上の人
上の階の人は、静かな人だった。
足音もあまりしないし、話し声も聞こえない。
住んでいるのかどうかも、よく分からないくらいだった。
でも、夜になると、音がした。
水の音。
ザーッという、何かを流しっぱなしにしているような音。
最初は、風呂だろうと思った。
夜に入る人もいる。
でも、その音は毎日した。
時間も、だいたい同じだった。
夜中の二時。
目が覚めると、水の音がする。
ザーッ。
ザーッ。
何十分も、止まらない。
長すぎると思った。
風呂にしては、長い。
シャワーというより、何かをずっと流している音だった。
ある日、ふと気づいた。
昼間にも、水の音がすることがある。
夜中にも、昼にも、長い時間、水を流している。
何をしているんだろうと思った。
⸻
ある夜、いつものように水の音で目が覚めた。
ザーッ。
しばらく聞いていると、急に音が止まった。
シン、と静かになる。
そのあと。
ゴン。
何か重いものを置くような音がした。
少しして、また水の音が始まった。
ザーッ。
そのとき、変なことを考えてしまった。
何かを、洗っているんじゃないか。
そう思った。
思った瞬間、急にその音が怖くなった。
それまで、ただの生活音だったのに。
⸻
数日後、マンションの前にパトカーが止まっていた。
近くで、事件があったらしい。
帰宅途中の人が、行方不明になったと、噂で聞いた。
私は、それ以上は聞かなかった。
その夜も、水の音がしていた。
ザーッ。
ザーッ。
⸻
ある日、昼間にマンションの階段で、上の階の人とすれ違った。
初めて顔を見た。
普通の人だった。
「こんにちは」
そう言って、軽く会釈をした。
「……こんにちは」
いい人そうだと思った。
静かで、普通の人だった。
⸻
それからも、毎日水の音がする。
夜中の二時。
ザーッ。
ザーッ。
私は、その音がすると、目が覚めるようになった。
耳を澄まして、音を聞いてしまう。
何をしているのか、知らない。
ただ、水の音がするだけだ。
証拠は、何もない。
ただの生活音かもしれない。
でも私は、夜中に水の音がすると、息を止めてしまう。
上の階の人は、今日も静かだ。
会えば、軽く会釈をする。
普通の人に見える。
証拠は、何もない。
でも私は、たぶん、この音を一生忘れないと思う。




