第四章 名前のない少女
翌日、ガレスは少女に名前を尋ねた。
「名前は?」
「識別番号は、L-09です」
「そうじゃない。名前だ」
「……」
少女は沈黙した。
記憶領域を検索しているのかもしれない。
数秒後、彼女は言った。
「わかりません」
「親の名前は?」
「わかりません」
「どこから来た?」
「わかりません」
「何をしていた?」
「わかりません」
「……ずいぶんと、わからんことばかりだな」
「申し訳ありません」
「謝るな」
ガレスはため息をついた。
記憶領域が損傷しているのだろう。過去の情報が消えているか、アクセスできない状態にある。
無理に復旧しようとすれば、残っている人格データまで壊しかねない。
とりあえず、身体を動かせるようにするのが先だった。
ガレスは少女の右脚を修理した。
正確には、修理したというより、使える部品を組み合わせて作り直した。
脚の外装には、古い計測器のケースを加工して使った。膝の駆動部は荷役用アンドロイドのもの。足首には、壊れた時計の歯車を二枚、加工して取り付けた。
見た目はひどい。
右脚だけ、継ぎ接ぎだらけの機械人形のようになった。
しかし、動く。
「……立ってみろ」
少女は作業台の端に手をついた。
左脚を下ろす。
右脚を下ろす。
床に足が触れた。
ぐらり、と身体が傾く。
「おっと」
ガレスが支えた。
少女の身体は軽かった。
細い腕が、彼の作業着を掴んだ。
「……すみません」
「謝るな。初めてなんだから、転んで当たり前だ」
「初めて……」
「そうだ。立つのは初めてだろ」
「……はい」
少女は、もう一度床を見た。
そして、ゆっくりと立ち上がった。
一歩。
ぎこちない足取りだった。
二歩。
右脚の歯車が、かちり、と鳴った。
三歩目で、少女は転んだ。
ガシャン。
ガレスは額を押さえた。
「……まあ、そうなるよな」
「申し訳ありません」
「だから謝るなって」
少女は床に座り込んだまま、彼を見上げた。
「……もう一度、やってもいいですか」
ガレスは一瞬、言葉を失った。
それから、椅子を引き寄せた。
「好きなだけやれ」
少女は立ち上がった。
転んだ。
また立った。
また転んだ。
そのたびに、ガレスは歯車の噛み合わせを調整し、駆動軸の角度を修正した。
夕方には、少女は工房の端から端まで歩けるようになっていた。
彼女は窓際まで歩き、外を見た。
そこには、煤に覆われた街並みが広がっていた。
空中都市を支える巨大な鎖。
煙突から立ち昇る蒸気。
遠くで、貨物用の飛空艇が雲の下を通過していく。
「……空」
少女が呟いた。
「空が、あります」
「そりゃあるだろ」
「……きれい」
ガレスは窓の外を見た。
灰色の空だった。
雲は低く、排煙で濁っている。
美しいと言えるものではない。
「どこがだ」
彼が言うと、少女は首を傾げた。
「……わかりません。でも、きれいです」
ガレスは何も答えなかった。
少女はしばらく空を見つめていた。
やがて、彼女は小さく尋ねた。
「……わたしも、あそこへ行けますか」
「どこだ?」
「空」
ガレスは、窓の外を飛んでいく艇を見た。
あれは貨物艇だ。
古いエンジンを積み、速度は遅く、航路も限られている。
空中都市の下層へ降りてくることさえ、滅多にない。
そして自分は、もう飛空艇に乗るつもりなどなかった。
「……さあな」
そう答えるのが精一杯だった。
少女は、少しだけ残念そうに俯いた。
その日の夜、ガレスは少女に名前をつけた。
「おまえ、リラでいいか」
「……リラ?」
「ああ。昔、空に咲く花があったらしい。今じゃ誰も見たことがないがな」
実際には、そんな花の名前だったかどうかも怪しい。
彼が整備局にいた頃、同僚が歌っていた古い歌に出てきただけだ。
それでも、音の響きが気に入っていた。
「リラ……」
少女は、その名前を何度か口にした。
「それが、わたしの名前ですか」
「気に入らないなら、ほかのを考える」
少女は首を横に振った。
「……いいえ」
琥珀色の瞳が、ガレスを見つめた。
「わたしは、リラがいいです」
その夜、工房の古い照明は、いつもより少しだけ明るく見えた。




