逃避行
座布団の上であぐらをかき、時計の秒針がチクタクと鳴る音を聞いていた。
腕を組み、机の上に置いたココアを睨みながら春が帰ってくるのを待つ。
数時間前は覚悟などとほざいていたが、今はそんなものはない。
胃がギリリと痛むのを感じる。
改まって、春と向き合うという行為へのプレッシャーを感じているのだ。
先ほどまで覚悟と錯覚していたものは、なんだったんだろう。
少なくとも、春の為になるものではなかったと自嘲する。
だって、人生は長いのだ。
両親から解放されたからといって、それが春の幸せな人生に繋がるとは限らない。
施設暮らしに馴染めないかもしれない、人を頼ることができなくなるかもしれない。
最悪、「自分のせいで芥お兄さんが捕まってしまった」と心を閉ざしてしまうだろう。
そもそも、どうして根本的な問題は解決しなければいけないと思い込んでいたのだろうか?
自分という人間が、問題から逃げて実家から飛び出してきた人間であるのだ。
両親と半ば絶縁のこの状況、別に解決しなければならないとは思っていない。
春も、そうかもしれないじゃないか。
両親とは距離を置いて、高校を卒業したら自立して生きる。
そういう生き方だって全然ありだ。
逃避は決して悪いことではないと思う。
その先に待つ結末に向き合えるのなら、選択肢の一つになる。
自分はあらゆるものから逃げた結果、高校中退の社会とは隔絶した人間となったわけだが、別にそれは受け入れている。
自分で逃げると選択したから、今の現状に不満はない。
自業自得だと、納得できる。
だから、春にも春自身で選ばせるべきだったのだ。
一時の感情に任せ、近視眼的になっていた。
春は子どもではあるが、考えることのできないお人形ではない。
自分の頭で、将来を決めることができるのだ。
深く、心から反省をする。
対人関係が浅いから、極端な行動に走ってしまったのだなぁ。
自分もコミュニケーションを学んだ方がいいかもしれない。
そう思っても、頭に浮かんだ話し相手が藤川さんと中学生しかいないことに気づいて、自分の交友関係の狭さを自覚するだけだった。
友人が多ければこんな偏屈な性格にはなっていないだろうが、同性の話し相手がいないのはどうなんだ?
結局、自分という社会のはぐれ者が人の未来を決めようなど、思い上がりも甚だしい行為だったのだ。
ガチャリという音がして玄関が開く音がした。
帰ってきた春の顔に、昨日の憔悴の様子はない。
いつも通りの表情だ。
白い肌に大きな幸薄そうな黒い目が、あまり感情を覗かせずにこちらを見つめている。
「......ただいま?」
「おかえり」
自分が放つ雰囲気を感じ取ったのか、声には困惑の色が滲んでいる。
そりゃそうだ、帰ってきたら家主が厳しい顔して座って待っているのだ。
春にとっては初めてのことだろう。
人によっては怒られると思って、心のうちにあるやましい出来事を探している状況になるだろう。
「今から、会話をします」
「なんか、固いよ、芥お兄さん」
「うるせぇ」
春を向かいの座布団に座らせる。
いつも通りの女の子座りをして、不思議そうにこちらを見ている。
自分には、大事な話をするという経験が足りない。
必要以上に堅苦しい口調になっている自覚はある。
年下の少女を相手に、何を緊張しているんだか。
無意識のうちに、あぐらの姿勢から正座に姿勢を正して話を続ける。
「警察に、春のことを相談した」
「え?」
「流石に目の前であれだけ泣かれたらな、何かしなきゃいけないと思ったんだ」
泣いた春の顔を、わんわんと泣いたあの声を、忘れることはできない。
いつも控えめにしか感情を表すことのできない春が、あれだけ泣いたのだ。
耳に、目に、脳に焼き付いている。
「許せないと思った。お前の母親が、自分の娘を見て、娘だと気がつかない様子に。正直に言えば、殺してやりたいとすら思ったね」
「殺人はよくないよ、芥お兄さん」
「育児放棄もよくないんだよ」
罪を犯してはならないという常識はあるらしい。
何が罪にあたるかまでは、知らないようだが。
ネグレクトも、罪だ。
「だから、自分から警察に春との関係をばらした。自分が捕まってもいいから、お前の両親を咎めてやろうってな」
「......芥お兄さんが捕まるのはイヤだよ」
「俺だって捕まりたくねぇよ。それでも、許せなかったんだ。なんで春は泣いてるのに、あいつは笑ってるんだって。自分と引き換えにあの笑顔を消せるなら、悪くないと思えるほどにはな」
本音を言えば、今も許しているわけではない。
浮気に現を抜かす母親、顔も存在も知らねぇ父親、まとめてブタ箱にぶち込めたら最高だと思う。
でもそれは、自己満足だって教えられてしまった。
優先されるべきは、春の思いだ。
それを忘れて行動したのなら、俺はネグレクトをしている奴らと変わらない存在になってしまう。
忠告してくれた仁和さんには感謝している。
よかった、警察署に直で行かなくて。
自分だけ捕まる世界もあったかもしれないと思うと、心底ゾッとする。
「ただ、春と話し合ってないだろって怒られてな。その通りだと思ったよ。お前がどうしたいのか考えずに、自分の怒りのままに行動したんだ。本当に、すまない」
「なんで、芥お兄さんが頭を下げるの? 私のせいなのに、私が泣いたからいけないのに」
「お前の問題なのに、お前の考えを聞かなかったから。一人の人間として見てなかったんだ。子どもだから守らなきゃいけないなんて思い上がってさ、自分だけで解決できると思ったんだ」
頭を上げると、春と目が合った。
表情が苦しそうに歪んでいて、自分の心がズキリと痛む。
この問題に触れずに、なあなあで過ごせばよかったのかもしれない。
わざわざ、傷口を抉るようなことをせず、いつも通りの日常に戻るのが最適だったのかもしれない。
ただそれは、選択の先送りにしかすぎないのだ。
現実と戦うか、逃げるか。
選択するには、一度問題と向き合う必要がある。
ここで選択をしなかったら、宙ぶらりんのままどこにも行けなくなってしまう。
戦うなら、この身燃え尽きるまで一緒に戦おう。
逃げるのなら、どこまでも共に逃げてしまおう。
それを選ぶのは、自分ではない。
「春は、どうしたい。 両親と、どうなりたい」
「......芥お兄さんが、決めてよ。私より、芥お兄さんの方が──」
「ダメだ。それは、依存だから。自分で選ぶ必要があるんだよ、春」
「私は......私が......」
春の呼吸が荒くなって、眉間にしわが寄っている。
顔が俯いて、体は小さく縮こまっている。
……一度に決めさせるのは、酷だったのかもしれない。
時間を作って、落ち着かせてからの方がいいかもしれない。
そう思って話し合いを辞めようとした時、春は急に立ち上がってこちらに向かってきた。
正座をしていた体では突っ込んでくる春を上手く受け止められず、仰向けに倒れてしまう。
春が抱きついてきたのか。
自分の胸に置かれた手がひどく小刻みに揺れている。
「──いい」
「あ?」
「芥お兄さんがいい! イヤだよ、一人ぼっちは!」
自分の胸から春が顔を上げて叫んだ。
瞳からこぼれ落ちた涙が、自分の頬に落ちた。
熱いと、そう思った。
そんなわけないのに、火傷しそうなほど熱いと思った。
瞳は潤んで、顔はぐしゃぐしゃに歪んでいる。
悲しくて泣き叫ぶものとは違った、感情の発露がそこにはあった。
15年間、心の奥底に蓋をし続けたものが開いたのだ。
「一緒にご飯が食べたいよ! 一緒に歩きたいよ! いい点を取ったら褒めてもらいたいよ! 悪いことをしたら叱ってほしいよ!」
「そうだよな」
「なんで、なんで私は、独りぼっちなの!? パパとママは、どうして私と会ってくれないの!?」
「春は悪くないよ」
自分のシャツがギュッと握られる。
細い喉から放たれる叫び声は、悲鳴のようだった。
ずっと、貯めこんでいた思いなのだろう。
ワガママを言わない子だと思っていた。
言えない環境だけだと、気がついていたのに。
「......今の暮らしが、いいよぉ。独りの部屋は、寂しいよぉ......」
呟かれたその声は、15歳とは思えないほど幼い声だった。
力なく顔が自分の顔の横に落ちてきた。
小さな泣き声が、自分の耳元で聞こえている。
両腕を春の背中に回して、ポンポンと背中を叩く。
誰でもしてもらったこの行為を、春はしてもらったことがあるのだろうか。
泣き叫んで駄々をこねて、誰かに抱きしめてもらう。
そんな当たり前のことを、経験せずにきてしまったのだ。
「芥お兄さんと、いたいよぉ......それだけなのに、ダメなのかなぁ......」
ダメじゃない、それでいい、そう肯定しかけた口をつぐむ。
まだだ。
まだ、決めさせないといけないことがある。
優しくあやすように問いかける。
その質問が残酷な決断を迫るものだとしても、聞かなければならない。
「パパとママは、どうしたい?」
「......パパとママより、芥お兄さんがいい。褒めてくれる、怒ってくれる、優しい芥お兄さんの方がいい」
「こらしめなくて、いい?」
「うん。この生活が続くなら、それが一番いい」
「そっか、そうだな。俺も、それがいいよ」
春の返事を聞いて、ふぅと一息つく。
結局やることは変わらない。
未成年を家に上げて、面倒を見る。
違うのは、お互いにそれを受け入れたというだけだ。
今までみたいに、流れでそうなっただけの生活ではない。
お互いに、この生活がいいと望んだ。
警察にも児童相談所にも、誰にも話せない生活を続けることを、今2人で選んだ。
これが正しいかどうかは知らない。
法律の観点から見たら自分は罪を犯している状態だ。
春はネグレクトの状態から何も変わってはいない。
それでも、これがいいと望んだのだ。
あとは野となれ山となれ、だ。
堅苦しい話は終わりだ。
「夕飯、どうしようか」
「......オムライス、また作って」
「卵、冷蔵庫にあったけなぁ」
「なかったら、買いに行こうよ」
鼻をすすり、涙声でリクエストをする春の頭を撫でた。
少女は逃避を選んだ。
なら、それに付き合うだけだ。
お互いの意思で、逃げるのだ。
きっと、ろくでもない、楽しい毎日になるだろう。
どこまで逃げられるかな?
「私、この家にずっと居ていい?」
「ダメって言ったら?」
「......泣く」
「はは。いいね、子どもらしくて」
2人して他愛もない会話に花を咲かせる。
体に感じる春の体温の熱さが心地いい。
ストレスも煩わしさも何もない、純然たる本心からそう思えた。
春もそうだと、嬉しい。
この日々が、いつまでも続けばいい。
2人なら、ずっと逃げ続けられる気がした。
評価、感想、誤字指摘等していただけると嬉しいです。
あと数話書いて終わりになると思います。
最後までお付き合いいただけると幸いです。




