第22話 茶の温度
父が来る。
その知らせは、特別な前置きもなく届いた。
いつもと同じように、必要なことだけを伝える形で、静かに部屋へ持ち込まれる。
民娥は正室候補として宮中にやってきた。
正室になるまでの間、自分の家族に会える立場にはない。
その規則を破ってでも父が来ると言うことは、この家は、王家に並ぶか、もしくはそれ以上に相当に強い権力がある家であるということがわかる。
知らせに来た女官の声は落ち着いていた。
言葉そのものには余計な色がない。
だが、民娥はその女官の呼吸にわずかな違いを感じ取った。
言い終えたあと、息の入り方が少しだけ浅い。
肩もほんのわずかに硬い。
長く仕えていれば、こうした変化は隠しきれないのだろう。
それだけで十分だった。
父はもう近い。
伝えてから余裕を持って来る人間ではない。
知らせが届くころには、すでにこちらへ向かっている。
民娥は一瞬だけ障子の向こうへ意識を向け、それからすぐに声を出した。
「お茶を」
短い指示だった。
声は落ち着いている。
慌てる必要はない。
むしろ、慌てた気配を見せるほうが無駄だ。
父は待たせる男ではない。
そして同時に、待たされることを当然のように嫌う。
誰かが遅れることに声を荒げるわけではない。
だが、その一瞬の沈黙だけで十分に空気が冷える。
その種類の人間だと、これまでの話だけでも十分理解できていた。
女官はすぐに頭を下げ、音を立てずに動く。
外で茶器の準備をする気配がした。
民娥はその間に、衣の袖を軽く整える。
座る位置を確認し、卓の前に静かに姿勢を整える。
深呼吸はしない。
呼吸を意識しすぎると逆に乱れる。
ほどなくして、廊下から足音が近づいた。
一定の速さ。
迷いのない歩幅。
複数人の足音ではない。
従う者はいても、中心になる足音は一つだけ明確だった。
前触れもなく扉が開く。
入室を告げる声もない。
そこに立っていたのは、錦城金氏の当主。
民娥の父だった。
背筋はまっすぐで、肩の位置にも崩れがない。
衣の重みすら姿勢を乱さない。
歩幅は一定で、無駄な揺れがない。
顔には感情がほとんど浮かんでいない。
少なくとも、外から見ればそう見える。
怒っているわけでもなく、機嫌がよいわけでもない。
何かを考えているのかどうかも読みにくい。
ただ、そこにいるだけで部屋の重さが変わる。
民娥はすぐに立ち上がった。
「父上」
礼をする。
深すぎず、浅すぎず。
丁寧ではあるが、過剰ではない。
今朝ソヨンから聞いた距離感を思い出しながら、必要以上の柔らかさを乗せない。
父は一瞬だけその姿を見た。
「座れ」
短い。
命令というより、そこに説明は不要だという口調だった。
民娥は静かに座り直す。
父も向かいに座る。
卓を挟んで二人。
その間に、茶が運ばれてくる。
女官の手つきは慎重だった。
茶器の置かれる音すら小さい。
湯気が立ち、香りが広がる。
かなり上等な茶だと、知識がなくてもわかる。
香りが強すぎず、澄んでいる。
父はそれを一瞥しただけで何も言わない。
良いとも悪いとも言わず、ただ存在を確認するだけ。
民娥はそこで、自分から口を開いた。
「本日は、お越しいただき」
「形式はいらん」
すぐに遮られる。
想定の範囲だった。
こういう人だろうと思っていた。
言葉を最後まで言わせるより、不要なものを先に切る。
民娥は顎を軽くひき頷く。
余計な説明も、取り繕いも不要だ。
父は茶を手に取る。
一口だけ飲む。
その所作も静かだった。
器を置くまでの動きに迷いがない。
それからようやく口を開いた。
「体調は」
「問題ありません」
即答する。
言葉は短く、余計な形容を加えない。
元気です、という柔らかさも、特にありませんという曖昧さも避ける。
「そうか」
それで終わった。
そこに心配の色はない。
関心というより確認だ。
異常がないか、配置した駒に問題がないか。
その程度の温度に感じられる。
民娥は余計なことを言わない。
記憶が曖昧だとか、夢を見たとか、そうした話は論外だった。
今の自分が抱えている違和感も、ここで出すべきではない。
ソヨンとの会話も当然口にしない。
父は茶をもう一口飲み、器を置いた。
「宮中の生活には慣れたか」
「はい」
短く答える。
声に感情を乗せない。
「不便は」
「ございません」
父はその答えのあと、すぐには続けなかった。
しばらく民娥を見るでもなく、視線を止めたまま黙る。
その沈黙には意味がある。
民娥は理解する。
試されている。
何かを言えば、その言葉の継ぎ目を拾われる。
言わなければ、沈黙の圧だけが残る。
この場では、沈黙に耐えることが答えになる。
焦って言葉を足さない。
説明しない。
言い訳もしない。
父はやがて小さく息を吐いた。
「まあいい」
合格でも不合格でもない。
ただ通過しただけの声だった。
評価の印ではなく、先へ進めるという意味に近い。
民娥は顔色を変えない。
「最近は騒ぎもないと聞く」
その言葉に対しても、眉ひとつ動かさない。
「そうですか」
否定しない。
肯定もしない。
自分から解説を加える必要はない。
騒がないことを評価しているのか、探っているのかは父の側の問題だ。
民娥がそこで喜ぶ必要もない。
父は何も言わない。
再び沈黙が落ちる。
部屋の空気が少しだけ重くなる。
静かなはずなのに、呼吸の音まで目立つ気がする。
父の視線が周囲へ移った。
部屋の隅に控える女官たち。
付き従う者たち。
その存在を確認するように見てから、短く言う。
「下がれ」
たった一言だった。
だが即座に全員が動く。
女官たちは頭を下げ、足音を殺して部屋を出る。
襖が閉じる。
最後の衣擦れの音が消えたところで、部屋には完全な静けさだけが残った。
二人きりになる。
民娥はそこでわずかに姿勢を正した。
ここからだと、自然に理解する。
これまでの言葉は表面だった。
本題はまだ出ていない。
父は民娥を真正面から見る。
今度ははっきりと視線が合う。
逃げ場のない視線だった。
怒っているわけではない。
だが柔らかさもない。
感情がないというより、必要以上に見せないだけなのだとわかる。
その視線の中では、曖昧な態度はすぐに崩れる。
民娥は視線をそらさない。
今朝ソヨンに聞いた通りなら、本来は伏せるほうが自然かもしれない。
だが、完全に逸らせば逆に不自然になる。
一瞬合わせ、必要以上にぶつけない。
その程度に留める。
父の口がゆっくり開く。
「ところで」
そこで言葉が切れる。
あえて間を置いたのか、次の言葉を選んでいるのかはわからない。
だが、その短い空白だけで部屋の空気がさらに張る。
民娥は何も言わない。
問い返さない。
ただ黙って、次に来る言葉を待つ。
卓の上の茶はまだ温かい。
香りだけが静かに残っている。
そのわずかな香りのなかで、父の次の一言を待つ時間だけが長く感じられた。




