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鏡の王宮、眠る身体、動く身体 ーー体が動く間、別の名が呼ばれるーー  作者: 明日葉


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第20話 ただ一度だけ口にした願い

ソヨンは、すぐには続けなかった。

盆を両手で持ったまま、言葉を選ぶように視線をわずかに伏せる。

いつもの落ち着いた表情ではあるが、その沈黙には慎重さがあった。

朝の支度が終わったあとの部屋は静かだった。

障子越しの光はすでに白く広がり、室内の輪郭をやわらかく照らしている。

つい先ほどまで続いていた衣擦れの音も消え、今は二人の呼吸だけが残っていた。


民娥は急かさない。

こういうとき、先を促せばかえって言葉が崩れることを知っていた。


やがてソヨンは、少しだけためらいを含んだ声で口を開いた。


「お嬢様が、父君様にお願いをなさったことが、一度だけございます」


民娥は表情を変えない。

だが、その一言は予想外だった。


お願い・・・・


その言葉そのものが、この体にはひどく似合わない気がした。


これまで聞いた限りでは、父との距離は遠い。

言葉を交わすことも少なく、叱責されても反発せず、ただ沈黙して終わる。

そこに何かを求める余地があったとは思えなかった。


「お願い」


静かに繰り返す。


問い返した声にも、大きな揺れは乗せない。


「はい」


ソヨンは頷いた。


「言葉遣いを改めるようにと、お話があったときでございます」


民娥は内心で小さく納得する。


あの父らしい。


怒鳴らない。

感情を見せない。

ただ必要なことだけを告げる。


しかも理由は、おそらく個人的な感情ではない。


娘としてどうかではなく、外から見たときに不都合だから。

正室候補としてふさわしくない。

そうした判断の延長にある指摘だったのだろう。


つまり人格ではなく配置の問題だ。


それがかえって、この家らしいとも思えた。


「そのとき、お嬢様は」


ソヨンは記憶をなぞるように、ゆっくり続ける。


「珍しく、何も言い返されませんでした」


民娥は黙って聞く。


その情景を頭の中で組み立てる。


広い部屋。

静かな父。

視線を落とした娘。

おそらく周囲には最低限の人間しかいない。


「視線を伏せたまま、最後まで黙ってお聞きになっていました」


「いつもは違ったの?」


「はい。不満そうなお顔はよくなさいました」


それは少し想像できる。


声に出さなくても、表情には出る。

抑えきれない苛立ちや反発が先に顔へ現れる。


「けれど、その日は違いました」


ソヨンの声が少しだけ柔らかくなる。


「最後まで静かに聞かれて、分かりましたとお答えになりました」


民娥はその一言を頭の中で反復する。


分かりました。


短いが、その場では十分な返答だ。


反発せず、拒まず、ただ受け入れる。


それだけで終わるはずだった。


だが、そうではなかったらしい。


ソヨンは一度言葉を切った。


民娥はそこで初めて視線をソヨンへ向ける。


「そのあと・・・・」


促すようにではなく、続きを待つ形で口にする。


ソヨンは頷き、小さく息を整えた。


「もし、できたら、と前置きなさいました」


その一言だけで、異例だったことがわかる。


もしできたら。


断定でもなく、要求でもない。


願いを口にするときにしか出ない言葉だ。


民娥の胸の内で、わずかに空気が動く。


「欲しいものがあると」


静かな説明だった。


だが、その先に何が続くのかを考えた瞬間、美奈としての感覚が自然に働く。


物だろうか。

飾りか、布か、書物か。


あるいは何か、他の娘たちが持っているもの。


だが、この屋敷でそれを父に言うだろうか。


「父君様が、何だとお尋ねになりました」


そこまでは予想通りだった。


短く、余計な色のない問い。


何が欲しい。


ただそれだけ。


感情も期待も乗らない声だっただろう。


ソヨンはそこで少しだけ目を伏せた。


まるで、その先の言葉をいまでも慎重に扱う必要があるかのように。


「お嬢様は」


一呼吸置く。


そして、はっきりと言った。


「世子様が欲しいと・・・・」


部屋の空気が止まったように感じた。


障子の向こうから差し込む朝の光さえ、一瞬だけ輪郭を失ったように思えた。


民娥は何も言わず、その言葉を頭の中で繰り返す。


世子様が欲しい。


あまりにも真っ直ぐだった。


駆け引きではない。

計算でもない。

遠回しでもない。


欲しいものを聞かれて、そのまま答えた。


子どもらしいと言えば、それ以上なく子どもらしい。


けれど同時に、その一言には強い願いがある。


届かないと知っていても口にしてしまうほどの。


民娥の中の美奈は、その単純さに少しだけ驚いた。


もっと複雑な言い回しを想像していた。


誰かの目を気にした遠慮や、曖昧な言葉。


だが違った。


ただ欲しいと口にした。


「父君様は」


民娥は淡々と問う。


声に余計な感情を混ぜない。


「少し驚かれたようでした」


ソヨンの返答も静かだった。


それは珍しいことだろう。


これまで聞いてきた父の姿からすれば、表情が動くこと自体が少ない。


その人が驚いた。


それだけで、その言葉が予想外だったことがわかる。


「ですが」


ソヨンは続ける。


「それは欲しがって手に入るものではない、と」


予想通りの返答だった。


否定はする。

だが感情で押し返さない。


叱責でもない。

嘲笑でもない。


ただ事実として処理する。


欲しいから得られるものではない。


それだけ。


父らしい言い方だった。


「お嬢様は、それ以上何も言われませんでした」


民娥は静かに息を吐く。


拒絶ではない。

だが、肯定でもない。


可能性を示すわけでもなく、完全に閉ざすわけでもない。


感情を挟まず、処理だけを残す。


この家では、それが一番多い形なのだろう。


「そのあと、何か変わったことは」


「特にはございません」


つまり、その場で終わった。


叱られず、叶えられず、ただ流れた。


言葉だけが残って、何も動かなかった。


民娥は鏡へ視線を戻す。


そこに映る顔は整えられている。

髪も衣も、朝の支度としては十分だ。


けれど、その奥にある記憶は自分のものではない。


一度だけ願った。


この体の持ち主は、父に何かを求めた。


地位でもない。

飾りでもない。

衣でもない。


人だった。


しかも最も遠い場所にいる人。


簡単には届かず、簡単には近づけない相手。


その名を、ただ欲しいと口にした。


民娥はその事実を否定しない。


幼いと思う。

無防備だとも思う。


だが、笑う気にはなれなかった。


欲しがること自体が慎重に扱われる場所で、たった一度だけ言葉にしたのだ。


その一度には、それなりの重さがある。


言えなかった多くのものの代わりだったかもしれない。


「教えてくれてありがとう」


自然に口から出た。


ソヨンはすぐに小さく頭を下げる。


「お嬢様」


「なに?」


「そのときのお嬢様は、少しだけ嬉しそうに見えました」


民娥は答えない。


その必要はないと思った。


願いを口にできたから嬉しかったのか。

父が否定だけで終わらせなかったからか。

それとも、自分の中にあるものを初めて言葉にできたからか。


どれでもあり得る。


だが、今の自分がそこに意味を足す必要はない。


器は民娥。

中にいるのは美奈。


けれど、この器がただ空だったわけではない。


何も持たずに残されていたわけではない。


沈黙の奥に、たしかに願った記憶がある。


それだけわかれば十分だった。


民娥は静かに顔を上げる。


鏡の中の自分と目が合う。


もう、欲しいとは言わない。


欲しいものがあるなら、自分で届く位置まで進む。


待たない。

与えられる形も望まない。


取れるなら取る。


それが今の自分のやり方だった。


朝の光はさらに強くなり、障子の縁をくっきりと浮かび上がらせる。


部屋の静けさは変わらない。

けれど、民娥の中では一つだけ輪郭が増えていた。


この体には、過去がある。


沈黙だけではない。

一度だけ、手を伸ばした痕跡がある。


それを知った上で進むほうが、きっと間違えない。


民娥は袖を静かに整えた。


これから先、自分が何を望むかは、自分で決める。

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