【証拠はいらない×ホラー】いい人なんです
事務所のドアが開いた。
「……相談、いいですか?」
女だった。
二十代後半くらい。少し疲れた顔をしていた。
「どうぞ。愚痴でも人生相談でも歓迎」
女は椅子に座ると、少し迷ってから言った。
「彼氏のことなんです」
「うん」
「いい人なんです」
よくある始まりだった。
「暴力もないし、浮気もしないし、ちゃんと働いてるし」
「そうか」
「優しいんです」
女は少し黙る。
「でも、別れたいんです」
「理由は?」
女は首を振る。
「分からないんです」
「分からない?」
「何も悪いことされてないんです。でも、なんか……怖いんです」
俺は黙って聞く。
「怒られたこともないし、殴られたこともないし、束縛もないって言えばないし」
「言えばない?」
「……毎日、家の前まで迎えに来ます」
「うん」
「仕事終わる時間、教えてないのに、だいたいいるんです」
「うん」
「友達とご飯行くって言うと、『迎えに行くよ』って店の前にいます」
「うん」
「この前、スマホ壊れたって言ったら、次の日同じ機種買ってきてくれて」
「うん」
「お金はいいって言ったのに、『いいから』って」
女は少し笑う。
「優しいですよね」
俺は何も言わない。
女は続ける。
「でも、なんか……逃げたくなるんです」
沈黙。
「別れたいって言ったことあるか?」
「あります」
「なんて言われた」
「『そっか。じゃあ、別れる前に最後に旅行行こう』って」
「旅行?」
「はい。予約ももうしてあって」
「行ったのか」
「行きました」
「どうだった」
女は少し考える。
「……すごく楽しかったです」
「そうか」
「だから、別れにくくなって」
「なるほど」
女は下を向く。
「私、ひどいですよね。こんないい人なのに、別れたいなんて」
俺は言う。
「いい人なんだろうな」
女は小さくうなずく。
「はい」
「でも、怖いんだな」
女は少し黙ってから、うなずいた。
「……はい」
「じゃあ、別れろ」
女は顔を上げる。
「理由、ないのに?」
「理由がないのが一番まずい」
女は黙る。
「人はな」
少し考える。
「本当に危ないとき、理由なんて分からない」
「え?」
「なんとなく嫌だとか、なんとなく怖いとか、そういうのはだいたい当たる」
女は長い間、黙っていた。
それから、小さく言った。
「……分かりました」
立ち上がる。
「ありがとうございました」
帰っていった。
ドアが閉まる。
奥から相棒が出てくる。
「今の人、何の相談?」
「彼氏と別れたいって」
「別れればいいじゃん」
「理由がないって言ってた」
「理由なくても別れる人いっぱいいるでしょ」
「そうだな」
相棒はソファに座る。
「でも、いい人なんでしょ?」
「ああ」
「じゃあ、もったいなくない?」
「かもな」
それから数週間。
ニュースを見ていた相棒が声を上げた。
「あ」
「どうした」
「この人」
スマホを見せてくる。
ニュース記事。
『交際相手の女性を監禁した疑いで男を逮捕』
写真が出ていた。
この前の相談者の彼氏だった。
「……あの人だ」
「そうだな」
「前の彼女、半年くらい部屋に閉じ込めてたって」
俺はコーヒーを飲む。
相棒が小さく言う。
「ねえ」
「なんだ」
「なんで分かったの?」
俺は少し考える。
「分かってない」
「え?」
「本人が怖いって言ってただけだ」
相棒は黙る。
俺は言う。
「理由は後からついてくる」
「先に分かるのは、だいたい気持ちの方だ」
相棒はニュースの記事を見ながら言う。
「……あの人、逃げて正解だったね」
俺はノートを開く。
来訪者記録。
名前の横に書く。
『別れたい 解決済』
ノートを閉じる。
「証拠はいらない」
相棒が言う。
「なんで?」
俺は答える。
「理由は、後から分かるからだ」




