森の情景
四月一日。
若葉の芽吹く樹々の隙間から、木漏れ日が差す。
昨日おろしたばかりの真っ黒な制服に、小さな光の斑点模様が揺れていた。
今日は、白鈴女学院の入学式。
教師が祝辞を述べている途中で式典を抜け出した私は一人、学院の敷地内に広がる森へと足をふみ入れていた。
森の入口は暗く、私の死体を隠す良い隠れ蓑になってくれそうだと思ったが、進むにつれて日差しが見え隠れするようになってきた。
死に場所にしては少し明るすぎるかもしれないが、まあ及第点だろう。
右手に握りしめた、「双華の誓い」を示す赤い編み紐を見る。
まるで縄のように編まれた紐は丈夫そうだ。
先ほどまで、私の右手はこの重苦しい縄で、同級生の少女の左手に繋がれていた。
優しく穏やかな雰囲気の少女にはすごく好感が持てたが、最愛の姉以外の人間と、唯一無二の関係を持つというのはなんだか受け付けなかった。
私の姉は、四年前にこの学院に入学した。
そして、ついこの前の三月に、私と入れ違いで卒業しているはずだった。
入学式の最中、息を切らして乱入してきた警備隊の重苦しい声が、いまも耳の奥に残っている。
『……式典中に申し訳ございません。先月より行方不明となっていた旧・四年生の特待生、リカさんについてご報告です。学院裏の湖の近くにて、彼女の履物が発見されました。現在、入水自殺の線で遺体の捜索をしているので、在校生の皆さんは湖には近づかないように――』
その言葉が発せられた瞬間、参列していた上級生たちの間に動揺が走り、静まり返っていた講堂にざわめきが広がった。
そうか、お姉ちゃんはもういないのか。
理解した瞬間、私は騒ぎに乗じて双華の誓いの紐をほどき、ここまでやって来たのだった。
*
四年前、最愛の姉・リカと引き離された時、私の世界は一度終わりを迎えた。
この学院に入学すれば、在学中は外の世界との一切の交流が絶たれる。
家族との面会はおろか、文通すら許されない。
そして卒業と同時に、顔も知らぬ王族や貴族のもとへ嫁ぎ、二度と故郷へ帰ることは叶わないのだ。
その時には既に、私も学院に進むことは決まっていたが、私が入学できるのは姉が卒業した後。
再会することはできない。
もう、生きている意味などないと思った。
それでも、私にはたった一つの希望があった。
(卒業したら、お姉ちゃんと同じ場所に嫁げばいい。そうすれば、また二人で暮らせる)
それだけを生きる糧にして、四年間の孤独を耐えてきた。
*
そんな健気な私を待っていたのが、この結末。
あまりにも酷すぎる。
今の私には生きていく理由なんて、どこにも残されていなかった。
森の奥へと進むにつれ、新緑の匂いが濃くなっていく。
生い茂る木々の葉が風に擦れ合う音を聞いていると、生まれ育った田舎村の風景が蘇る。
昨日この学院にやってきたばかりだったが、もう故郷が恋しい。
固くて冷たい石造りの学院は、私にとっては居心地が悪かった。
ふと、他の木々を圧するほど巨大な幹を持つ、一本の古木が目に入る。
まるで社の御神木のように太い枝を張り巡らせたその木は、周囲の木々と身を潜めるように寄り添って佇んでいた。
光の届かぬ暗がりはどこか忌まわしく、なんだか気味の悪い場所だった。
けれど、何故だか吸い寄せられるように足はその木に向かって動く。
根元には、踏み台になりそうな大きめの石がある。
その石の真上にある太い枝は、私の体重がかかっても折れなさそうだ。
この空間は、私のためにある。
あまりにも都合が良すぎて、思わずそんなことを考えてしまう。
石の上に乗り、手にしていた赤い紐を枝に投げかけ、固い結び目を作って輪をこしらえる。
輪の中に首を通すと、漠然としていた死の想像が現実味を帯びて、鳥肌が立った。
足元の石を蹴飛ばして宙に浮けば、全てが終わる。
ほぅ、と小さく息を吐き、両脚に力を込めた、その時だった。
「ねえ。ここで死なれると困るんだけど」
鈴の鳴るような透き通った声が、張りつめた静寂を切り裂く。
思わず視線を向けると、古木の影から一人の少女が姿を現した。
腰まで伸びた漆黒の髪が、歩くたびにしなやかに揺れている。
どこか浮世離れした雰囲気を纏った少女は、そこに存在するだけで、まるで絵画のような幻想的な空間を作り出していた。
「急に何?あなたには関係ないでしょ」
「関係なくはないわ。とにかく、ここで死なれるのは迷惑なの。首を吊るなら、教室でもご自分の寮室でも、他にいくらでも場所はあるでしょう?」
咎めるような口調とは裏腹に、少女の声はひどく穏やかだった。
彼女が身に纏う純白の制服が、薄暗がりの中でぼんやりと浮かび上がっている。
入学前の集会で聞いた説明が、頭の隅で蘇った。
この学院では、一年生の終わりに、学年の中から一人だけ「特待生」が選ばれるらしい。
特待生の生徒には、その証として純白の制服が与えられるのだという。
入学式でも、多くの生徒が黒い制服に身を包む中、白づくめの数人は一際異彩を放っていた。
少女は、森の奥深くで待ち伏せる狩人のように、静かに私を観察している。
その鋭い眼光に射貫かれ、思わず身がすくみそうになった。
でも、ここまできて今更はいやめます、なんて間抜けな真似はしたくない。
そんな生半可な覚悟じゃないのだ、私は。
「うるさいわね。とにかく、もうここでやるって決めたから」
私はそう言うと同時に、足元の石を力任せに蹴り飛ばした。
浮遊感の直後、首元を猛烈な圧迫感が襲う。
「ぐっ……、あ……」
喉が潰れ、酸素を奪われた肺が酷い悲鳴を上げる。
少女は、焦る様子もなく、救いの手を差し伸べるでもなく、ただじっと冷ややかな瞳で私を見上げていた。
彼女の姿が、輪郭を失って溶けていく。
意識が途切れる寸前、急速に遠のく意識の底で、懐かしい走馬灯が駆け巡る。
親しい風景の中で、たった二人で支え合った、優しい姉との日々。
*
七歳の秋、父が突然失踪した。
その翌日にやって来た、胡散臭い笑みを浮かべた糸目の男が言うには、父は別の女の元へ行ったらしい。
その男は私たちにそれだけ伝えると、すぐに村を出ていった。
それを境に、母は壊れてしまった。
幼い私たちがいるというのに、母は生きる気力を失い、暗い部屋で一日中ただ絶望に沈む状態が続いた。
私が信じていたあたたかな家庭は、父という存在があって初めて成り立っていた幸福に過ぎなかったのだ。
母が愛していたのは父だけで、私たち姉妹のことなど、最初から愛していなかった。
幼い子供にとって、親は世界の中心といっても過言ではない。
そんな存在に裏切られた絶望感に、ただ泣くことしかできなかった。
そんな私をよそに、姉であるリカは、取り乱すこともなく淡々と私のご飯を作り、家事をこなした。
なんでそんなに平気そうなの。お父さんはもう帰ってこないかもしれないのに、お母さんもあんなふうになってしまったのに。私たちはこれからどうなるの。
涙を流して取り乱す私に、お姉ちゃんは静かに振り返り、言ったのだ。
『でも、ルカがいるでしょ』
たった一言。
その言葉に、私は救われたのだ。
(お姉ちゃん。いま……そっちへ行くからね……)
*
不意に、真っ暗だった視界に、眩い光がちらついた。
閉じていた目を開くと、すぐ至近距離に、先ほどの少女の顔があった。
自分の唇に、何かが柔らかく触れている。
それが彼女の唇だと気づいた瞬間、私は弾かれたように彼女の肩を突き飛ばしていた。
「あんた……! な、何してるのよっ!」
「人工呼吸よ。見れば分かるでしょう?」
少女は尻餅をついたまま、呆れたように息を吐いた。
離れたはずの唇の感覚が、まだ鮮明に残っている。
心臓がうるさい。
その鼓動の騒がしさに、私は疑問を覚える。
「っていうか、私……死んだんじゃ……」
首に手をやると、締め付けられていた部分はまだ熱く痛みを伴っている。
でも、皮膚の下の頸動脈はしっかりと脈打っていて、生きていることを実感できた。
そうやら、自殺は失敗したみたいだ。
去ったはずの命が身体を巡る感覚とともに、私の心にはどこか奇妙な安堵が広がっていく。
あんなに死にたかったはずなのに、生きていることに安心している自分が、酷く不思議だ。
少女はあざ笑うように鼻を鳴らすと、さっきまで私の首を括っていた赤い紐を掲げて見せた。
丈夫そうに編み込まれていたはずの紐は、首を吊った輪の部分で無残に二つに引きちぎれていた。
「この紐、丈夫そうに見えてけっこう脆いのよ。なんだか皮肉だと思わない? 双華の誓いが、こんなにも簡単に切れてしまうなんて」
「あんたが切ったんじゃなくて?」
「そんな意地悪なことしないわよ。むしろ、面倒ごとにならないようにここまで運んできてあげたんだから、感謝しなさい」
そう言われて周囲を見渡すと、確かに先ほどとは違う景色が広がっている。
先程いた場所よりもさらに森の奥深く、鬱蒼とした木々に囲まれた一角。
けれど私たちがいる付近だけは、樹冠がぽっかりと円形に抜け、天からの日差しが舞台を照らす照明のように落ちていた。
「面倒ごと?」
「あの後、先生たちが来たのよ。きっと、入学式を抜け出した私たちを探してたんでしょうね。見つかってたら、今頃お説教部屋行きよ?」
少女は両手の人差し指を頭上に持っていき、鬼の真似をする。
儚げな容姿に反して、愉快な性格のようだ。
「……なんで、わざわざ私のために、ここまで運んだりしたの?」
少女の行動の意図が、全く理解できなかった。
見つかるのが面倒なら、私など放置して自分だけ逃げれば済む話だ。
それなのに、意識を失った私を背負い、こんな森の奥まで運んでまで助ける理由がどこにあるというのだろう。
さっきまでシワ一つなかった純白の制服は、ところどころ土で汚れ、乱れている。
華奢な彼女が、私をここまで運ぶのにどれほどの労力を払ったかは容易に想像がついた。
「あなたはさっきから質問ばかりね」と呆れながら彼女はゆっくりと立ち上がると、まっすぐな瞳で私を見つめた。
「あなたみたいな子を、ずっと待っていたの」
問いの答えになっていない返事をしながら、少女は二つに切れた赤い紐で、私の右手首と自分の左手首を固く結びつける。
それはまるで、罪人の動きを封じる手錠のようだった。
「私は、サユリ。あなたは?」
「……ルカだけど」
吸い込まれそうなほど大きく、深淵のような彼女の瞳から、目が離せない。
森にこだまする小鳥のさえずりが、やけに遠く聞こえた。
「ねえ、ルカ」
サユリの細い指先が、私の顎にそっと添えられる。
そのまま顔がゆっくりと近づいてきた。
もう一度彼女の肩を突き飛ばすことも容易だったはずなのに、私の身体は金縛りに遭ったように動かなかった。
そっと、冷たく柔らかな口づけが降ってくる。
さっきの人工呼吸とは違い、明確な意図を持った口づけ。
その唇の冷たさに、胸の奥が締め付けられる。
どのくらいの時間、唇を重ねていたのだろうか。
永遠にも感じる長い口づけの後、私から離れていったサユリは、息を呑むほど美しく微笑んだ。
「私と一緒に、この学院を潰しましょう」
どこまでも揺るぎない眼差しが、私を貫く。
入学早々、私はとんでもなく厄介な女に捕まってしまったらしい。
傾国の美女とは、彼女のような人間のことを言うのだろう。
この美貌の前では、理性も自我も常識も、すべてが無意味だ。
彼女のために、身を滅ぼしてもいいとすら思ってしまいそうになる。
彼女の手首と結ばれた赤い糸の感触を確かめながら、私は思った。
気付けば、先ほどまで私を支配していた「死にたい」という願望はどこかへ消え去り、彼女の言葉に頷いていた。




