激情に
ショッピングモールから引きずって帰る最中、春は一言も発しなかった。
はぁはぁと呼吸を乱して、何かに怯えるように辺りを見回している。
その様子に、なんと声を掛けていいか分からなかった。
口が上手い人なら、コミュニケーション能力が高い人なら、少女の心を落ち着かせられたのだろうか。
対人関係を避けた社会不適合者には持ちえない能力であった。
ただ何回も大丈夫とうわ言のように繰り返し、手を引っ張り続けた。
自分に言い聞かせてるみたいだ。
家に帰るまでの道のりが、やたらと長く感じた。
見慣れたアパートが見えた時には、安堵のため息すら出てくる始末であった。
玄関に入った瞬間、持っていた紙袋を適当に投げ捨てる。
未だ落ち着かない様子の春をベッドに座らせる。
左手は固く握られていて、離す素振りはない。
誰かを探すように動き回る瞳には、怯えの色が滲んでいる。
その両目を隠すように、自分の右手で遮った。
「大丈夫、もうアパートだから。誰もいないから。落ち着いて、深呼吸をしよう」
「はぁ、はっ、はっ......すぅ、はぁ、すぅ」
居慣れた場所、聞き慣れた静寂、嗅ぎ慣れた部屋の匂い。
安心できる環境になったからか、春の呼吸が段々と落ち着いて、手に込められていた力が抜けていく。
この少女のどこにこんな力があったのか。
万力のごとく握られていた自分の手には、赤く痕がついていた。
離されたくないと、捨てられたくないと、そう思ったのだろうか。
解放された左手をひらひらと振って痛みをごまかして、右手を春の目元から外す。
目と目が合った。
その瞬間、ボロボロと瞳から涙がこぼれ始めた。
緊張から解放されたせいだろう。
泣きはじめると同時に、勢いよく春が自分の胸元に飛び込んできた。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
「ぐえっ!」
予想していなかった行動に受け入れる姿勢はできておらず、胸元に思い切りおでこがぶつけられて情けない声が出る。
遠慮のないその行動に、まだ余裕がないのだと感じた。
ごめんなさいと謝り続けるその背中を撫でる。
痩せたその体は、ハッキリと背骨の感触が服の上からでも分かった。
春は謝る必要ないのにと思ったが、こういうのは本人の気持ちの問題でもある。
思いっきり感情を吐き出させた方がいいだろう。
ママと呟いていたこと、父親にしては明らかに若い男と仲睦まじい様子だったこと。
多分、母親の浮気現場なんだろう。
両親ともども家にいないのなら、夫婦間はすっかり冷めきっているのかもしれない。
離婚していないだけで、お互いの関係には口出しのしない間柄なのだろう。
全ては自分の推測でしかないが、妙にしっくりときて胸糞の悪い気分だった。
春が時々家から追い出されるのは、気兼ねなく家で浮気相手と遊ぶためだろう。
お遊びの最中に、子どもがいたら萎えると思っているのだ。
胸中にどす黒いものが、こんこんと湧き出てくるのを感じる。
勝手な想像にすぎない。
だけど、そう遠くはないという核心がある。
あぁ、ろくでもない。
春を見た、あの女の顔が忘れられない。
苦しんでいる娘を見て、何もなかったかのように振舞えるあの顔が、忘れられない。
あれを、許していいのか?
子どもの顔を知らない親を、許していいのか?
「......痛いよ、芥お兄さん」
「あ、すまん」
背中を撫でる手に力が入っていたようだ。
春のかすれた涙声で我に返る。
春も散々泣き叫んだから、落ち着いてきたようだ。
もう一度ベッドに座らせて、自分もその横に座る。
目を見て対面で話すよりも、そっちの方が喋りやすいと思ったからだ。
……自分が春の目を、見続けられる自信がないと思ったからでもあるが。
「あれ、本当に母親で合ってるのか? ろくに会ってないんだろ?」
「うん、多分、ママだと思う。見覚えがあるの、ママぐらいだから。ぼんやりとしか覚えていないけど」
「横の男は?」
「見たことはないと思う」
「そうかい」
やはり、父親ではないようだ。
あぁ、しょうもねぇ。
「そういえば、今日は書置きはあったのか?」
「うん、家に居るなって。まだ芥お兄さんに言ってなかったね」
しょうもねぇ、くだらねぇ、バカらしい。
心の中であらんかぎりの悪態をつく。
立派な家の、身なりのいい女。
また想像になってしまうが、父親の稼ぎがいいのだろう。
父親は仕事にかまけて家にはおらず、母親はその金で若い男と遊び呆けている。
ありそうな話だ。
自身の子どもの世話なんて知らずに、家にも帰らずにいるのだ。
お金だけ置いて、それで親の義務は果たしたと言わんばかりに。
「ごめんなさい......」
「なんでお前が謝るんだ?」
「だって、私のせいで買い物、楽しくなくなったでしょ?」
その言葉に強い憤りを覚える。
どうして、お前のせいになるんだ?
どうして、この少女が自責に駆られる必要があるんだ?
そう思ったが、吐き出す相手がいるわけでもないのでぐっとこらえる。
「お前のせいじゃない。母親が悪い」
「ううん、ママは何もしてないよ」
「じゃあ、なんであそこまで取り乱すんだよ。辛いトラウマがあるとかじゃないのか」
「うん。何も、ないよ」
先ほどまでとは違い、感情が一切籠っていない声に能面のような無表情に、寒気を覚える。
虐待されている子どもはそれでも両親を庇うという話は聞いたことはあるが、それとはまた別の何かのようだ。
「だって、私が風邪で苦しんでいる時も、お腹を空かせている時も、着る服がない時も、寒さに凍えている時も、ママは何もしてないから、私が悪いんだよ。私が何もできないから、悪いんだよ」
「......おい」
「私ができないから、私が悪いから、パパとママは私に見向きをしないんだよ。誰も、見てくれないんだよ。私がもっといい子だったら、パパとママは──」
「黙れ!」
淡々と動く言葉に嫌気がさして、今度は自分から抱きしめた。
ネグレクト、それは知っていたはずなのに、しっかりと向き合っていなかったことを痛感する。
今まで生きてこれたのだ、最低限の面倒は見てくれているのだと。
違う、そんなはずがない。
どうして、自分はそんな甘い判断をしていたのだろう。
自分の部屋に寝る場所がない、私服を一着も持っていない、化粧すらろくに知らず、ご飯もまともな手料理を食べた事がない。
挙句、母親の顔がぼんやりとしか思い出せないのだ。
気付こうと思えば、いくらでも気付けたはずだ。
春の生きてきた世界は、過酷で悲惨でどうしようもないものだと。
知りつつも、しっかりと見ようとしなかった。
物を与え、言葉を交わして、それでいいと思っていた。
上辺だけだ、それで救えるのは。
やはり自分も、愚かなのだろう。
あまり大きいとは言えない自分の両腕に、すっぽりと収まってしまう小柄な体。
どれだけの苦痛をこの小さな体に積もらせてきたのだろう
ぼんやりとしか覚えていない母親の顔を見て、呼吸を荒げるほどのストレスなんて自分には想像できない。
「芥お兄さんは、どうして私に優しくしてくれるの?」
胸元で、小さく声がした。
春の両腕はこちらを抱き返すことなく、所在なさげにだらりと垂れている。
その質問をされたのは、いつだっただろうか。
責任と権利と答えたんだっけ。
屁理屈をこねまわして無理矢理納得させたのは覚えている。
今はただ、本心だけを口にする。
「そうしたいと、思ったからだ」
ずいぶんとまぁ、無責任な言い分だ。
出会った時は関わりたくないと見捨てようとしたくせに、調子のいいことを抜かしやがるこの口は。
それでも今は、本当に優しくしたいと思っているのだ。
慈善家になったわけではない。
目の前の少女が、ただ穏やかな日常を送れればいいという、エゴに過ぎない。
春の両腕がゆっくりと動き出した。
おずおずと自分の背中に回される腕は、壊れるものを触るかのように力がない。
「......うぅっ、うっ、うぅ」
「泣け泣け、そういう日があってもいい」
段々と腕に力が込められるにつれ、肩が震えて嗚咽が漏れ始める。
押し殺したように泣く姿が痛々しかった。
もっと声を上げて、思うがままに感情を出して欲しかった。
腰かけていたベッドにそのまま横になり、布団で2人顔まで覆いかぶさる。
顔すら見えない暗闇に包んでやれば、周りのことを考えなくていいと思ったからだ。
「ここには誰もいないから、好きに泣けばいい」
「うっ、うっ、うわぁぁぁぁぁぁぁ!!」
促してようやく、声を上げて泣きじゃくり始めた。
胸元に吐き出される熱に、こみ上げるものを感じる。
自分も、覚悟を決めよう。
特別な力があるわけでも、恵まれた立場があるわけでもない。
ただの社会不適合者の自分にできることは、大したことではないのかもしれない。
それでも、それでも、この熱を見て見ぬふりはできない。
春を、見捨てることなどできはしない。
自分を突き動かすものが何かは分からない。
大人としての義務?
声を掛けてしまった責任感?
哀れな少女への同情心?
なんでもいい。
目の前で春が泣いている、それだけ分かっていれば、それで十分だ。
抱きしめる腕に力を込める。
「ひっぐ。ひっ、うっ」
「大丈夫、大丈夫」
自分にできることを、自分にできる限りの力で。
その結果、たとえ横に居られなくなっても、それで構わない。
背中をさすりながら、ひそかに決意を固めた。
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