アクセル
目が覚める。
体感的に、いつもより早く起きた気がする。
時計を見ようと寝ぼけた頭を動かせば、時計の針は6時を指したばかりであった。
用事もないのに起きるには、少し早い時間であった。
世の中には朝早く起きて、読書や勉強をする朝活が流行っているらしい。
まったく共感できない考え方だ。
どうして、この至福の時間を手放さなければならないのか。
自分の体温で温かくなった布団の中で寝返りを打つ。
睡眠は、いい。
眠るという行為そのものが好きだ。
寝ている間は何も考えなくていいし、毛布から感じる温もりは何よりも代えがたい心地よさである。
冬の寒さは嫌いだが、冬にしか味わえないこの布団の温かさは好きであった。
温もりを感じながらウトウトと二度寝をする感覚は、何度味わってもいいものだ。
そう思いながら意識を手放そうとした瞬間、玄関から物音がしてきた。
ガチャ、ガチャ、と聞き慣れた音がする。
玄関ドアの鍵を開けようとする音だ。
古いアパートだから、上手く鍵が回らない時があるのだ。
数回音がしてから、ガチャリとドアノブが回る音がした。
このアパートの鍵を持っているのは三人しかいない。
自分と大家と、春だけだ。
昨日渡した合鍵を、早速活用しにきたらしい。
休日の朝早くから来ることはないだろうに。
布団にくるまったまま、寝ぼけた頭で考える。
春のことだから、朝活なんて真面目な考えではないだろう。
目が覚めて、家でやることがないからとりあえずうちに来た。
それぐらいの感覚であろう。
少ししてから、居室と玄関まで仕切る木製の扉が静かに開いた。
私服姿の春が、そろりと部屋に入ってくる。
起きることなく、薄目でその様子を盗み見る。
何かやらかしそうなら起きて止めるし、静かにしているならそのまま二度寝しよう。
そう思っていると、座布団をベッドの脇に置きなおしてそこに座りだした。
俺の顔と手に持った合鍵を交互に見ては、口の端をにぃと上げている。
何がそんなに嬉しいのかは分からない。
俺の顔なんて見ても面白くはないだろうし、鍵だって自宅用があるはずだ。
……本当に持っているのか?
昨日の様子を思い返す。
家に入るまでは見送ったが、玄関に入る時鍵を取り出したようには見えなかったし、鍵をかけるような音も聞こえなかった気がする。
もしかしたら鍵を持つことは初めてで、自由にできる空間を手に入れた嬉しさがあるのかもしれない。
何もつけていない鍵を見つめている春を見る。
色々な角度から鍵を眺めているその姿は、無邪気だった。
このまま放っておくと、俺が起きるまでずっと鍵とこちらを見つめていそうな気がする。
本人がいいならいいような気もするが、もう少し有意義な時間の使い方をしてもらいたい。
それに、見つめられていると自覚しながら眠るのは難しそうだった。
布団の温かさに未練はあるが、諦めて起き上がる。
急に起きるとは思っていなかったのか、春の体がビクッと跳ねた。
「おはよう、芥お兄さん」
「おはよう。勝手に部屋に入るなよ」
「鍵をくれたってことは、入っていいってことじゃないの?」
「インターホンは変わらず鳴らせ、急に入られるとビックリするだろ」
「芥お兄さんは、今まで寝てたのにどうしてインターホン鳴らしてないって分かったの?」
「……勘」
普段起きない時間だから寝ぼけているようだ。
春に一本取られる日が来るとは、思っていなかった。
——————
納豆と卵だけをかけただけの手抜きのご飯を食べてから、ベッドに腰掛ける。
どれだけ締め切りが迫っていようと、土曜日だけは何も仕事をしない日と決めている。
ぼんやりと一日をどう過ごすか考える。
新しく買った小説を読んでもいいし、積んだまま手をつけていないゲームをしてもいいし、動画配信サイトで気になる映画を見てもいい。
天井を眺めながら、くだらないことを考える。
現代において、娯楽の供給と消化は釣り合っていないように感じる。
やりたいこと、見たいものはたくさんあるが、それを全て消化するだけの時間が足りない。
定職についていない今もそう感じるのだから、社会人はなおさらそうであろう。
時間を確保するために、朝活なんてものが流行るのだ。
そう思いつつも、体は布団に座ったまま動かない。
社会不適合者にも二種類。
趣味に疲労を感じる奴と、そうじゃない奴。
俺は前者だ。
時間が足りないと思いながら、夢中になって趣味を楽しめるほどの行動力や体力があるわけでもない。
この無駄な時間を使って、読書なりゲームなりすればいいのに結局ズルズルと時間を浪費してしまうのだ。
体感時間は、20歳で人生の折り返しを迎えるという。
今年で19歳、あっという間に時間は過ぎて行くだろう。
限られた時間、何をしようか。
そう思っていると、視界の端でカバンを漁る春の姿が見えた。
教科書とノートを取り出しているから、勉強でもするのだろう。
「前から思ってたけど、結構真面目だよな」
「なにが?」
「ずっと勉強ばっかしてるだろ。イヤにならないのか?」
「だって、他に何すればいいか分からないよ」
「それにしたって、飽きるもんだけどな」
ノートを見る。
細く薄い字がぎっしりと端から端まで埋まっている。
文房具代も節約しているのだろう。
偉いな。
俺が学生の時なんか板書も適当に写したスッカスカのノートだった気がする。
カバンから覗く国語の教科書が見えて、懐かしさを覚えた。
中学2年の国語は、何を取り扱っていただろうか。
『走れメロス』って、2年の時だったか?
「俺にも国語の教科書見せてくれ。少し気になる」
「分かった......あっ」
教科書特有の光沢のある表面に何か張り付いていたようで、2人の間にひらりひらりと舞って落ちた。
拾うまでもなく、それはくしゃくしゃになった紙幣だと分かった。
春は特に変わった様子もなく、札を拾ってまたバッグにしまっている。
こいつが財布を持っているわけがなかった。
改めてバッグを見ればパンパンと膨れており、この様子ではカバンに何が入っているか分かったものではない。
少し、整理した方がいいだろう。
「カバンの中に、俺に見せられないものはあるか?」
「? 多分、ないよ?」
「じゃあ、触らせてもらうぞ」
情緒が育っていない春のことだ。
食べ物とか生き物が入っていないとは断言できない。
恐る恐るカバンの中身に触れる。
教科書やノートを一つ一つ取り出す。
授業で使ったらしいプリントが乱雑に突っ込まれており、取り出す度にしわがついたプリントが出てくる。
「整理しろよ......」
「大事なプリントは、ちゃんとファイルに入れてるよ?」
「大事じゃないのは捨てろよ」
「学校でプリント捨てると、怒られるから」
「そういうのは家で捨てるんだよ......お前、家でゴミどうしてんの?」
「コンビニに捨ててるよ?」
「日常生活で出たゴミを、コンビニで捨てるのは普通にマナー悪いからやめろ」
「そうなんだ、次からはやめるね」
後でゴミの捨て方を教えよう。
それと、財布も買ってやろう。
バッグの底の方にあった、コンビニのビニール袋に入った小銭と札を見てそう思った。
貴重品の管理と、プリント類の整理と、ゴミの処理の仕方、どれも親から注意されて身につくものだ。
春のこういった面を知るたびに、心にもやがかかる。
どうして、自分勝手に生きている俺の両親は普通で、真面目に生きている春の両親が毒親なのだろうか。
運と言うには、あまりにも残酷な気がした。
カバンの中を全て出したとき、一番下に丸めこまれたプリントが一つあった。
教科書に揉まれてくしゃくしゃになった感じではない。
力を込めたのだろう、他のプリントと違って丸く小さく握り込められていた。
そのプリントが気になって、しわを伸ばす。
その紙には、授業参観の日程が書かれていた。
明後日の月曜日、昼前の3限目が対象の授業らしい。
学年が変わる前の様子を見てもらうことが目的らしい。
俺が持っているプリントを見て、春の表情が少し曇る。
「芥お兄さん、そのプリントも、捨ててほしいな」
「......」
春の昔のセリフを思い出す。
三者面談すら電話越しで済ます親だ。
授業参観なんて出席したことはないだろう。
きっと、春は授業参観をしっかりと体験したことはない。
……自分でも呆れるバカみたいな発想に、ため息をつく。
明らかに、最近の自分は異常だ。
どうしてこうも、首を突っ込みたがるようになってしまったのだろう。
悲しそうに目を伏せている春に向かって声を掛ける。
「......学校で、声を掛けるなよ?」
「え?」
「俺が行くから、あんまりこっち向いたりするな。少しだけ顔を出して、それで終わりだ」
「......いいの?」
「春がイヤなら、行かないが?」
他のプリントと違って見ないように丸めた様子から、授業参観に何か思うところがあるのだと感じる。
きっと、学校での様子を誰かに見てもらいたいのだろう。
なら、その誰かが俺でもいいだろう。
もう合鍵を渡しているのだ、行けるところまで行ってしまえ。
自棄になっていると分かっていたが、それでも発言は撤回しなかった。
俺の目を見る、春の瞳は揺れていた。
数秒無言で見つめあってから、春のか細い声が聞こえた。
声には、嬉しさが滲んでいた。
「芥お兄さんが、いいな。来てくれるなら、芥お兄さんがいい」
「じゃあ決まりだ」
「私、授業参観、どうしたらいいか、分からないな」
「別に、普通に授業受けるだけだろ。授業中に後ろを振り返ったり、変に張り切って答えようとしなければいい」
「そうなんだ......えへへ、楽しみだな」
珍しく声を出して笑うその様子を、わざと見ないでプリントの整理に集中したフリをする。
その笑顔を見たら、本当にどこまでも行ってしまいそうな自分がいると思ったから。
こんなに、俺はチョロい人間だっただろうか。
……無責任よりは、いいか。
変わっていく自分を、否定はしない。
「芥お兄さん。私、初めて学校が楽しみになったよ」
少し変わるだけで、喜ぶ人がいるから。
くしゃくしゃに丸めた授業参観のプリントを、春は破れないように丁寧に伸ばしていた。
もう内容は覚えたからプリント自体はいらないのだが、その姿を止めることはできなかった。
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