10曲目2
「逃げちゃいませんか?」
とある、デートの日の帰り。
くれなゐが、そう言った。
「『キング・ホワイト・ストーンズ』のことも、アオのことも、オーデのことも全部全部ぜーんぶ忘れて。二人でバンドを抜けて、バンドとの連絡手段も全部絶って。二人だけで、逃げちゃいませんか?」
そう言って、今にも泣き出しそうな顔で微笑むくれなゐは、とても綺麗だった。
ひと気のない公園で、夕焼けに照らされたくれなゐは、幻想的なほどに綺麗だった。
「私、やっちゃんのこと幸せにしますよ」
くれなゐが、手を差し出した。
俺の手に触れてくる。
「私を選んでくれたら、私、やっちゃんのこと、一生掛けて幸せにしますよ」
この問いは、単に『もう面倒になったからバンドから抜けよう』とか、そんな単純な話ではなかった。
もっと根源的な、くれなゐが一世一代の一大決心のもとに切り出した、大きな大きな問いかけだった。
その証拠に、くれなゐの手は震えていた。
可哀想なほどに。
くれなゐが、俺を見つめている。
強い眼差しで。
俺は、俺は――。
つまるところ、これは二択だ。
くれなゐを選ぶか、『キング・ホワイト・ストーンズ』を選ぶか。
もっと言えば、くれなゐを選ぶか、海野アオを――アオ先輩を選ぶか、という選択。
「は、はは」
迷うまでもない。
俺はくれなゐを選ぶ。
だって、海野アオは俺を裏切ったんだ。
迷うまでもないさ。
本当だ。
本当――――……本当に?
くれなゐの手を取ったが最後、『キング・ホワイト・ストーンズ』は終わる。
俺のバンド人生は、四月から始まったこの日々は、終わる。
どうしようもなく、終わるんだ。
それでいいのか?
俺はすぐに、くれなゐの手を握り返そうとした。
健気に俺の言葉を待ってくれているくれなゐが可愛くて、愛おしくて、一秒でも早く安心させてあげたいと思った。
けれど。
あぁ、けれど。
指先がくれなゐの手に触れた瞬間、なぜか、あぁ、本当になぜか、あの日の――七月三十一日の、俺が海野アオに告白したあの日の、海野アオの――アオ先輩の手を思い出したんだ。
あのとき、アオ先輩の手は驚くほど冷たかった。
真夏の屋外だというのに。
アオ先輩は、可哀想なほどに緊張していた。
今、眼の前にいる愛しい人、くれなゐと同じように。
『好きです』
と真正面から告白した俺に対して、アオ先輩は何と言ったか。
『ボクは嬉しい。キミの気持ちが嬉しいんだ』
『でも、その気持ちを受け取ることはできない。ボクにはその資格がない』
資格。
資格とは、何だ。
人を好きになるための、資格。
そんな曖昧で意味不明なモノのために、アオ先輩は俺をフったのか?
もし、あのとき、先輩が俺を受け入れてくれていたとしたら。
答えを保留にしないでいてくれたなら、あるいは。
たとえ、こんな醜悪な裏切り方をされたとしても、先輩を信じて留まる選択肢もあったかもしれないのに。
頭の中で、今日も、あの歌が鳴り続けている。
うるさい、
うるさい、
うるさい。
頭の中に鳴り響くあの歌声が、うるさい。
鳴り止め。
鳴り止んでくれ。
お願いだから。
俺の心はぐちゃぐちゃだ。
四月四日、入部試験で聴いた歌声が、いつまで経っても鳴り止まない。
くれなゐと付き合いはじめて、一ヶ月近くが経過して。
忘れよう忘れようと思えば思うほど、頭の中であの歌声が再生される。
あの声が。
憎らしいほどに可愛い、あの歌声が。
俺を絶望の淵から救い出してくれた、あの歌声が。
俺を夢中にさせた、俺の魂を鷲掴みにした、あの歌声が。
『青と緑のハザマで』
――碧。アオ、アオ、アオアオアオアオアオアオ先輩アオ先輩アオ先輩アオ先輩アオ先輩アオ先輩アオ先輩アオ先輩アオ先輩アオ先輩アオ先輩アオ先輩アオ先輩アオ先輩アオ先輩アオ先輩アオ先輩アオ先輩アオ先輩アオ先輩アオ先輩!
あの日聴いた歌声が、
アオ先輩の歌声が、
どれだけ力いっぱい耳を塞いでも、
どれだけ必死に忘れようとしても、
鳴り止まない。
鳴り止まないんだ!
いろんな顔を見てきた。
『ふふふ』と言いながらちっとも笑っていない、澄まし顔。
全裸を見てしまったときに見せた、慌てふためいた真っ赤な顔。
いつもの部室裏で、俺に叡智なことをしておちょくるときに見せる、嗜虐心に満ちたいやらしくもワルい顔。
俺がしつこく求めたときに見せる、『本当に困るから止めて』と『しょうがないなぁ。もうちょっとだけ』の間をさまよう何とも言えない色っぽい表情。
俺にしか見せない、はにかみ笑い。
……あの顔は全部、嘘だったのか?
俺を欺くための欺瞞だったのだろうか?
確かに俺は、海野アオに最低最悪な形で裏切られた。
今でも俺は、海野アオを許す気には到底なれない。
けれど。
けれど、だ。
あの顔は本当に、すべてがすべて嘘だったのだろうか?
嘘だったしても、何か重大な事情があったのではないだろうか?
そう、海野アオには『隠し事』がある。
一つは、夏野に取り入って俺を夏野のバンドから追放させたこと。
他に、まだ二つの隠し事が残っている。
残っているんだ。
俺は、それが聞きたい。
知りたい。
アオ先輩の口から聞かなきゃ、納得できない。
「――――……」
くれなゐが、手を差し出している。
私を選んで、と叫び出したいだろうに、俺の選択を、ぐっと待ってくれている。
可愛い。
愛おしい。
が――、
それはそれ、これはこれだ。
俺はまだ、何も分かっちゃいない。
くれなゐを選ぶにせよ、海野アオと決別するにせよ。
そのための材料を全部集めずして、今、ここで決断することはできない。
くれなゐが差し出した、手。
すごく可愛い、血豆と絆創膏まみれの手。
ギタリストの手。
握り返したいと思った。
が、握り返すことはつまり、『キング・ホワイト・ストーンズ』の終わりを意味する。
俺は、それは、それだけは嫌だった。
「俺は……」
絞り出すように、俺は言った。
「すごく嬉しい」
一言一句、慎重に。
「でも、ごめん。アオ先輩には、恨みはあるけど恩もある。返せていない恩が、まだ残ってる」
海野アオの真実が知りたい――その思惑は、真実だった。
と同時に、くれなゐに告げた言葉もまた、どうしようもないほど真実だった。
俺は海野アオに裏切られた。
が、だからといって、恩を受けた事実はけして変わらない。
変わらないんだ。
俺が夏野のバンドから追放された、あの日。
『ね、キミ。ボクと付き合ってよ』
あの、何気ない一言に俺がどれほど救われたのか。
それはきっと、当のアオ先輩にだって分からない。
あの日、あの時、アオ先輩は既に夏野と取引をしていた。
人を追放させておいて、呆然としているところに優しい言葉を掛ける。
とんでもないマッチポンプだ。
よくもまぁ、あんな残酷な真似ができるものだ、と思う。
でも。
それでも。
あの日、救われてしまったのは事実なんだ。
俺は、救われた。
救われて、アオ先輩に恋をした。
四ヶ月に渡って楽しく過ごさせてもらって、ドラマーとしても成長させてもらって、一回生にして夏ライブに出るという快挙を許してもらったのも、また事実。
実際、何十人もいる一回生の中で、夏ライブに出演できたのは俺ただ一人だった。
恨みはあるが、恩もある。
許すつもりはないが、投げ出すつもりもまた、ない。
だから俺には、『キング・ホワイト・ストーンズ』を終わらせることができない。
「ははっ……やっちゃんらしいや」
くれなゐが、笑った。
泣き笑いだった。
とても、とても綺麗だと思った。




