バイバイ・ヴァイオレット【後編】
真夜中の校舎は、昼間の賑やかさが嘘のように静まり返り、冷たい空気で満ちている。
この学院は、外への脱走に関してはかなり厳しく見張られているが、敷地内の監視は緩いらしい。
寮母の見回りが終わった後に窓から部屋を抜け出し、事前に開けておいた空き教室の窓から校舎に忍び込めば、衣装室への侵入は容易だった。
窓から差し込む青白い月明かりだけが、私たちの存在を照らしている。
非日常の空間に身を置く焦燥感と、掟破りをしている背徳感で落ち着かない私をよそに、アヤメはあっけらかんとしていた。
「上手いこと入れてよかったわね」
「なんでそんな余裕そうなのよ…もしかして常習犯?」
「アンタを置いてひとりでそんなことするワケないでしょ。アヤとモエ…あ、リカは忘れてるかもだけど、同級生の双華ね。その二人がしょっちゅう校舎に忍び込んで会ってた話を聞いてたから、色々知ってただけよ」
「…どうして、わざわざそんなことするの? 同室でずっと一緒なのに」
「それは、まあ…いつもと違う状況で、色々と盛り上がるからじゃない? あそこの双華は、私たちみたいに義務的な関係じゃなくて、ちゃんと愛し合っていたし。モエが先に卒業した後のアヤ、抜け殻みたいに憔悴しきっていたもの」
「…それは、気の毒ね」
一概に双華といっても、その関係値は様々だ。
期限付きとはいえ、まるで運命の導きのように互いの伴侶という役割を与えられ、その状況に没入して本物の夫婦のように愛し合う双華もあれば、なかなか分かり合えず冷戦状態が続き、教師の前でだけ仲が良い風を取り繕う仮面夫婦のような双華もいる。
私たちの関係は、どちらかというと後者に近かった。
入学したての頃、私はどうせ最後には引き離されるのに、期限付きの関係に本気になる意味がわからなかった。
別れる運命を享受しながら、それが辛くなるような関係性をわざわざ築くなんて、自分の首を絞めるようなもの。
そう思い、双華として距離を詰めようとするアヤメも、友人として仲良くしようとする同級生も拒絶した。
そしてアヤメは、そんな私を軽蔑した。
先々のことを考えて今を蔑ろにするのも、本気の人間を馬鹿にするような考えも愚かだと。
水と油のように相いれない主張を持つ私たちは、常に言い争いが絶えず、周囲からは犬猿の仲と呼ばれていた。
あまりの交わらなさに、教師も呆れて匙を投げるほどに。
でも、アヤメと過ごす日々の中で、私は変わった。
『ちょっと、なんで朝なのに雨戸まで閉めてるの!部屋が辛気臭くなるでしょ』
アヤメはそう言って、いつだって窓や扉を開け、風通しの良い開放的な空間を求めた。
私は、陽の光は嫌いだった。暑かったり、寒かったりするのも。
でも、季節が変わるたび、毎度新鮮に風の温度の変化を喜ぶ彼女を見ていると、光や風を感じるのが心地よく感じるようになった。
『同室なのに、一日一言も喋らないのは流石にあり得ないから!一日一会話!これ、今日から義務ね!』
人と話すのが嫌いだった。うまく愛想笑いが出来ず、相手を喜ばせる世辞も言えず、失望させてしまって惨めな気持ちになるから。
でも、彼女との会話は心地よかった。
どんなに不器用な言葉でも、彼女は真摯に受け止めてくれるから。
私はどんどん口数が多くなっていき、二年生に上がるころには夜通し話続けて寝落ちてしまうこともざらにあった。
人と言葉を交わすのが楽しいと、そう思えるようになった。
そんな、連理の枝みたいに彼女の存在が混ざり合っていく日々を、愛おしいと感じていた。
避けられない別れに苦しむ時が来るとしても、彼女と出会えて、ともに日々を過ごせたことを幸せだと思う。
――どうやらそう思っていたのは、私だけだったみたいだけど。
(…双華という制度があるから一緒にいるだけで、アヤメにとって私は特別でもなんでもない。大勢いる友人の中の一人でしかないものね。仕方ないことだわ)
私は、表向きは平然としながらも、先ほどアヤメが自分たちを「義務的な関係」と言ったことが胸に突き刺さっていた。
「まあ、アヤとモエの話は置いといて。早くドレス選んじゃいましょ。次の見回りは朝の四時らしいから、意外と時間ないわ」
私の気持ちなど露知らず、アヤメは今日の本題にあっさり話題を移す。
「そんなことまで知ってるの」
「女同士の情報網は舐めちゃダメなのはこの世の常識よ。リカも、嫁ぎ先ではちゃんと周りと交流持ちなさいね」
社交的で友人が多いアヤメは、私の知らないことを沢山知っていた。
彼女の、気づけば周りに人が集まる太陽のような明るさや、誰からも愛される人懐っこさは、私にはないものなので素直にすごいと思う。
私はアヤメ以外との親交はなかったが、彼女の話を毎日聞いているおかげで、なんとなく周囲の関係性を把握することが出来ていた。
まあ、アヤメの話を聞くのが好きだったがそこに登場する人物には対して興味が無かったので、卒業していなくなってしまった人物はすぐに忘れてしまったが。
思えば私は昔からそうだったな、と過去のことを思い出す。
入学前、生まれ育った閉鎖的な田舎村でも、私は周囲に馴染めず孤立していた。
そんな私にずっと関心を持ち続け、話しかけてきたのは妹だけだった。
正直、当時はそんな妹を鬱陶しいと感じていたが、今思えば彼女がいたおかげで、孤独を感じずに過ごせていた。
(…もっと、感謝すればよかった)
彼女は、元気だろうか。
妹は四つ年下なので、次の四月にはこの学院に入学してくるだろう。
すれ違いになってしまうのは残念だなと思う。
嫁ぎ先には、アヤメも妹もいない。
頼れる存在がいない環境に放り出される未来に不安を募らせながらも、今はドレス選びに集中しなければと、思考を無理やり切り替える。
ふと、並み居る衣装の群れの中から、引き寄せられるように一着のドレスが目に留まる。
それはアヤメの伴侶が選んだものとは正反対の、余計な飾りを一切削ぎ落としたものだった。
身体の線をしなやかに引き立たせる設計で、裾だけが人魚の尾のようにわずかに広がっている。
絹の光沢も美しい。
「…これとか、どうかしら」
おずおずと、選んだドレスをアヤメに差し出す。
それを見た彼女は息を呑み、心底驚いたように目を見開いた。
「……私、もし自分の意志で選んでいいなら、絶対にこれがいいって思っていた」
アヤメは愛おしそうにその布地に触れると、私を見て意地悪くニヤニヤと笑った。
「アンタ、本当に私のこと好きすぎるでしょ。ちょっと怖いんだけど」
「はあ!? アヤメが分かりやすすぎるだけ。あと、アンタの伴侶になる男の目が節穴すぎなのよ!」
私の言葉に、アヤメは黙り込んでしまった。
月明かりに照らされた彼女の横顔が、酷く儚く見えて、私は途端に焦り出す。
流石に、これから嫁ぐ相手のことを悪く言うのは良くなかった。
「ま、まあ、でも……アヤメがそれだけ、相手の趣味に自分を合わせる能力が高い、とも言える、わよね……」
「……言い訳下手過ぎでしょ」
アヤメは呆れたように小さく吹き出し、いつもの調子で笑った。
それから、彼女もまた、衣装の山から一着の衣装を選び、私に差し出してきた。
繊細なレースが施された、長いスカートが末広がりになっているドレス。
天女の羽衣のような羽織ものもついていて、なんだか神秘的な印象の一着だ。
「え?それも着るの?」
「違うわよ、これはリカの。私もリカのドレス姿見たいもの。…本番は、見れないから」
最後のほうは、尻すぼみになって寂し気な響きをした声だった。
「仕方ないわね」と言いながら、アヤメが選んだドレスを受け取る。
自分のドレス姿を見たいと思ってくれたことが、なんだか嬉しかった。
私たちは、薄明かりの中で衣装を纏う。
侍女たちのように上手くはできないけれど、互いに協力し合ってなんとかドレスの体裁を保ちつつ着付けることに成功した。
月しか見ていない静かな会場で、二人の婚礼の儀を粛々と執り行う。
「リカさん。あなたはここにいるアヤメを、病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も。妻として愛し、敬い、慈しみ――明日の卒業式本番では、ドレス姿をきちんと褒めることを誓いますか?」
アヤメは、神父の厳かな声を真似て誓いの言葉を連ねる。
最後に、先ほどの不満を添えて。
「うっ…悪かったと思ってるわよ。誓います」
流石に先ほどの発言は悪手だった自覚があるので、素直に謝る。
だが、なんだかやられっぱなしも癪に障るので、負けじと言い返す。
「ではアヤメさん。貴女は、これからは相手に合わせて自分の気持ちを隠したりせず、自分が好きなこと、やりたいこと、不満など、きちんと本音を言うことを誓いますか」
「……っ」
「私以外にはずっと猫被ってること、お見通しなのよ。そんなんじゃ、新しい環境ですぐに病むわよ。…だからせめて新しい伴侶には、これまで私にしていたみたいになんでも言いなさい」
「…分かったわ」
本当は、『私のことを、一生忘れないと誓いますか』と言いたかった。
けれど、そんな言葉を口にしてしまえば、私は彼女に執着し、彼女の行く手を阻む汚い存在になってしまう気がして、どうしても言えなかった。
立派なチャペルも、高価な指輪も、着飾って参列者もいない、真似事の儀式。
それでも、私は今日この瞬間のことを、一生忘れないだろう。
月から身を隠すように、窓に背を向け寄り添い合う。
朝日が昇るのを見たくない。
永遠に夜が明けなければいいのにと、叶わぬ願いを神に祈った。
*
そして、最悪の朝が訪れた。
昨日と同じ衣装部屋の待合椅子に座り、アヤメが現れるのを待つ。
窓の外は、嫌味なほど美しく晴れ渡っている。
やがて、重い帳がゆっくりと開いた。
そこに立つアヤメの姿を見た瞬間、心臓は跳ね上がり、呼吸の仕方を忘れた。
彼女が身に纏っていたのは、昨日の夜、私が彼女のために選んだドレス。
未熟な技術でなんとか着付けただけの昨夜とは違い、今日の彼女は髪も美しく結い上げられ、彼女の美しさを引き立てる薄化粧が施されていた。
今日のアヤメはこの世の何よりも美しく、彼女が身に着けているティアラやネックレスに散りばめられた宝石よりも眩い輝きを放っている。
胸が詰まり、言葉が何も出てこない。
アヤメが傍らの侍女たちに小さく目配せをすると、彼女たちはすべてを察したように静かに一礼し、部屋の扉を閉めて去っていった。
衣装部屋には、私とアヤメの二人だけが残される。
「なんで……本番の衣装は……」
ようやく絞り出した私の声は、情けなく震えていた。
アヤメは困ったように眉を下げ、けれどどこまでも穏やかに微笑む。
「まあ、昨日誓っちゃったからね。ちゃんと本音を言うって。だから、今日は自分が本当に着たいドレスを着ることにしたのよ」
「でも、旦那さんは……」
「言えば分かってくれるわよ。それくらいの我が儘が通らない男なら、こっちから願い下げだわ。貰ったあのドレスは、あっちの国に着いてからの披露宴で着てあげる」
アヤメは、いたずらが成功した子供のようにニヤニヤと笑いながら、私の顔を覗き込んできた。
「昨日は素材殺しなんて言ってくれたけれど、今日の私はどうですか~?」
いつもの軽口の応酬。
それも、今日で最後だ。
改めて実感した瞬間、私の心の中で張り詰めていた何かが、音を立てて決壊した。
「綺麗だよ。世界一」
ぽろぽろと、大粒の涙が目から溢れ出た。
これまで必死に堰き止めていた言葉が、感情が、とめどなく口から溢れ出していく。
「好き」
別れが来ると決まっているのに、この感情を抱くことも、それを伝えることも罪だと思っていた。
だから、気づかないふりをしていた。
でも一度口にしてしまえば、もう自分を止める術など持っていない。
「他の人の元になんて行かないで。お願いだから、ずっと私の傍にいてよ。アヤメのいない人生なんて――」
私の言葉は、強引に重ねられたアヤメの唇によって遮られた。
彼女の細い腕が、不器用な手つきで私を抱き寄せる。
「……遅すぎるのよ、馬鹿」
唇を離したアヤメが、泣きそうな顔で、けれど愛おしそうに私の額に自分の額を押し当てた。
「ずっと、リカが私と仲良くしているのは、双華の制度があるからだと思ってた」
至近距離で目が合う。
長いまつ毛で縁どられた瞳が、水面のように揺れている。
「それで、昨日も私たちの関係が義務的とか言ったの」
「…一方的に想い続けるのが、苦しかった。だから、そう思うようにしてたのよ。リカが最初に言っていた言葉が正しかったかもしれないって、気持ちの温度差を感じるたびに何度も思ってた」
『どうせ別れるのに、仲良くする必要ある?本気で好きになったって辛いだけだし、何の意味もないじゃない』
四年前、この学院に入学したての頃に自分が言った言葉。
もし過去に戻れるのならば、私は当時の自分の頬を引っぱたくだろう。
あの時の言葉が、これまで自分の気持ちに素直にならなかった己の未熟さが、ずっとアヤメを苦しめていた。
やりきれない気持ちが、涙と共に零れて落ちる。
もう、何もかも遅いのに。
「――でも」
そっと、身体が離される。
滲んだ視界の中、アヤメの笑顔だけが鮮明に目に焼き付いた。
彼女の目元が、太陽の光を受けてきらりと輝き、その光はそのまま流れ星のように頬を伝う。
「私は今、最高に幸せよ。貴女を愛してよかった」
侍女たちが、アヤメの伴侶の迎えを受けて私たちを呼びに現れるまで。
その数分間の刹那にすべてをぶつけるように、私たちは何度も、何度も唇を重ね、アヤメの唇を色づけていた紅の色を分け合った。
*
アヤメの門出を祝福するように、時報を告げる鐘が鳴る。
私たちは並んで歩き、学院の正門へと向かった。
門の前には、立派な馬車が待ち構えている。
アヤメは抱えていた見事な花束の中から一輪抜き取ると、私の制服のポケットに入れようとした。
けれど、茎が長くてうまく入らず、苦笑してそれを私の手に握らせた。
「ブートニアにするには、少し茎が長すぎたわね」
「……慣れないことするからよ」
「うるさいわね。最後まで一言多いんだから」
別れ際でも、いつも通りの軽口を叩き合うことができることに安心する。
けれど、アヤメがあの馬車に乗ってしまえば、もう二度と会うことはできない。
彼女に縋りついて引き留めたい気持ちを何とか抑え、それでも最後だからと、私は往生際の悪いお願いをする。
「ねえ、アヤメ。最後にお願いがあるの」
「……なぁに、リカ」
アヤメは、これまでにないくらい慈愛に満ちた表情でこちらを見ていた。
「明日も普通に会えるふりをして欲しい…そうしないと、耐えられなさそうだから」
そう言うと、アヤメは一瞬だけ、また泣きそうに顔をゆがめる。
けれど、すぐに元の笑顔に戻り、私の目を真っすぐに見据えた。
その瞳が、言葉以上に私のことを愛しているのだと雄弁に物語っている。
「分かった…また明日ね、リカ」
「うん…また明日」
そう言って微笑みながら、アヤメは馬車に乗って学園を去った。
まるでスキップをするように軽快な蹄の音が遠ざかっていく。
私は、彼女を乗せた馬車が完全に見えなくなっても、一歩も動くことができなかった。
*
アヤメを送り出した後、私は自分の部屋へと戻った。
扉を開けても、そこに最愛の少女はいない。
その事実に、胸が押し潰されそうだった。
ふと、視界の端で白い何かが舞い落ちる。
扉に挟まっていたらしいそれは、一通の手紙だった。
私宛てだろうか。
珍しいものだなと思い、そっと拾い上げ、開いた。
そこには、酷く乱れた殴り書きの文字で、ただ一言、こう記されていた。
『この学院から逃げろ』
「どういうこと…?」
静まり返った部屋の中、私の問いかけに答えてくれる者は誰もいなかった。




