書くということ
きっかけはなんだったか、もう思い出すことはできない。
たしか、小学2年の夏だった気がする。
読書とは無縁であった自分が図書館に行ったのだ。
本を読むために図書館に行ったわけではない。
学校で唯一クーラーが効いている部屋が、そこしかなかったのだ。
親が学校に迎えに来るまでの時間潰し。
それだけの理由だったはずだ。
しかし、暇つぶしと何となしに手に取った児童小説が、自分の人生を変えた。
主人公はヴァンパイアの少年の物語だ。
傷つきながらも大切な者を守るために戦い続ける。
今思えば、ありきたりなストーリーだったと思うが、子どもの自分には新鮮であった。
親が迎えに来る時間を忘れて、夢中で読みふけった。
子どもたちの甲高い笑い声が遠くに聞こえ、古びたほこりの臭いがしたあの場所は、鮮明に思い出せる。
手に持ったハードカバーの本の重さや指に伝わる紙の感触は、サッカーボールやバットよりもしっくりと手に馴染んだ。
ページをめくる度に紙の音がして、脳は文字が伝える世界を自由に描いていた。
人間関係が複雑に絡み合い、葛藤や試練に心が動き、結末に目頭が熱くなった。
それからは外で遊ぶのはそこそこに、活字の世界に入り浸っていた。
なんてことはない、他の子どもと一緒だ。
世界で活躍するスポーツ選手に憧れて同じスポーツを始めるように、初めて聞いた曲に心奪われミュージシャンを目指すように。
自分のノートの端っこに、小さく小さく自分の世界を書き綴り始めたのだ。
最初の世界は小さかった。
『芥は、苦しみやかなしみにあきらめることなく、たたかいつづけた』
単語をくっつけただけの、ストーリーも何もない文だった。
それでも自分が書いた文章を見ると、満足感があった。
自分にも書けるのだと思うと、誇らしげな気分でもあった。
ノートの余白、プリントの裏、専用のノート、原稿用紙。
書けば書くほど世界は大きくなり、しっかりとした形式になっていった。
ただ大きくなるにつれて、自分の文章が特別優れたものではないと理解し始めた。
斬新な発想があるわけでもなく、狂気じみた思想が書けるわけでもなく、平々凡々とした文章であった。
それでも、あくまで自分が楽しむための趣味として割り切ることはできていた。
スポーツだって音楽だって、別に1位を目指すことだけが正しいわけじゃない。
健康のためであっていいし、それ自体が楽しいことでもある。
書いて、捨てて、また書いて、それで終わりだったはずなのに。
『あんた、いつの間に小説なんて書いてたの! 面白そうだから、新聞に公募してた賞に送ってあげたわよ』
書き上げたものを、学習机の上に置きっぱなしにしていたものを母親が見つけたらしい。
そのころには自分はもう、パーソナルスペースに他人が入り込むことをストレスに感じていたから、その行為は許し難いものであった。
自分だけの世界が、勝手に晒されてしまった。
なにより理解できなかったことは、それが書籍となったことだ。
自分で優れていないと思ったものが、どうして賞を取るんだろう。
あれよあれよと進んでいく現実に、納得がいかなかった。
理由は簡単だった。
若く、話題性があったから。
たまたま不作であった年に、中身以外で売れそうな要素があったから。
自分の世界が、ひどく汚された気分になった。
出版された自分の本をビリビリに破いてゴミ箱に捨てる。
人生で初めて、本を杜撰に扱った。
とても虚しい気分だった。
その日から、小説を書くことを辞めた。
——————
「あ、起きた。芥お兄さん、具合悪い?」
「......寝汗をかいただけだ」
目が覚める。
ベッドに腰掛けて、不安そうにこちらを見つめている春と目が合う。
真冬と変わらないように布団を被っていたからか、汗をびっしりとかいている。
下着が肌に引っ付いて気持ちが悪い。
夢見が悪かったせいもあるだろう。
机の方を見ると、読み終わったであろう小説が置かれている。
とても久しぶりに、昔の夢を見た。
自分と家庭に、致命的なヒビが入ったきっかけだ。
結局高校卒業まで我慢できずに、中退して家を飛び出してしまった。
家を飛び出しておいて、結局文章で食っているのは自分でも意地汚いと思うが、それ以外自分ができそうなことはなかった。
調べたことを文章に起こす作業は性にもあっているし、ネットさえあればできるからとても助かっているのも事実だ。
ただ、もう小説は書いていない。
藤川さんに渡しているのは、プロットとキャラ設定や世界観くらいで、小説と呼べる代物ではない。
出会った時に送り付けたものは中学生までに書いた物であって、それから新しく書き下ろした物は何もない。
自分のために書くという行為は、意味がもはや変わっていた。
楽しむために小説を書くことから、稼ぐために記事や台本を書く。
現実から、他の誰かからネタを探すのは、書くことに対する姿勢が変わったことを示している。
何も考えずに、自分の世界を広げることだけに夢中になっていたあの頃の自分はもういない。
ずいぶんとまぁ、変わってしまったものだ。
思わず、嘲るような笑いがこぼれた。
友人も家庭も学校も、全て捨ててのめりこんだ末路が、その日暮らしのこのざまだ。
もう生き方に折り合いはつけたと思ったが、どうやらそうでもないらしい。
「芥お兄さんは、どうして小説を書いたの?」
黙っていた春が、開口一番そう言った。
てっきり本の感想を言われると思ったが、違うようだ。
どうして、小説を書いたのか。
答えは浮かんでいたが、素直に答えるのには抵抗があった。
「......体一つで、誰にもできたから。自分にもできそうだから」
「本当?」
「......嘘はついてない」
ベッドに手をついて、春が体をこちらに寄せてくる。
鼻と鼻が触れそうなほどに、顔を近づけてくる。
目と目が合う。
真っ黒な瞳に映った自分は、ひどく情けなく見えているだろう。
目を逸らし、逃げるように話題を変えた。
「小説、読んでどうだった。面白くなかっただろ」
「うーん。他の小説の方が、面白かったかも」
自分で投げかけた問いなのに、ズキリと胸が痛んだ。
分かっている。
傑作を産み出せるような人間ではないと、自分が一番分かっている。
むしろいいのではないか。
春のように、嘘のつけない人間から出た感想を求めていたのだろう?
年齢や話題性で売れるよりも、正当な評価を求めていたのだろう?
だから、これは甘んじて受け入れるべきだ。
「楽しくなかったの?」
「え?」
「芥お兄さん、前に読むのは楽しいって言ってた。書くのは、楽しくない?」
春の志望先を考えたとき、そういえばそんなことを言ったな。
楽しいかどうかなんて、最近は考えたことはない。
生きるために、金のために書くだけだ。
……昔は、そんなことを考えずに、書きたいから書いていたのだけれど。
「楽しいだけじゃ、ダメなの?」
「......どうだろうな。他人に迷惑かけなければ、それでいいかもしれない」
ハッキリとした返事ができずに、ありきたりな答えになる。
趣味なんて、楽しければそれでいいだろ。
そう言い切れないのは、自分の心に濁りがあるからだ。
そう思っているなら、自分はまだ書き続けているだろう。
「難しいね」
「あぁ、そうなんだ。難しい問題だ。分かったら離れろ。近いんだよ」
「近いと、ダメなの?」
「付き合ってない男女が近すぎるとな、問題になるんだよ」
「そうなんだ」
そう言いつつも離れる様子のない春の肩を押しのけて立ち上がる。
汗をかいた服を一刻も早く着替えたかった。
......汗臭くなかっただろうか。
服の首元をつまんですんすんと鼻を鳴らしたが、自分の臭いはよく分からなかった。
臭いが気になると、今度は他のことも気になり始めてしょうがない。
自分を見る春の目はどうだろうか。
自分の振る舞いは春に悪影響を与えていないだろうか。
自分のことを春はどう思っているだろうか。
昔のことを思い出したからだろうか。
最近は気にならなかった、春との距離感がストレスに感じる。
胃がキリリと痛み始める。
床に落ちている春の髪の毛が、どうしようもなく不快に感じてしまう。
不快に感じること自体が、結局自分は家を飛び出した頃から何も成長していないのだと実感させる。
それがまた、自責の念に拍車をかけた。
『どうして小説を書いたの?』
春の目を見て真っすぐに答えられない自分の卑屈さがイヤになる。
楽しかったんだよ、本当に。
ゴミ箱に本を捨てた、あの時までは。
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