第19話 重ねる衣、重ねる顔
体の手入れがひと通り終わると、次は衣を整える時間になった。
温かかった布の感触が離れたあと、代わりに広げられた布地の重なりが視界に入る。
民娥は、その一式を見ただけで内心小さく息をついた。
まず下に着るものがあり、その上に重ねるものがあり、さらに帯があり、留めるための紐があり、飾りがある。
一つひとつには役割があるのだろうが、現代の感覚からすればどうしても多い。
一枚で済むところを、何段階にも分けて身につけていく。
しかも、それぞれに順番があり、位置があり、ずれればすぐに目立つ。
布の厚みだけではない。
動くたびに袖が重なり、裾が重なり、肩のあたりまで形が変わっていく。
美奈として生きていた頃なら、朝にこんな手順を毎日こなすなど考えもしなかった。
制服なら数分、私服でも迷わなければすぐ終わる。
けれどここでは、着るという行為そのものが一つの儀式のようだった。
しかも、それを自分ひとりでは完結できない。
「腕を少し上げてください」
ソヨンの声はいつもと変わらず静かで、必要な言葉しか含んでいない。
民娥は言われた通りに腕を持ち上げた。
袖の内側に布が通され、肩に沿って整えられる。
「少しこちらへ」
「こう?」
「はい、そのままで」
手際がよい。
迷いがない。
毎日同じことを繰り返している者の動きだった。
民娥はされるままに従う。
かなり面倒だった。
だが、ここで嫌がる理由はない。
衣を乱暴に扱うことは、そのまま周囲への違和感になる。
今の自分に必要なのは、余計な疑問を生まないことだった。
布が肩から落ち着き、帯の位置が決まる。
腰のあたりに少しずつ重みが増していく。
その感覚を確かめながら、民娥は何気ない調子で口を開いた。
「ソヨン」
「はい」
「大妃様の前では、私はどんなふうにしていたの?」
質問の瞬間、ソヨンの手がわずかに止まった。
ほんの一瞬だが、今朝だけで何度も見てきた反応だった。
つまり、この問いもまた、簡単には答えにくい部類なのだろう。
「大妃様の前では・・・・」
言葉を選ぶように、少しだけ間が空く。
帯を整える手を止めずに、ソヨンは続けた。
「とても静かでいらっしゃいました」
民娥は小さく眉を動かした。
予想していた答えではあるが、それでも少し意外だった。
「怒ることは」
「ございませんでした」
「一度も」
「はい。声を荒げることも、ほとんどありません」
はっきりとした答えだった。
民娥はそのまま考える。
父の前でも静かだった。
そして大妃の前でも同じ。
つまり相手によって変えていたというより、明確に線を引いていたのだ。
「目は合わせていた?」
「いいえ」
今度は迷いなく即答だった。
「ほとんど伏せておられました」
理由は聞かなくても想像できる。
大妃は、この屋敷のなかで父以上に絶対的な存在だ。
視線ひとつにも意味が生まれる相手なのだろう。
現代で言えば、上司どころではない。
家庭の空気を決める中心に近い。
「何か言われたら?」
「短くお返事をなさいます」
「自分から話すことは」
「ありませんでした」
そこまで徹底していたのかと、民娥は心の中で整理する。
必要以上に存在を主張しない。
感情を見せない。
余計な言葉を増やさない。
大妃の前では、それが最も安全だったのだろう。
反発もせず、親しみも求めず、ただ波風を立てない。
「それで問題にはならなかったの?」
「はい」
ソヨンはすぐに答えた。
「むしろ、そのほうが大妃様は安心されていたように思います」
民娥はその言葉を素直に受け止める。
扱いやすい、ということだ。
相手に読まれにくく、余計な感情をぶつけてこない者は、支配する側にとって負担が少ない。
それは嫌われていないというより、警戒されていないという意味に近い。
悪くない位置だった。
むしろ今の自分には都合がいい。
急に親しげに振る舞う必要もないし、沈黙を守っても不自然ではない。
布がさらに一枚重なる。
肩から胸元へ流れる線が整えられ、帯の端がぴたりと収まる。
鏡に映る自分の姿が少しずつ完成していく。
見慣れないはずなのに、不思議と輪郭だけはもう違和感が薄れてきていた。
袖の長さ、襟の重なり、色の落ち着き。
どれも現代では日常にないものなのに、鏡の中では自然に見える。
そこにいるのは確かに民娥だった。
そして中にいるのは、美奈だ。
二つが完全に重なることはまだない。
だが、少なくとも外側は整えられる。
私は演じればいい。
民娥は鏡を見ながら、改めてそう思った。
演じるといっても大げさなことではない。
元の振る舞いを壊さずに、少しずつ選び直していく。
急に別人になれば目立つ。
けれど、静かなままなら違和感は小さい。
無理に感情を増やす必要もない。
「これでよろしいかと」
ソヨンが一歩下がった。
民娥は鏡越しに全体を見る。
衣の裾は乱れなく落ち、帯もずれていない。
肩の線も自然だった。
「ええ」
短く答える。
「後片付けをしてまいります」
ソヨンは道具をまとめ始めた。
櫛を布で包み、器を盆へ戻し、余った紐を揃える。
その動きも静かだ。
必要以上の音を立てない。
民娥はそのまま椅子に座り、鏡の中の自分を見ていた。
衣を着るだけで姿勢まで変わる。
背を少し伸ばさなければ落ち着かない。
袖をどう置くか、足をどう揃えるか。
自然と意識が向く。
ここでは服そのものが、立ち居振る舞いを決めてしまう。
だからこそ、衣を整えることはただ着替えるだけではないのだろう。
ソヨンは盆を持ち上げ、部屋を出ようとしていた。
そのまま襖へ向かう。
だが、途中でふと足を止めた。
何か思い出したように、わずかに肩が揺れる。
民娥は鏡越しにその変化を見た。
ソヨンが振り返る。
いつもより少し迷いのある表情だった。
「お嬢様」
「なに」
声を向けると、ソヨンは一歩だけ戻ってきた。
盆を持ったまま、声を落とす。
「今、思い出したことがございます」
その言い方は軽くなかった。
単なる世間話ではない。
伝えるべきか迷っていたことを、今になって口にしようとしている。
民娥は姿勢を崩さずに答える。
「聞かせて」
ソヨンはすぐには続けない。
小さく息を吸う。
その一呼吸だけで、次の言葉に重みがあることがわかった。
朝の光は変わらず障子越しに差している。
部屋の明るさも静けさも同じはずなのに、空気だけが少し変わった。
衣は整った。
髪も整っている。
表に見える準備は終わった。
けれど、本当に必要なのはまだ別にある。
知らないことを知ること。
この屋敷で、誰が何を見ていて、誰が何を覚えているのか。
父との距離。
大妃との距離。
そして、その先。
まだ揃っていない情報がある。
民娥はソヨンの次の言葉を待った。
朝の静けさが、その瞬間だけわずかに揺れた。




