第104話 それぞれの夜
夜。
灯りは小さく抑えられ、机の上には白俊の弟子見習いから渡された記録簿が置いてある。
尹怜は、何度も記録簿を読み込んでいた。
(新型ナルコラと同一と見てよい)
確信に近い。
発熱、乾いた咳、三日目前後に訪れる急変、そして呼吸困難の進行速度は、かつて自分が扱っていた症例とあまりにも一致している。
家族内での感染率の高さは、接触だけでは説明がつかない。
水源に関する記述はあるが、それは主因ではない。
(飛沫による伝播だ)
咳による飛散、呼気の滞留、閉鎖空間での曝露。
条件が揃えば、一気に広がる。
陽漢のような人口密集地で同じ現象が起これば、抑え込みは極めて困難になる。
問題は致死率だった。
現時点では記録上、爆発的な数値には至っていない。
しかし感染母数が増加すれば、死亡数は必ず跳ね上がる。
そしてもう一つ。
(速効葉)
投与群と非投与群で、呼吸状態の改善率に明確な差がある。
気道の炎症を抑えている可能性、あるいは免疫反応の過剰な増幅を制御している可能性。
ただし投与の時期が揃っていない。
初期か中期か、あるいは重症化後かによって結果が変わる。
重症化してからでは効果が薄れる兆候が見える。
記録は完璧に近い。
症状の推移、脈拍、呼吸数、そして死亡例の最終局面まで一切の抜けがない。
ここまで体系化できる医師は限られる。
尹怜はゆっくりと目を開いた。
明日、問うべきことを整理する。
潜伏期間の中央値。
無症状での感染の有無。
飛沫以外の伝播経路の可能性。
速効葉の最適な投与時期。
再感染の有無。
そして最後に。
(奴は、どこまで意図して伏せているのか?)
白俊という存在の奥にあるものを見極める必要があった。
同じ頃。
朴紘範も、記録簿の内容を頭の中で組み直していた。
(一致している)
発疹の有無による差はあるが、本質は呼吸器に集中している。
飛沫による感染は、家族内での拡がり方がはっきりと示していた。
井戸の記述は、誘導か、あるいは二次的な要因に過ぎない。
致死率には地域差がある。
栄養状態か、初期対応の差か、それとも別の環境因子か。
(速効葉の効果は確かに見える)
だが統計としてはまだ弱い。
症例数は十分でも、対照の取り方に揺らぎがある。
(意図的に残している)
完全に見せるのではなく、あえて余白を残している。
記録そのものは完璧だが、完璧すぎるがゆえに違和感がある。
脈拍と呼吸数の関係まで整理されている点は、この時代の医療観を超えている。
朴紘範は静かに息を吐いた。
明日、確認すべき点を思い浮かべる。
発症前の接触状況の詳細。
同室者との距離と時間。
布や衣服を介した伝播の可能性。
速効葉の抽出方法と再現性。
軽症例における自然回復率。
そして最も重要なのは。
(どこまで知っているか)
同じ領域を理解する者特有の感覚がある。
踏み込めば、反応で分かる。
宿の一室。
(どこまで気付くかな……)
そう考えながら、ヨリは会話用の帳面を整えていた。
宿の別室。
白俊は仰向けに寝転び、天井をぼんやりと眺めていた。
さて、と心の中で呟く。
誰がどこまで食いつくか。
カルテの構造に気づくか。
飛沫による感染を即座に見抜くか。
速効葉の投与時期に疑問を持つか。
そこまで踏み込んでくるなら、話は早い。
「楽しみやな」
小さく笑う。
軽く見せていたが、視線は冷静だった。
盤の上に置かれた駒は、すでに出揃っている。
あとは誰が、どこまで踏み込んでくるかだけだった。




