものは、そのまま残す。


使い道が薄れても、盤面から消さない。


それが錦城金氏のやり方なのだろう。


必要があればまた使う。

不要でも位置は残す。


完全に外さない。


だから今、自分はここにいる。


「ありがとう」


自然に言葉が出る。


ソヨンは少しだけ戸惑ったように目を上げた。


「そのお話、お辛くは・・・・?」


「いいえ」


民娥はきっぱり答える。


本当にそうだった。


辛いというより、構造が見えただけだ。


「分かりやすいだけ」


改善すれば評価される。


だが、それは報酬ではない。


配置換えだ。


感情の褒美ではなく、役割の変更。


そこを取り違えると読みを誤る。


民娥は心の中で整理する。


一時的な改善で正室候補。


中身は問われない。


ならば、これ以上改善を見せ続ける必要はない。


必要なのは制御だ。


整いすぎれば、また別の評価が動く。


今はそれを呼ぶ必要がない。


静かでいる。

だが、目立たない程度に。


扱いにくさを消しすぎず、しかし暴れもしない。


その線で十分だ。


「もういいわ」


民娥はソヨンに告げる。


「下がって」


「はい」


ソヨンは静かに頭を下げる。


足音を立てずに戸へ向かい、襖が閉まる。


部屋に再び静けさが戻る。


民娥はゆっくり鏡へ向き直った。


改善の対価がこの立場。


なら、次に払わせる対価は自分で決める。


与えられるものを待つつもりはない。


必要なら位置を使う。


必要なら動かす。


鏡の中の自分は変わらず静かだった。


だが、その目の奥だけが朝より少し深くなっている。


民娥はそこでようやく一歩踏み出した。

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