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鏡の王宮、眠る身体、動く身体 ーー体が動く間、別の名が呼ばれるーー  作者: 明日葉


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第101話 甘くない菓子


「ふん、ふふふん、ふふふん、ふふふん、ふんふん」


陽漢の城門をくぐった瞬間、白俊は足を止めて空を見上げ、春の淡い光を眩しそうに細めた目で受け止めながら、どこか弾むような調子で鼻歌を口ずさみ始めた。


「ふん、ふふん、ふふふん」


歌詞はなく、ただ軽快で妙に調子の良い旋律だけが続き、その上機嫌さに周囲の人々が思わず振り返るほどだった。

白俊のそばにいるヨリは、師匠の鼻歌に合わせて歩調を保っているようにも見えた。


「やっぱ都はええなぁ、空気も違うわ」


誰に向けるでもなく呟きながら、肩にかけていた荷を軽く担ぎ直し、まるで観光に訪れた旅人のような顔つきで軽やかな足取りを進めていく。


やがて弘文館校理の使いが近づき、礼を尽くして頭を下げた。


「白俊様でございますね、宿へご案内いたします」


「おや、もう迎えに来てくれたんか、仕事が早いなぁ」


白俊は目を細め、口元に楽しげな笑みを浮かべる。


「これ、歓迎されてる思てええんやろか」


「そのように、お考えいただければ」


やや曖昧な返答にも気にした様子はなく、再び鼻歌を口ずさみながら案内に従った。


案内された宿は外見こそ質素だが、門番の配置や周囲の気配には一切の隙がない。


白俊は何も言わず、その場の空気だけを静かに受け取る。


やがて奥の部屋へと通され、扉が音もなく開かれた。


中にはすでに二人が座していた。

弘文館校理朴紘範は穏やかな微笑を浮かべ、左副承旨尹怜は背筋を正し、隙のない姿勢で迎えている。


「ようこそ陽漢へお越しくださいました」


「いやぁどうもどうも、わざわざすんませんな」


白俊は大げさなほど丁寧に一礼し、そのまま自然な動作で室内へと入る。


弘文館校理が静かに奥を示す。


「こちらへどうぞ」


白俊とヨリが腰を下ろすのを見届けたあと、尹怜は無言で茶の支度を始めた。


白湯を注ぎながら、ふと視線が白俊とヨリへと向く。

その横顔を見た瞬間、ほんの一瞬だけ、どこかで見たことがあるような感覚が胸の奥をかすめた。


(二人ともどこかで会ったか?)


だが、すぐにその考えを自ら打ち消す。


ここに、自分の知る人物がいるはずがない。


似ているだけだと考える方が自然であり、それ以上を考える必要はないと、尹怜は意識的に思考を切り離した。

表情には一切出さず、何事もなかったかのように手元へ視線を戻し、茶の支度を続ける。


湯の音は澄んでおり、その静けさが場の緊張を際立たせる。


やがて四人分の茶が整えられ、さらに皿の上に載せられたものが差し出された。


「ほう」


白俊は目を細める。


「蒸した芋かいな」


素朴で飾り気のない一品であり、その意図が透けて見える。


尹怜は丁寧な所作で差し出した。


「どうぞお召し上がりください」


「これはまた、ずいぶん潔い歓迎やなぁ」


白俊は笑いながら受け取り、三人は改めて名を名乗る。


「弘文館校理、朴紘範と申します」


「左副承旨、尹怜でございます」


「白俊です、流れの医者やっとります」


「こっちは、弟子見習いです」


短い挨拶が交わされ、茶の香りがゆっくりと広がっていく。


朴紘範が口を開こうとした、その瞬間だった。


「さてな」


白俊が先に言葉を差し込む。


「本題入る前に、ちょっと当ててみてええか」


尹怜の指先がわずかに動いた。


「当てる、とは」


「うん、軽い遊びや」


白俊は蒸した芋を一口かじり、ゆっくりと咀嚼しながら言葉を続ける。


「誰か、めっちゃ偉い人が診察待ちとかやろか」


尹怜の眉がかすかに寄る。


ヨリは冷たい視線で尹怜を見つめていた。


「それともや」


白俊はにやりと笑う。


「世子嬪様のご懐妊を願うて呼ばれた、とかやったりしてな」


茶碗を持つ尹怜の手が一瞬だけ止まる。


朴紘範は微笑を崩さない。


「あるいは、もっと別の話かもしれへんなぁ」


軽い口調のまま続けながら、白俊は芋を軽く掲げた。


「ところで、この蒸した芋は誰の発案や」


尹怜の表情がほんのわずかに引き締まる。


「贅沢やないし、胃にも優しいし、けどどこか線引いとる感じもする」


白俊は楽しげに言う。


「歓迎はしてるけど、油断はしてへん、そんなとこやろ」


言葉のあと、しばらく誰も口を開かず、静かな時間がゆっくりと流れていく。


朴紘範の微笑は崩れず、尹怜は静かに茶を置いた。


「白俊殿」


声は落ち着いている。


「推測を楽しまれるご様子で」


「長旅のあとやし、ちょっとした暇つぶしや」


白俊はあっさりと返し、残りの芋を口に入れて軽く手を払った。


「さてな」


視線が二人を行き来する。


「どこまで合っとりますか?」


尹怜のこめかみにわずかに力が入る。


しかし口を開いたのは朴紘範だった。


穏やかな声で、はっきりと。


「疫病のことです」


空気が変わる。


白俊の目がわずかに細くなり、それまでの軽さが静かに消えていく。


「やっぱり、そこやったか」


声の調子は落ち着いている。


先ほどまでの軽薄さは、まるで仮面だったかのように消えていた。


尹怜はその変化を見逃さない。


「状況はどう見ておられますか」


朴紘範が続ける。


「思っていたより静かです」


「静か、言うてもな」


白俊は茶を一口飲む。


「静かな疫病ほど厄介なもんはあらへんで」


誰も否定しない。


その言葉は重く、そのまま場に沈んでいく。


「でや」


白俊は真顔で問い直す。


「どこまで掴んどるんや」


朴紘範は、わずかに目を細めた。


「それを確かめるためにお越しいただきました」


尹怜は、ゆっくりと息を整える。


この男は決して陽気なだけの医者ではない。


白俊は、静かに笑った。


「ほな」


姿勢を正し、空気を引き締める。


「ほんまに本題やな」


卓の上に置かれた蒸した芋の皿は、いつの間にか空になっていた。


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