成長痛
「んん......」
もぞりと寝返りを打ってから、鳥の鳴く声で朝だと気がつく。
毛布にこもった熱で体が汗ばんでいる。
肌に服が貼りつく感覚を気持ち悪いと思うと同時に、それが贅沢な感想であるとも思った。
少し前までは床に直接横たわり、フローリングの冷たさを感じながら寝ていたのだから。
ブランケットにくるまって、寒さに凍えていた日々が遠い昔のように感じられる。
寝る時も起きる時も、凍えながらということはもうない。
横についたジッパーを下げてから、毛布をめくり起き上がる。
しっかりとした寝具というのは大事と芥お兄さんが力説していたが、それは本当のようだ。
今まで起きた時に感じていた、筋肉のこわばりや疲労感というものが段違いである
これは、寝袋というらしい。
私にはよく分からなかったけど、キャンプ用のしっかりとした物のようだ。
二重構造の長方形の布団にブランケットが入っていて、取り外しによって温度調節ができるらしい。
私が芥お兄さんの家に泊めてもらう時に、芥お兄さんが床で寝るように買ったものだ。
私が部屋では床で寝ていると言ってしまったせいで、芥お兄さんが気を遣って私にくれた。
『イヤだろ。俺が布団で寝てる時、あいつ今ごろ床で寝てんだろうなぁって思うの。寝にくいわ』
そう言って大きめの寝袋が収納されたバッグを手に、私の家の前まで運んできてくれたのだ。
それを考えれば、この汗をかける環境というのも芥お兄さんのおかげなのだ。
気持ち悪いと思うことは、とっても贅沢なことなんだろう。
いつか芥お兄さんに返す時のために、キレイに、丁寧に使おう。
寝袋だけではない。
返さなければいけないものが、たくさんある。
お金だけでも相当に迷惑をかけている。
それを芥お兄さんに言う度に、乱暴に私の頭を撫でてこう言うのだ。
『ガキが気を遣うな』
力強く頭を撫でられることに、優しく私を見つめる目に、心地よさを感じてそれ以上言葉を続けることができなくなる。
だから、良くないと分かっていても甘えてしまうのだ。
部屋をぐるりと見回す。
たくさんの物が増えた。
服がないと言えば、服を買ってくれた。
初めて買ってもらった、紺色のパーカーはとても気に入っている。
制服しか知らない私の、初めての私服。
初めて芥お兄さんとお出かけした日に買ってもらった物でもある。
寝袋から立ち上がり、動き出す。
置く場所がないと言えば、ハンガーラックとプラスチックの収納ケースを買ってくれた。
ハンガーに掛けられた制服は少しのしわがついているけれど、床に置いていたときよりもキレイな気がする。
着替えようと制服に手をかけて、ふと手が止まる。
(私、汗臭くないかな)
寝ている時にたくさん汗をかいたのだ。
くんくんと体を嗅ごうとしても、服の洗剤の匂いがするだけでよく分からない。
今まで体臭など気にしたことはなかった。
保育園の時に、先生に臭いについて怒られてから毎日シャワーを浴びるようにしているけれど、それは寝る前だけだ。
お湯で体を流すだけの行為。
怒られるから、嫌がられるから、義務的にするだけだったそれに意味を与えてくれたのも芥お兄さんだった。
風呂につかることが好きらしい。
朝も夕方も風呂場に向かうのだ。
もしかしたら、キレイ好きなのかもしれない。
掃除をすることがアパートのルールであるし、そんな場所に行くのに汗をかいた体ではよくないかもしれない。
制服から手を離し、音を立てないように静かに部屋の扉を開ける。
そっと家の様子を見るが、誰かがいる気配も音もしない。
10秒ぐらいしっかり待って、家に自分しかいないことを確認する。
それで少し、気が楽になる。
自分の家であるけれど、私にとってこの家は気が休まるものではないと最近気がついた。
親が居れば静かに部屋でジッとしていろと、それかどこかに出ていろと書置きがあるのだ。
部屋に居て物音がするとびくりとしてしまい、その場で固まってしまうのは体に染みついた癖だ。
それがない、芥お兄さんの家はとても居心地がいい。
キーボードを叩く音や椅子がきしむ音には、何も怖がる必要がないのだ。
収納ケースに畳んである下着とタオルを持って風呂場に向かう。
洗面台や風呂場に、私以外の人が使った形跡はなかった。
両親は、いつこの家で、何をしているのだろうか。
そう思ったが、何も思いつかなかったので諦める。
……両親に、私はどう思われているのだろうか。
体を洗い、髪を整え、歯を磨く。
その全てに必要なものは、両親ではなく芥お兄さんが用意してくれたものだった。
……どうして、芥お兄さんはそこまで優しくしてくれるのだろうか。
何回も脳裏によぎったその疑問に、少し恐怖を抱く。
両親に見捨てられるよりも、芥お兄さんに見捨てられる方が怖い。
理由があって優しくしてくれているのなら、私はその理由をできる限りの力を尽くしたい。
でも、特に理由があって私に優しいわけではないと、最近はそう思っている。
単純に、優しいだけなのだ。
だから、怖い。
理由がない優しさには、何を返せばいいか分からないから。
芥お兄さんに出会ってから揺れ動くようになった感情が、少しだけ恨めしく思う。
何も分からないあの日のままであったなら、何も感じずにあの場所に居られただろうから。
この間みたいに、少し会話がないだけで心が乱れることなんてなかっただろうから。
制服に着替えカバンを持って部屋を出る。
玄関に続くリビングの机には、いつ置いたか一切分からないお金が置かれている。
お金を置いてくれているのは、まだ私になにか思うところがあるのだろうか。
きっと、深い意味はないんだろうな。
財布にお札をしまい、両親について考えることはもうやめる。
玄関から外に出て空を見る。
冬が終わったといっても、まだ朝の日はそんなに強くないようだ。
今は6時ぐらいだろうか。
きっと、芥お兄さんはまだ寝ているんだろうな。
歩き慣れた道を進むたびに、鼓動が早くなる。
もしかしたら、私は変になったのかもしれない。
会いたいのに、会うのが少し怖いのだ。
目的のアパートが目に入った時、心臓がひと際大きく跳ねた。
ポケットに入れていた合鍵を強く握る。
固く冷たい感触は、私の心を落ち着かせてくれる。
大丈夫、大丈夫、大丈夫。
臭くもないし、見た目も整えたし、変なところはないはずだ。
鍵を開けようとしてドアノブに手をかけた時、違和感を覚えた。
鍵がかかっておらず、ドアノブは素直に回った。
少しだけ開けたドアから、味噌汁のいい匂いがした。
「おい、早すぎるわうちに来るの」
「え、あ、おはよう」
「おはよう。まだ味噌汁もできてないのに」
ドアの先には、眠たそうにまぶたをこすっている芥お兄さんが立っていた。
いつも朝食はごはんに納豆と卵をかけたものだから、キッチンに立っている姿は新鮮であった。
「どうして、料理してるの?」
「お前、今日から3年生だろ。めでたい日ぐらい、いいもん食いたいだろ」
その言葉に胸が熱くなる。
さっきまであった緊張感なんて、微塵も残っていなかった。
どうして芥お兄さんの言葉には、こうも心が揺さぶられるのだろう。
芥お兄さんは立ち尽くす私を、珍妙なものを見るような目で見ながら話し続けた。
「なんで突っ立ってんだ? やることないなら手伝えよ」
「いいの?」
「なんでダメだと思うんだよ。あ、包丁は握るなよ、怖いから」
「私、何にもできないよ?」
「そんな難しい料理は作らねぇよ。それに、できないならできるようになればいいだろ」
「……そっか」
なんてことはないように芥お兄さんは言って、お鍋にまた向き合った。
私も靴を脱いで、手を洗ってその横に立つ。
無言でお鍋を混ぜている芥お兄さんの顔を見て、自然と笑顔がこぼれた。
「えへへ」
「なんだ、急に気持ち悪い」
「私、変になったかも」
「お前はずっと変だよ」
「そうかな?」
2人で会話をしながら料理をする。
特別な事は何もない、ただの日常がとても楽しい。
料理は上手くいかなかったけれど、それでもよかった。
「......スクランブルエッグにしよう」
「卵焼き、難しいね」
「今月ぐらいにはできるようになりてぇな」
「次に、じゃないなんだ」
「そんなにすぐにできると思うほど高く評価してないからな」
「そうなんだ」
2人でいることだけで、こんなにも満ち足りている気分になると知ったのだから。
こんな日が、ずっと続けばいいと思えた。
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