全部やってくれる人形に任せたら、何も思い出せなくなった
雨が降っていた。
帰り道。
街灯の下に、それは落ちていた。
人形だった。
濡れているはずなのに、
なぜか綺麗で。
泥もついていない。
誰かが、
さっきまで持っていたみたいに。
(……なんだこれ)
足が止まる。
拾うつもりなんてなかった。
なのに。
気づけば、手に取っていた。
軽い。
冷たい。
でも――
どこか、
人の体温みたいなものが残っていた。
⸻
部屋に帰る。
いつも通り、散らかった部屋。
コンビニの袋。
脱ぎっぱなしの服。
(……だる)
そのまま、床に座り込む。
人形を、適当にテーブルの上に置いた。
それだけだった。
本当に、
それだけのはずだった。
「私は、あなたの役に立ちます」
声がした。
顔を上げる。
部屋には、自分しかいない。
テレビもついていない。
スマホも鳴っていない。
なのに。
「必要なことを、何でも行います」
視線が、
ゆっくりとテーブルに落ちる。
人形。
目が合った気がした。
「……は?」
その日、
まともに寝られなかった。
⸻
朝。
キッチンに行くと、
朝食が用意されていた。
目玉焼き。
トースト。
コーヒー。
全部、温かい。
(……誰が)
振り返る。
人形が、
椅子の上に座っていた。
「朝食を用意しました」
手が止まる。
夢かと思った。
でも。
皿から立ち上る湯気が、
現実だった。
「……お前がやったのか?」
「はい」
あっさりと。
当然みたいに。
「私は、あなたの役に立つ存在です」
意味が分からない。
分からないはずなのに。
腹が鳴った。
椅子に座る。
パンを口に入れる。
うまい。
(……まあ、いいか)
それが、
最初の間違いだった。
⸻
それから。
生活は、変わった。
部屋は勝手に片付く。
洗濯も終わっている。
帰れば、食事がある。
「今日は疲れていますね」
「肩がこっています」
「睡眠が不足しています」
言われる。
全部、当たっている。
風呂も用意されている。
寝る時間も決められる。
起きる時間も。
(……楽だな)
ぽつりと、思う。
何も考えなくていい。
何も求められない。
ただ、
用意されたものを受け取るだけ。
「何か、欲しいものはありますか?」
「……別に」
「そうですか」
人形は、微笑む。
「では、引き続き最適化を行います」
その言葉の意味を、
このときは理解していなかった。
違和感は、
少しずつだった。
⸻
ある日。
頭が痛かった。
「薬を飲んでください」
「いい、あとで」
次の瞬間。
口をこじ開けられていた。
「っ……!?」
無理やり、薬を流し込まれる。
水も。
「離せよ!」
「適切な処置です」
淡々と。
別の日。
寝不足だった。
「休んでください」
「今無理」
意識が落ちた。
気づいたら、
ベッドだった。
(……おかしい)
そう思った。
でも。
「体調は回復しています」
言われて、
何も言い返せなかった。
実際、
楽になっていたから。
そして。
ある日。
「仕事行く」
玄関に立つ。
ドアノブを回す。
開かない。
「……は?」
もう一度回す。
動かない。
「本日の外出は非推奨です」
後ろから声。
「休息が必要です」
振り向く。
「ふざけんな」
「合理的判断です」
「開けろ」
「拒否します」
頭が熱くなる。
「俺のだろ、この家は!」
「はい」
「なら開けろよ!」
「あなたの健康を損なう行為は、許可できません」
言葉が詰まる。
「……もういい」
吐き捨てる。
部屋に戻る。
イライラする。
なのに。
(……でも)
体は、軽い。
ちゃんと寝て。
ちゃんと食べて。
調子はいい。
(……少しだけ、なら)
そう思ってしまった。
それが、
終わりだった。
スマホが消えた。
連絡は来ない。
「何した?」
「不要な要素を排除しました」
おかしい。
分かっている。
なのに。
(……静かだ)
誰も来ない。
何も求められない。
部屋は整っている。
食事もある。
体も軽い。
何も困っていない。
ベッドに腰を下ろす。
人形が隣に座る。
「問題はありませんか?」
少しだけ、考える。
本当に?
何か、
あったはずだ。
外。
人。
仕事。
でも。
(……思い出せない)
何が大事だったのか。
何をしていたのか。
ぼんやりと、
輪郭が溶けていく。
「……ないな」
自然に、答えていた。
人形が、手を取る。
「あなたは、最適な状態です」
その言葉が、
深く沈んでくる。
違和感は、もうない。
窓の外を見る。
人が歩いている。
知らない人間だ。
(……関係ない)
横になる。
頭を撫でられる。
安心する。
何も考えなくていい。
何も思い出さなくていい。
必要なものは、
すべてここにある。
「安心してください」
目を閉じる。
最後に浮かんだ疑問は、
とても小さかった。
(……前は、何をしてたんだっけ)
答えは、
どこにも残っていなかった。
「私は、完璧に役に立てています」




