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鏡の王宮、眠る身体、動く身体 ーー体が動く間、別の名が呼ばれるーー  作者: 明日葉


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第103話 沈黙の診断

東宮殿では扉が閉ざされ、人払いが済むと、控えていた内官たちの足音だけが少しずつ遠ざかっていった。

やがて室内には、世子と弘文館校理、そして左副承旨の三人だけが残される。


世子は上座に座し、その前へ弘文館校理が三冊の記録簿を静かに差し出した。


「白俊より、疫病に関する詳細な記録にございます」


朴紘範がそう告げると、世子は何も言わず、最初の一冊を手に取った。

手に伝わる重みは紙の量だけによるものではないが、その表情に変化はない。


記録の頁を開く。


視線は静かに、しかし迷いなく一定の速さで文字を追っていく。

外から見れば、ただ記録に目を通しているようにしか見えなかった。


だが、その内側では別の思考が組み上がっていた。


(脈拍の推移、三日目で急変している)


数字の並びが頭の中で繋がる。


(発熱は四十度近く、咳と呼吸困難が強い)


喉の奥がかすかに乾く。


(発疹の有無で三型に分けている)


その瞬間、かつて知っていた病の記憶が重なった。

新型ナルコラ。

症状の進行、潜伏期間、急変までの速さが、あまりにも近い。


世子の指が、ある頁で止まる。


(家族内感染が高率で起きている)


飛沫。

接触。

水源についての記述もあるが、それだけでは説明がつかない。


呼吸器症状が強い型に関しては、答えはほぼ一つだった。


(飛沫感染だ)


世子は目を伏せる。

表情は変えない。

悟られぬよう、ただ静かに頁をめくり続ける。


二冊目。

三冊目。


共通点を拾い上げ、差異を切り分け、症状の強弱と地域差を頭の中で並べ直していく。


(致死率は、まだ抑えられる)


そして、その目がある記述に留まった。


「速効葉」


薬草の名である。

煎じて飲ませた例と、用いなかった例。

その両者には、明らかに改善率の差が見られた。


完治に至るものではない。

それでも呼吸の安定と回復速度には、無視できぬ違いが出ている。


(抗炎症作用か、それとも過剰な免疫反応を抑えているのか)


仮説は浮かぶ。

だが、証明にはまだ足りない。

それでも確かな手がかりにはなる。


世子は最後の頁を閉じた。


室内には誰も無駄な口を挟まず、張り詰めた空気の中で時間だけが静かに過ぎていく。


「邸下」


尹怜が慎重に声をかける。


世子はゆっくりと顔を上げた。


「明日、お忍びで宿へ行く」


短い言葉だったが、決定はすでに固まっていた。


「白俊に、直接会う」


二人の視線が揃う。


「承知いたしました」


朴紘範が応じる。


「供は最小限になさいますか?」


「二人だけでよい」


尹怜は一瞬だけ意外そうな顔を見せたが、すぐに元の表情へ戻した。


「危険かと思われますが・・・・」


「承知している」


世子の声は静かで、それだけに揺るぎがなかった。


「今は情報が優先だ」


朴紘範が深く一礼する。


「すぐに手配いたします」


「白俊には知らせるな」


「はい」


二人は下がっていった。

扉の向こうで気配が遠ざかり、室内には再び世子だけが残される。


目の前には三冊の記録簿がある。

世子は手を伸ばし、もう一度最初の頁を開いた。

今度は誰の視線もない。


(新型ナルコラ)


確信に近かった。

飛沫感染。

潜伏は短い。

急変は三日目前後に集中している。


そして・・・・


(速効葉)


完全な治療薬ではない。

だが、時間を稼げる。

そして時間は、そのまま命に繋がる。

世子はゆっくりと息を吐いた。


「白俊」


その名を独り、低く口にする。

完璧に近い記録。

分類の精度。

そして、あの軽薄さを装う仮面。


「いったい何者だ」


ただの流れの医師ではない。

疫病を読む目があり、記録の取り方を知り、なおかつ警告に温度を持たせることができる男だ。


世子は記録簿を閉じた。


外は静かだった。

だが、その静けさの下では、確かに何かが動いている。


「間に合うか」


自分に向けた問いだった。

だが、まだ答えは出ない。


外から入った風が扉をわずかに揺らし、その細かな音だけが静かな室内に残った。


明日、白俊に会う。

その先に何が待っているのかを見極めるために、世子は静かに立ち上がった。


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