第100話 風を呼ぶ者
宮中でありながら建物の外に出ると、石畳を抜けた先に小高い場所へ続く細い道があり、その先には視界を遮るものが少なく、陽漢の屋根が遠くまで見渡せた。
世子はその場所に立ち、両手を後ろで軽く組みながら、街の広がりを静かに見下ろしていた。
やがて足音が近づく。
「邸下」
弘文館校理が一礼する。
「左副承旨はどうした」
「本日は執務に戻っておりますが、珍しく疲労が表に出ておりました」
声音には、わずかに面白がる気配が混じっている。
世子は振り返らぬまま問いを重ねた。
「原因は分かっているのか?」
「ええ、白俊から届いた文に追伸が添えられておりました」
弘文館校理は懐から文を取り出し、静かに差し出す。
「招かれた身ではあるが、しばらく陽漢に留まるつもりであり、滞在先を望む、
女性の弟子見習いを同伴する、とのことです」
言葉のあとに、しばしの間が生まれる。
やがて世子の口元が、わずかに緩んだ。
「なるほど」
「左副承旨は納得しておりませんでした」
「珍しく顔に出だした、か」
「ええ、はっきりと」
世子はゆっくりと歩き出し、弘文館校理も半歩遅れて並ぶ。
「滞在先はどうする」
「いくつか案はございますが、中央で活動している鏡咸金氏に隠密で依頼し、家を探させるのがよろしいかと考えております」
世子は前を見たまま、わずかに頷いた。
「表立って動けば目立つ」
「はい、鏡咸金氏であれば自然な形で探すことが可能です」
「条件はどうする」
「本人に直接確認するのが最善でございます」
世子は軽く息を吐いた。
「最初の二、三泊はどうする?」
「無難で警備の整った宿へ案内し、その間に家を整えます」
「希望があれば、それも聞き入れる形にいたします」
風が吹き、衣の裾がわずかに揺れる。
世子は視線を遠くに向けたまま、静かに言った。
「滞在は長くなる」
「その可能性が高いかと存じます」
「理由は書かれていないのだな」
「明言はされておりません」
「だろうな」
世子は街の景色を見つめたまま続ける。
「迎えはどうする」
「私と左副承旨で向かいます」
「わかった」
短く、明確な返答だった。
「到着次第、知らせを入れよ」
「すぐに」
「翌日、私も会う」
弘文館校理は目を伏せ、静かに応じる。
「邸下自ら、でございますか」
「招いたのはこちらだ」
その言葉に迷いはなかった。
「知らせは遅らせるな」
「承知しております」
言葉が途切れ、二人の間に静かな時間が流れる。
広がる陽漢の街は変わらず穏やかで、その静けさがかえって際立っていた。
「校理」
「はい」
「左副承旨は何と言っていた?」
弘文館校理は、わずかに口元を緩める。
「追伸で済ませる内容ではない、と」
世子は小さく笑った。
「確かにそうだ」
「ですが」
弘文館校理は続ける。
「私は朗報である可能性もあると考えております」
「朗報か」
「外から風が入ることになります」
世子はようやく視線を弘文館校理へ向けた。
「宮中は、あまりにも静かすぎる」
視線が交わる。
「嵐を呼びたいのか」
「いえ、そのような意図はございません」
弘文館校理は首を横に振る。
「ただ、風がなければ淀みはそのまま澱となります」
世子は再び街へ目を戻した。
「白俊が、そのような停滞を好むとは思えぬ」
「同感でございます」
風が先ほどよりやや強く吹き抜ける。
「鏡咸金氏には今日中に伝えよ」
「すぐに手配いたします」
「宿の準備も怠るな」
「抜かりなく進めます」
世子は歩き出し、弘文館校理は一礼して半歩下がる。
「到着の日、遅れるな」
「承知しました」
世子は振り返ることなく進む。
見晴らしのよい場所を離れ、二人は宮中へと戻っていく。
静まり返った盤の上に、外からの一手が確実に近づいていた。




