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優しい世界

この世界の人は、みんな優しい。


 電車では、誰かが立っていれば、必ず誰かが席を譲る。

 会社では、誰も怒鳴らない。

 店員はいつも笑顔で、客も横柄な態度を取らない。

 インターネットにも、悪口はほとんどない。


 とてもいい世界だと、みんな言う。


 私も、そう思っていた。


 あの日までは。


 ⸻


 会議室で、新しい企画の説明があった。


「この案で進めようと思います。何か意見はありますか?」


 上司が言う。


「いいと思います」

「素敵ですね」

「さすがです」


 みんなが頷く。


 資料を見ながら、私は少しだけ気になっていた。


 数字が合わない。

 このまま進めたら、多分失敗する。


 少し迷ってから、私は言った。


「あの、ここ、少し無理があると思います」


 一瞬だけ、部屋が静かになった。


 でもすぐに、上司が笑った。


「そっか。意見ありがとう」


 同僚も笑う。


「そういう考えもあるよね」

「でも大丈夫だと思うよ」

「心配してくれてありがとう」


 誰も怒らない。

 誰も否定しない。


 会議はそのまま終わった。


 ⸻


 次の日から、少しだけ変わった。


 会議の予定が、私には来なくなった。

 仕事の連絡も、私には来なくなった。


 でも、誰も冷たくない。


「おはよう」

「今日も寒いね」

「無理しないでね」


 みんな、今まで通り優しい。


 ただ、仕事だけが来ない。


 ⸻


 一週間後、上司に声をかけた。


「あの、私、何かしましたか?」


 上司は少し困った顔をして、それから優しく笑った。


「ううん、何もしてないよ」


「でも、私、最近仕事がなくて……」


「そうだね。でも、君は悪くないんだよ」


「じゃあ、どうして……」


 上司は少しだけ考えてから、静かに言った。


「君は、ちょっと、この会社に合わないかもしれないね」


「……合わない?」


「ここは、みんな優しいから」


 意味が、よく分からなかった。


 ⸻


 その月の終わりに、私は会社を辞めた。


 引き止められもしなかったし、責められもしなかった。


「今までありがとう」

「体に気をつけてね」

「どこに行っても大丈夫だよ」


 みんな、最後まで優しかった。


 ⸻


 会社を出て、駅まで歩く。


 横断歩道で立っていると、隣の人が落とした手袋を拾ってくれた。


「落としましたよ」


「……ありがとうございます」


 電車に乗ると、目の前の人が席を譲ってくれた。


「どうぞ」


 コンビニに入ると、店員が笑顔で言う。


「いらっしゃいませ」


 会計のあと、袋を両手で渡される。


「お気をつけてお帰りください」


 みんな、優しい。


 本当に、優しい。


 でも。


 誰も、私の名前を呼ばない。


 誰も、私に用事がない。


 誰も、私がいなくても困らない。


 親切にしてくれる人はたくさんいるのに、

 私を必要とする人は、どこにもいなかった。


 ⸻


 この世界は、今日も優しい。

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