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鏡の王宮、眠る身体、動く身体 ーー体が動く間、別の名が呼ばれるーー  作者: 明日葉


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第105話 仮面の問答

翌日、陽が完全に落ちる前の時刻を選び、三人は人目を避けるようにして宿へ向かった。

世子は質素ながら仕立ての良い衣をまとい、装飾も控えめに抑えた姿で歩いている。


良家の若者が学問仲間を伴い、地方の医師を訪ねる。

外から見れば、その程度の自然な体裁にしか見えない。


朴紘範と尹怜もまた、あくまで対等な仲間という距離を保ち、余計な気配を外へ漏らさなかった。


奥の座敷では、白俊がくつろいだ様子で三人を待っていた。

そのそばで、ヨリがすでに茶の用意を整えていた。


「おや、早いですね」


白俊は軽く一礼し、相手の出方を測るように目を細める。


「昨日ぶりやな」


世子も柔らかな声音で応じ、その場の空気を不用意に張らせぬよう言葉を返した。


「急で失礼する」


「歓迎しますよ、若君」


その呼び方にはわずかな含みがあり、軽さの奥に探る意図が見えていた。


「こちらは学問仲間だ」


朴紘範がそう言って、説明はそれ以上広げず短く切り上げる。


「学問仲間さんですか」


白俊は座り直しながら、視線だけは三人の顔から外さなかった。


「ほな、一人ずつ用意してきた質問、どうぞ」


口調は軽いままだが、その視線は三人の反応を細かく拾い上げている。


世子が先に口を開き、余計な前置きを挟まず本題へと入った。


「発症から急変までの最短時間は?」


「三日やな、長くて五日くらいや」


「症状が出ない期間は?」


「二日前後、無症状でもうつるで」


世子は間を置かず、頭の中で繋がったことを確かめるように言葉を重ねた。


「飛沫か」


白俊の口角がわずかに上がり、問いの速さに面白みを覚えたような顔になる。


「家族内の広がり方見たら分かりますやろ」


「閉鎖された空間が危うい」


「その通りや」


世子はさらに続け、相手の答えの確かさを確かめていく。


「抑え込むには」


「隔てることと風通し、それから人の集まりを減らすことやな」


やり取りは簡潔だったが、互いの理解の速さは明らかに常のものではなかった。

それでも世子はそれ以上深く踏み込まず、意図的にそこで線を引いていた。


次に尹怜が静かに口を開き、薬草について問いを向ける。


「速効葉、その効果に気づいた経緯は」


白俊は湯気の立つ茶碗へ視線を落とし、記憶を探るように口を開く。


「もともと、あれは自分で飲んどった草や」


その言葉に、三人の視線がごくわずかに動いた。


「お茶代わりやな、喉の調子がええから」


「診察で患者のそばに長くおっても、自分だけ感染せえへんことに気づいた」


その後に短くはない間が生まれ、誰も不用意に口を挟まなかった。


「最初は偶然やと思ったんやけどな」


白俊は軽く肩をすくめ、そこに大仰な意味を持たせないように振る舞う。


「周りの医者が倒れていく中で、自分だけ平気やった」


白俊は淡々と続け、感情を交えず経過だけを積み上げる。


「試したんや、意図的に患者の近くで診察続けてな」


その言葉に、尹怜の視線が一段鋭さを増した。


「無謀では?」


「自分が飲む前にちゃんと試しとるわ」


白俊は迷いなく返し、その場を揺らすこともなく言葉を受け止める。


「それで患者にも少量ずつ使ってみた」


「結果は?」


「進行が緩やかになる例が出た」


白俊は静かな声のまま、記録の裏にあった経緯を一つずつ明かしていく。


「気になって古い記録を調べたら、似た症状の病に使われた例があってな、咳と熱を抑えるって書いてあった」


そこでヨリが冷たい表情を変えずに、尹怜に紙を差し出す。


"これを飲み始めると、風邪をひきにくくなります"


白俊がその紙を見て、ちょっぴり驚いた表情をした。


「なんやお前、知っとったんか」


ヨリは、その言葉を聞き、コクコクと頷いた。


尹怜は小さく頷き、次に確かめるべき点だけを無駄なく重ねた。


「与える時期は?」


「初期やな、炎症が強くなる前がええ」


「副作用は?」


「今のところ目立ったもんは出てへん」


「名称は?」


「効きそうな名前やろ」


白俊は軽く笑い、その笑みのまま意図を隠さず口にした。


「信じる力も、薬のうちや」


「歌にした理由は?」


「広めるためや、文字読めへん人にも伝わるように」


続いて朴紘範が穏やかに口を開き、記録全体の構造へ問いを向ける。


「症例分類について伺います、発疹の有無で分けた意図は?」


「致死率に差が出るからや」


「井戸の記述は?」


「衛生状態を見るための指標で、主因やない」


「統計としては十分、ですか?」


「まだ足りへん」


答えは即座に返り、その迷いのなさがかえって場を静かにした。


「せやから、ここに来た」


朴紘範はわずかに目を細め、言葉の裏にある含みを静かに受け止める。


室内には短くない静けさが生まれ、その間に互いの思考が静かに巡っていった。


白俊は三人を順に見て、それぞれの見方の違いを楽しむように観察していた。


飛沫感染へ迷いなく辿り着く若者。

与える時期を正確に詰める者。

記録全体の組み方を見抜く者。


互いの素性を知らぬまま、それぞれの距離を保っているところもまた興味深かった。


白俊は口元だけで笑い、空気を変えるように次の言葉を投げた。


「ところで」


湯呑を静かに置き、わざと軽い話題へ移るような調子を作る。


「家の件やけど……」


白俊の言葉を受け取るように、尹怜が口を開いた。


「長期滞在になると思われる」


低く淡々とした声だった。


「何か希望はあるか?」


白俊は曖昧に唸る。


「うーん……」


その瞬間、ヨリが白俊の前にすっと横から紙が差し出された。


白俊は紙を見る。


“店がついているのがいい”


白俊はそのまま読み上げる。


「店がついてるのがいい、やって」


尹怜の眉がわずかに動いた。


朴紘範は静かに白俊を見る。


白俊はヨリの方を向いた。


「店って何やるんだ?」


ヨリはその質問があることを予想していたようで、あらかじめ書いておいた紙を白俊に渡す。


白俊は一瞬止まり、それから読み上げた。


「雑貨屋」


尹怜が腕を組む。


「……雑貨屋?」


声音に微かな困惑が混じる。


続いて、また紙が差し出され、白俊は読み上げながら苦笑した。


「生活費は自分で稼ぎます、やって」


朴紘範が小さく目を細め穏やかな声で言った。


「なるほど」


次の紙が渡され、白俊は目を通したが、そこで少しだけ表情が変わる。


“医者、薬屋はすでにある”

“開業して派手に儲けると、恨まれて消される”


白俊はその紙を見たまま、


「……それもそうだな」


とだけ言った。


すると尹怜が静かに言う。


「それも読め」


白俊は嫌そうな顔をしてヨリを見ると、ヨリは相変わらず冷たい表情のまま、こくこくと頷いた。


逃げるな、と言いたげなヨリの表情に諦めた白俊は諦めたように紙を持ち直す。


「医者、薬屋はすでにある、「開業して派手に儲けると、恨まれて消される」


朴紘範がゆっくり頷くいた。


「なるほど、わかりました」


尹怜はわずかに目を伏せる。


「……生活費を自分で稼ぐ、か」


尹怜の表情が、ほんの一瞬だけ寂しそうな、遠いものを見る目になった。

だが次の瞬間には、いつもの硬い表情へ戻っていた。


気づける者は少ない変化だった。


尹怜は心の中でだけ思う。


(この娘の態度は、自分の知っている娘に似ている)


ヨリは、その表情の変化を見逃さなかった。


それでも、冷たい表情は変わらない。


その後、ヨリが大きめの紙へ、迷いなく文字を書き始め、さらさら、と乾いた音だけが響いた。


そして書き終えた紙を、卓の中央へ静かに置く。


“世子様は呼んでもお給金まで出しませんよね”


白俊が吹き出しかけ、朴紘範は口元を押さえた。

尹怜は無言だったが、顔を動かさず視線だけ世子の方へ向けた。

世子はその紙を凝視した。


ヨリは全員が読んだことを確認すると、燭台の火へ紙を近づける。


紙は静かに燃え、黒く縮れながら灰になった。


その火を見つめていた世子はわずかに口元を緩めていた。


そして尹怜に向けて静かに声を出した。


「店付きの住居を探そう」


尹怜は静かに頷いた。


「数日内には」


朴紘範が簡潔に答え、そこに余計な感情は乗せなかった。


ヨリが再び白俊へ紙を渡す。


白俊はそれを読んで、納得したように頷く。


「酒場つきの宿がええらしい。

 しばらくはそこ使いたいって」


尹怜と朴紘範が頷いた。


続いて、もう一枚。


白俊は紙を見るなり、


「あー……そうだな」


と呟いき、そして三人へ向き直る。


「客の話から拾えることもあるってさ」


五人それぞれが別の計算を進めている。

仮面の下にある思惑は、まだ互いの手には渡っていない。


だが盤面は、すでに確かな音もなく動き始めていた。


ヨリは、世子を見ながら考えていた。


(ただの飾りじゃなさそうね)



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