鍵
カタカタ、カタカタ、無心でキーボードを叩く音が部屋にこだまする。
手を動かすたびに、真っ白なメモ帳に文字が現れていく。
ずっと画面を見ていたせいか、乾燥した冬の空気のせいか、ひどく目が疲れている。
区切りの良いところまで作業を進めて、姿勢を崩して椅子にもたれかかる。
誰に見せるわけでもないのに、見栄を張って買ったゲーミングチェアがぎしりと音を立てる。
大きく深呼吸して、指先で目頭をマッサージする。
今日は普段より集中して作業ができた。
締め切りにもだいぶ余裕があるし、サークル活動にも問題はない。
藤川さんから『新作書いたから感想よろしく!』と言って新刊のデータを受け取っているから、早めに動く必要があるのはその返事をするぐらいか。
少し考えてから、リクライニングしていた椅子を起こしてパソコンに向かう。
いつもはすぐに行動なんてしないが、たまには早め早めにタスクをこなしてもいいだろう。
ゆとりを持った活動の方が、精神衛生上いいに決まっているのだから。
マウスを動かして、クラウドに共有されたPDFファイルを見つける。
クリックをしようとした人差し指が、ピンと伸びたまま止まる。
作業に没頭していたせいで忘れていたが、春が来ているのだ。
ジャンルは書かれていなかったが、藤川さんのことだからどうせ成人向けであろうそれを、未成年の前で開くわけにはいかなかった。
音がしないように後ろを見ると、シャーペン片手にうつらうつらと船を漕いでいる制服姿の春が、そこにいた。
数学の確率でも解いていたのか、手元のノートには樹形図が途中まで書かれている。
時計を見ると、もうそろそろ22時になろうとしているところだった。
(集中しすぎたな)
夕方に飯を食べてから、一度も春と会話をしていない。
最近は、自分がパソコンに向かっているときは仕事中だと理解したのか、春から話しかけてくることは減った。
そのためか、ずいぶんと時間が経っていることに気がつかなかった。
椅子から立ち上がり、ビックリして机の上のコップを倒さないように先にどかしてから声をかける。
「おい、起きろ」
「......おはよう、芥お兄さん」
居眠りから目が覚めた春は、俺の姿を見ると少し微笑んでからそう言った。
1月も終わりになってきて、出会ってから1ヶ月が経った。
血色が悪く、青ざめていた肌はだいぶマシになった気がする。
長期休みの間は給食がなかったのも大きいのだろう、学校が始まってから調子もよさそうである。
指通りの悪そうな伸び放題だった髪も、今は多少の輝きを放っている。
もう少し肉付きが良くて、表情がもっと明るければ美少女と言ってもいいかもしれない。
「私の顔、何かついてる?」
「別に」
じろじろと見すぎたのか、春が不思議そうに自分の顔を触っている。
その姿がどこかおかしくて、少し笑ってしまう。
まだ感情表現に難あれど、雪の下で凍えていたあのときの少女とは思えないほど明るくなったものだ。
感慨深く見つめていると、ますます春は不思議そうにしている。
「今日、泊まっちゃダメ?」
「ダメだ、書置きは無かったんだろ」
「......なかったけど」
「じゃあ帰れ。家まで送ってやるから」
「芥お兄さんが、うちに来るの?」
「家の前までな」
春は、次の日が休みの日はこうして泊まりたがる。
自宅だと一人で寂しいのだろうか。
両親に追い出されている時は仕方ないから泊めているが、それ以外は泊めないようにしている。
男の部屋に居るのが当たり前にもなってほしくなかったから、それだけは厳しく徹底した。
いつもは日が出ているうちに帰らしているが、今はもう外は真っ暗だ。
治安は良い方ではあるが、真夜中に一人放り出すのも不安なので送ることにする。
嘘をついたり駄々をこねたりすることもなく春が立ち上がる。
さっきまで泊まろうとしていたのに、やけに聞き分けがいい。
まぁ、動かないよりはマシか。
自分も立ち上がり、安物のカーキ色をしたモッズコートを羽織る。
そのまま出ようとして、制服の上に何も着ていない春を見て呼び止める。
「上着は?」
「忘れちゃった」
「忘れるって何だよ。寒くて気がつくだろうが」
真夜中に、制服を着た少女と歩きたくはない。
万が一職質にあった場合、言い逃れできるほど口が達者なわけではない。
ハンガーラックに干しっぱなしにされていた、自分のジップアップパーカーを渡す。
サイズが合っていない服は、制服を程よく隠してくれた。
余らせた袖をブラブラと遊ばせている春を横目に外に出る。
薄い雪がしんしんと降っている。
積もりはしないだろうが、明日の道路は凍っていそうだ。
別に外出の予定などないから、自分には関係のない話だが。
あまり運動神経が良さそうには見えない春をチラリと見る。
街灯に照らされた雪が、いつも通りの感情が薄い瞳に反射している。
「上ばっか見て転ぶなよ」
「うん」
送る、と言っても家を知らないので春に先導をさせる。
足が向いた先は、駅がある方角のようだ。
頭の中で近くの地図を思い浮かべる。
この辺りに、春が行ってそうな中学校はあっただろうか。
基本的に人のいるところには行かないので、3年も暮らしていてもこの辺りのことをよく知らない。
街灯がまばらだった道が、駅に近づくにつれ段々と等間隔で光るようになってくる。
夜の街並みは、雪も相まって昼とは別の様相を呈しているが、先を歩く春の足に迷いはない。
歩き慣れているようだ、その理由を考えたくはないが。
ポケットの中で鍵を手でいじりながら後ろをついていく。
春の足が止まったのは、駅に近い住宅街の中心地であった。
「家、デカいな」
「そうかな」
思わず声が出る。
今までの春の様子から、なんとなく裕福な家庭ではないと決めつけていたが、そうではないようだ。
三階建ての一軒家の白い壁は、一切の汚れがなく真新しい。
駐車場は普通車が4台くらい平気で入りそうな広さがある。
今はガランとしていて一台も止まってないが。
庭に目をやると、こないだ降った雪がそのまま積もっている。
誰も手入れをしていないようで、日中に溶けた部分が凍って長い間残っているようだ。
大きい窓も、全てカーテンで覆われていて生活感はあまりない。
「私は、小さくても芥お兄さんの部屋の方がいいな」
「......そうかい」
小さく呟いた春は、心なしかいつもより小さく見えた。
家を見上げる顔には、雪が降って涙のように溶けている。
自宅に帰ってきたというのに、少しも嬉しくはなさそうだ。
はあとため息をついて、ガシガシと頭を掻く。
ポケットから財布を取り出して、小銭入れを開く。
渡すつもりはなかったが、春の姿を見たら体が勝手に動いてた。
取り出した物を、春の手に握らせる。
「無くすなよ」
「え......これ、鍵?」
「アパートの合鍵。俺がいない時もあると思うから」
こないだ一人で散歩している時に、考えていた悩みの答えでもあった。
それを渡すということは、本当に後戻りができないことだ。
今までいくつか物を春に買い与えていたが、自分とのつながりを示すものは何一つ買ってはいなかった。
服、日用品、食料、どれもこれも、はぐらかそうと思えばいくらでもはぐらかせるものでしかない。
アパートの鍵は違う。
もしもその鍵が第三者に露見した場合、春と自分の繋がりまでバレてしまうものであった。
だから、それを渡すつもりはなかった。
さっきまでは、本当にそう思っていたのに。
悲しそうに自宅を眺める春の姿が、その考えを吹き飛ばしてしまった。
「いいの?」
「誰にも見せるなよ。秘密だからな」
「秘密......」
春の瞳には銀色の鍵が写っている。
その瞳がうるんでいるように見えたのは、多分雪でも目に入ったのだろう。
ずっと無言でその鍵を見つめてから、大事そうに両手で抱きしめている。
「ありがとう、芥お兄さん。絶対に、大事にするね」
「......そこまで気張らなくてもいい」
「絶対に、無くさない」
「そうしてくれ」
震えた声に、熱を帯びた瞳に、あまりしっかりと返事はできなかった。
取り返しのつかない自分の行動に、気恥ずかしさと後悔が入り混じった感情を抱いていた。
まぁ、いいか。
この少女に、安心できる居場所があればいい。
自然と、そう思えた。
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