第102話 三冊の記録
「疫病の話やな」
白俊は軽く頷きながら言い、ヨリに目で指示をして脇に置いていた荷の紐を解かせた。
「立て込んでるって、知らせに書いたやろ」
ごそりと音を立て、布に包まれていたものを取り出す。
「これ、まとめてたんや」
机の上に置かれたのは三冊の綴じられた記録簿であり、いずれも厚みがあり、持っただけで中身の密度が伝わってくる。
「どうぞ」
ヨリが二人に一部ずつ記録簿を渡しているあいだ、白俊は二人を見ていた。
「おふたりとも、目通ししといてや」
尹怜は一瞬だけ目を細めた。
「まさかとは思うが」
白俊がにやりと笑う。
「拒んでる思うたんですか」
図星だった。
朴紘範は表情を崩さず、わずかに笑みを深めるだけにとどめる。
尹怜は何も言わず、一冊を手に取った。
重みがある。
それは紙の量によるものではなく、記された内容そのものの重さだった。
表紙を開く。
整然と並ぶ文字。
患者の名は伏せられているが、年齢や居住地は詳細に記されている。
発症日、初期症状、経過の変化。
発熱の推移、脈拍、皮膚の状態。
服用させた薬の種類、煎じ方、量。
改善の兆候と悪化の兆候。
死亡例に関しては、最期の呼吸の様子まで記録されていた。
完全な記録だった。
推測と事実は明確に分けられ、感情は一切排されている。
ただ、記録だけが積み重ねられている。
朴紘範も一冊開き、同様に目を通していく。
症例は地域ごとに分類され、共通点が丁寧に整理されている。
その中で、ひときわ目を引く点があった。
「発疹の有無で三つに分けているのですね」
朴紘範が静かに言う。
「気づきましたか」
白俊は茶を口に運びながら応じる。
「発疹の出えへん型が、一番ややこしいんですわ」
尹怜は別の頁をめくる。
発症から三日以内に急変する例が記されているが、同居していた者に感染していない事例も存在する。
「感染経路が一定していない」
「せや」
白俊の声は淡々としている。
「せやから、立て込んでたんや」
二人は互いに顔を見合わせることなく、それぞれの頁を追いながら同じように読み解いていく。
感情を排し、医師の視点で情報を整理する。
症状の共通性。
致死率。
潜伏期間。
地域ごとの差異。
朴紘範の指がある頁で止まった。
「この村だけ、死亡率が極端に高い」
「水源が違うんや」
白俊は即座に答える。
「井戸の位置と家畜小屋の配置、その関係や」
尹怜の視線がゆっくりと上がる。
「井戸、か」
「せや」
白俊は軽く肩をすくめる。
「水は嘘つかへん」
その言葉とともに、室内の空気がわずかに冷えたように感じられた。
朴紘範は最後の冊子を閉じる。
「なぜ文で知らせなかったのですか」
静かな問いだった。
白俊は目を細める。
「当たり前やろ」
少し間を置く。
「こういう話は、分かるもん同士で顔合わせて話さんと意味あらへん」
茶碗を置く音が、小さく響く。
「文は残る」
「せやな」
「文では温度が伝わらへん」
白俊はわずかに身を乗り出す。
「今がどれくらい危ないか、それが分からんやろ」
その目は真剣だった。
「世子様にもお見せしといてくださいね」
軽く言うが、視線には強さがある。
「急いだ方がええと思うで」
最後だけ、わずかに軽い調子を戻す。
「脅しているのか」
尹怜が問う。
「事実言うてるだけや」
白俊はあっさりと答える。
「まだ抑えられる」
短く言葉を区切る。
「今ならな」
言葉のあと、誰も口を開かず、静かな時間がゆっくりと流れていく。
朴紘範は三冊を丁寧に重ねた。
「滞在先の件はどういたしましょう」
「後でええ」
白俊は軽く手を振った後、記録簿を指す。
「まずはこれや」
尹怜は迷いはなく立ち上がった。
「邸下へ届けます」
「すぐに参ります」
朴紘範も立ち上がり、三冊を抱える。
二人が部屋を出ようとすると、ヨリがもう一つの包みを尹怜に差し出した。
白俊がヨリの行動を説明する。
「世子様にも一部渡してください、という意味や」
尹怜がヨリから包みを受け取りった。
白俊はそれを見送りながら、もう鼻歌を口にすることはなかった。
ただ静かに二人の背を見つめる。
「間に合えばええんやけどな」
小さく呟く。
扉が閉じられ、外へ急ぐ足音が遠ざかっていく。
尹怜と朴紘範は宮廷へ向かう。
腕に抱えた三冊は重い。
それは紙の重さではなく、迫りつつあるものの重さだった。
外では風が強く吹いている。
静かだった盤面は、確実に動き始めていた。




