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社会不適合者とネグレクト  作者: アストロコーラ


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本心

 キーボードを叩いている最中に、背中に視線を感じて首を後ろに向けた。

 こちらを見ていた春が、慌ててノートに顔を伏せる。

 ずっと勉強していましたよ、見ていませんよと言いたげに手を動かしている。

 忙しなく動く指の割にノートに書かれる量が釣り合っていないので、すぐに誤魔化しだと分かるのだけれど、本人はバレていないと思っているようだ。

 モニターに視線を戻し、小さくため息をつく。

 顔色を窺われている。

 機嫌を確かめるような視線、開くことのない口、いつもよりも遠慮がちな距離感。

 自分の過去をほじくり返された日から、ずっとこの調子だ。

 出会った頃と同じ、下手したらそれよりもひどく、コミュニケーションが上手くいっていない。

 いや、それは正しい言い方ではない。

 自分が過剰にストレスを感じている。

 会話が減れば仕事に集中できると思ったが、キーボードを叩く音はひどくリズムが悪くどうにも捗らない。

 また、視線を背中に感じる。

 それが非常に煩わしく思える。

 よくはない状況なのだろう。

 子どもが誰かの機嫌を伺いながら生活するのは教育上よろしくない。

 そんな思いをさせている自分が情けないとすら思う。

 ただ、どうしても会話をしようという気分にはならなかった。


『楽しいだけじゃ、ダメなの?』


 春の質問が、頭にこびりついて離れない。

 ただ心に浮かんだ疑問を、口にしただけで春に特別な意図はないのだろう。

 純真無垢な、子どもの質問だ。

 だから、だからこそ、自分の心に深く突き刺さっている。

 楽しいことよりも、正しいことが大事なんだ。

 社会には何よりも優先されるべきことがあって、それを守れるのが大人になるってことなんだ。

 そうやって心にも思っていない正論を言えば、こんな雰囲気にはならずにいられただろう。

 それを言葉にできなかったのは、自分を見つめるキレイな瞳のせいか、汚れた自分の心のせいか。

 分からずにいるから、こうしてまた手が止まっているのだ。

 他人に迷惑をかけなければいいなんて、質問の答えにはなっていない返事を、春はどう受け取っただろうか。

 ギリリと、胃が痛む。

 他人が自分をどう見ているか、思い悩むのがイヤでこんな生活をしていたはずなのに、どうしてこうなってしまったんだろうか。

 ……面白半分で声を掛けた自分が全て悪いとは、分かっているけれど。

 あの日声を掛けなければ、自分は今も独りで静かな日々を過ごせていただろうか。

 ifの世界なんてありえないが、そう妄想してしまう程度には余裕がなかった。

 ガチャリと、玄関のドアが開く音で我に返る。

 振り返ると、春の姿が無かった。

 時計を見ると、もうすぐ夕方になる時間であった。

 いつもなら夕飯を食べていくが、楽しく食卓を囲める気分ではないのだろう。

 何も言わずに帰っていったのは、やはり自分に対する気遣いか。

 椅子を倒して、天井を見つめる。

 春の方が、よっぽど大人じゃないか。

 少し昔のことを思い出した程度で、機嫌が悪くなる自分とは大違いだ。

 愚かで、醜く、なんと矮小な心の有り様であることか。

 自分を卑下してみても、ちっとも感情が揺れ動くことはなかった。

 ……退屈だな。

 こんなに、人生とは時間が余っていたものだっただろうか。

 こんなに、独りの時間は静寂であっただろうか。

 その疑問に答えてくれる人は、部屋には誰もいなかった。


 ——————


 頬にピタリと何かが当たる感触で目が覚める。

 椅子を倒して、そのまま寝てしまったようだ。

 固く、そして熱い感覚に思わず声が出る。

 寝ぼける間もなく意識が明瞭になる。


「あっっつ!」

「わっ」


 帰ったはずの春が、椅子の横に立っていた。

 持っていた何かを驚いて落としたのか、ごとっと床で音がした。

 キャスターの近くに転がったそれは、自動販売機で売っている缶のココアだった。

 雪の降りしきるあの日、春に押し付けたものと全く一緒の物だ。

 屈んでそれを握りしめる春に、声を掛ける。


「帰ったんじゃないのか」

「......」


 返事はない。

 時計に目をやると、寝る前からさして時間は経っていなかった。

 ちょうど、アパートから公園を往復する時間ぐらいだろう。


「──ない?」

「あ?」


 こちらを向かずに発した声を、うまく聞き取ることはできなかった。

 感情を押し殺したような、か細い声だった。


「芥お兄さんは、私と居るのは、楽しくない?」

「......」


 今度は自分が無言で返した。

 春が何を考えているか、分かってしまったから。

 楽しくなければ、一緒にいてはいけないと思ったのだろう。

 自分が小説を書くのをやめたように、春といることをやめてしまうと思っているのだ。

 そこまで無慈悲な人間ではない。

 ただ、ここ数日の自分の態度はあまりにも無愛想であったから、そう思ってしまうのは仕方がないのかもしれない。

 楽しくない、わけではない。

 そう言おうと口が開いて、言葉に詰まる。

 声にならない息が少し漏れるだけであった。

 いいタイミングなのかもしれない。

 春はあと2週間もすれば、自分の人生に大きく影響する中学3年生になる。

 そんな大切な時期になる前の、まとまった時間はこの春休みにしかない。

 ずっと、この少女と一緒にいられるわけではない。

 別れるタイミングがきたのではないか?

 赤の他人の面倒を、十二分に見た方だろう。

 人と生活する苦しさを、自分は思い出してしまった。

 仁和さんに相談をして、適切な対応を警察なり児童相談所にしてもらえばいい。

 自分も未成年を連れ込んだことに対して、何か罪に問われるかもしれないが、それについてはしっかりと清算しよう。

 こんな自分と一緒にいるより、ちゃんとした施設で、ちゃんとした教育を受けた方がいい。

 その方が、2人のためになる。

 楽しく、なかった。

 そう告げようと思って口を開くが、どうしても言葉にすることはできない。

 酸素を求める魚みたいに、唇だけがパクパクと震えている。

 疲れていたはずだ、大変だと思ったはずだ、ストレスだと思ったはずだ。

 私服も持っていない、マナーも知らない、羞恥心もない、この少女と過ごす日々を。

 言え。

 楽しくなかったと言ってしまえば、楽になれるはずだ。

 声に出そうと息を飲み込んだ瞬間、春が立ち上がる。

 握っていたココアをこちらに向かって突き出してくる。

 その唇は固く噛みしめられ、白い頬が赤く染まり、黒い瞳は涙に潤んでいる。


「あっ......」


 その顔を、自分は見たことがあったはずだ。

 授業参観の日のファミレスからの帰り道、あの日もココアを握った春がこうして不安に揺れた表情をしていた。

 あの時に、自分は何と言っただろうか。

 話をしようと、言ったはずだったのに。

 どうして、また春にこんな表情をさせているんだ、俺は。


「ごめんなさい」

「え?」

「私、芥お兄さんをイヤな気分にさせちゃったんだよね。だから、ずっと喋ってくれなかったんだよね」

「......違う」

「私、何も分からないから、芥お兄さんは楽しくないんだよね。1人で勘違いして、ずっと甘えてたんだよね。」

「違う!」


 自罰的な少女の発言を強く否定する。

 出したことのない大声に、喉が引きつるのを感じる。

 それでもお構いなしに感情のままに声を荒らげる。


「楽しくなかったら! 俺はこんなに面倒を見てねぇ! ガキが知り合いに甘えるのは当然なんだよ! 喋んなかったのも、お前が嫌いなわけじゃねぇ!」

「でも、芥お兄さんは優しいから──」

「バカが! 俺はそんな聖人君子じゃねぇよ! 過大評価なんだよ!」


 本当に優しかったら、あの日に通報したはずだ。

 つまらないと思っているなら、今からでも家から叩き出しているはずだ。

 嫌いだったなら、きっとこんなにも気持ちが揺さぶられることはなかった。

 ……そうだ、楽しかったのだ。

 イヤになること、ストレスを感じることは確かにあった。

 それは嘘じゃない。

 今でも床に落ちている髪を見るたびにイヤな気持ちになるし、生活音にストレスを感じることはある。

 それでも、楽しかったのだ。

 真面目な顔して間抜けな事を聞いてくる姿、なんてことはない些細なことを喜ぶ姿、嬉しそうに髪を揺らして歩く姿。

 その横にいることは、楽しかった。

 その気持ちを否定する言葉は口にできなかった。


『書くのは、楽しくない?』


 春の声が頭に浮かぶ。

 楽しかったよ。

 楽しかったから、その分辛くなったんだ。

 自分の世界を汚されるのは、耐えられなかったんだ。

 ココアを差し出す手を、上から被せるように自分の手で覆う。

 缶はもうぬるくなっていた。


「ごめん。勝手に機嫌悪くなった。俺がガキだった」

「……私、居てもいい?」

「居ちゃいけないなんて、誰が言った?」

「居ていいって、芥お兄さんが言ってよ」

「......居たいなら、居ればいいよ」


 ずいぶんと強欲になったようで、言質をねだってきた。

 誰に似たんだろうか。

 自分のその発言を聞いて、強張っていた表情が和らいだ。

 瞳はまだ濡れたままであったが、先ほどと違って悲しみの色は見えない。

 生気のない目をした少女の姿は、段々と変わっているようでもういなかった。

 感情豊かになったものだ。


「自由だから」

「え?」

「小説を書いた理由。頭の中にある世界を書いている時は、自由な気分になれたから」


 前はあやふやな理由ではぐらかした、質問の答えにしっかりと答える。

 今度は目を逸らさずに、本心を晒す。

 不思議と、凪いだように穏やかな気持ちだ。

 今の自分なら、また書けそうな気がした。


「そうなんだ」

「......聞いておいて、反応が薄いな」


 はぁとため息をつく。

 結局、質問に深い意味などなかったのだ。

 勝手にイヤな気持ちになって、春を振り回してしまった。

 反省だ、これは。

 そう思っていると、春は小さくほほ笑んだ。


「また芥お兄さんの小説、読ませてくれる?」

「他の小説の方が面白いって言ったくせに」

「うん。でも、芥お兄さんの文、なんか好きだなぁって思ったよ?」

「......そうかい」


 好きと面白いは、違うのか?

 ただまぁ、好きと褒められるのはいい気分であった。

 また、書いてもいいかもしれない。

 そう思えた。


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