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月夜の霞に梟鳴きて――青炎に囚われた者たち――  作者: 藤橋峰妙
第一話「青い炎 / The Blue Flame」
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05 どこまでも青い海のように

 • ─────────── •


 炎が床を這い、畳の縁をなぞり、壁紙の継ぎ目へ逃げ道を探すように舌を伸ばしていた。


 天井へ立ち昇る火は、空気を喰らって燃え続けている。どこまでも青い、海のように。


『お姉ちゃん! 早く行って!』


 熱で歪んだ空気の向こうから、声が飛んでくる。


 凛が一歩踏み出そうとした瞬間、目の前の炎が激しく弾け、散った火の粉が頬を掠めた。


『その子を早く連れて行って! 私は別の道を探すから』

「駄目っ! 置いていけないって言ってるじゃん!」

『大丈夫だから――げほっ……だから、私を信じて!』


 腕の中に抱いた子どもはひどく軽かった。


 それなのに、全身から伝わってくる震えだけが、妙に生々しい。汗と煤に濡れた小さな背中が凛の腕へ張りつき、熱に浮かされたような浅い呼吸を繰り返していた。


 凛は炎の向こうに妹の姿を探した。


 けれど、その輪郭はどこにも見えない。ただ激しく咳き込む音だけが、乾いたものを肺の奥から削り出すように響いてくる。


 凛自身の喉も焼け、声はとうに掠れていた。


「で、でも……!」

『大丈夫! ねえ、お姉ちゃん。お願い!』

「そ――」


 そのとき、自分が何と返したのか、凛は思い出せない。


 ただ、分かっていた。


 炎の向こう側に、妹が逃げられる道などもう残されていないことを。


 気づいていたのに助けられなかった。


 息を吸うたび、胸の奥が焼けた。全身を火に炙られ、皮膚の内側まで熱が入り込んでくる。青い炎が世界を呑み込み、視界の端から端まで染め上げていく。


 その最中、場違いなほどはっきりと、凛は思った。


 ――この炎、どうして青いんだろう。


 次の瞬間、喉の奥が裏返るような違和感と、焼けつく熱が押し寄せた。


 夏の夜の湿った暑さではない。


 熱した鉄板へ手を近づけたときのように、皮膚が引き攣れ、どこへ逃げても追いすがってくる熱だ。


 うるさい。

 頭が痛い。

 変な匂いがする。


 ――何かが燃えている。


 そう思ったところで、瞼の裏へ張りついていた赤黒い光が強くなる。凛は重たい目を擦りながら、布団の上で身を起こした。


 視界は暗かった。


 その暗がりの中で、赤黒い煙と、その周囲に揺れる橙色の光がばちばちと弾け、部屋の輪郭を断続的に浮かび上がらせている。


「……え、え……ま、さか」


 ごうごうと燃え上がる炎。

 

 鼻を刺す嫌な臭い。


 何かが焼け、崩れていく音。熱を帯びた空気が肺の奥へ流れ込み、凛はようやく夢の底から叩き起こされた。


「えっ、か、火事!?」


 部屋が、火に包まれていた。


 畳の表面は熱で黒く波打ち、壁の内側から、みしみしと小さな音が鳴っている。


 熱に頭を殴られたように視界が揺れ、凛は布団から転がり落ちるようにして這い出した。


「うぁっ、あ……に、逃げな……っ、げほっ!」


 煙を吸い込んだ喉の奥で、ひゅう、と嫌な音が鳴った。


 息がうまく入らない。凛は服の袖で口元を押さえ、よろめきながら窓へ向かう。


 窓の外は、下の階から巻き上がる黒煙に塞がれていた。窓へ灰色の壁が張りついたようで、地面どころか、飛び降りられる高さかどうかさえ分からない。


 無理だと判断するよりも早く、凛は玄関へ向かった。恐怖で強張った足を叱りつけるように、一歩ずつ動かしていく。


 充満した煙が身体へまとわりつき、汗と煤に濡れた髪が頬へ張りついた。


 目が焼けるように痛み、涙で視界が滲む。それでも凛は袖口を鼻と口へ押し当てたまま、玄関の扉を開けた。


「ひっ――あ、熱……うっ、ひゅ……!」


 廊下にはまだ大きな火の手は回っていなかったが、熱気と黒煙がすでに充満していた。数メートル先さえ霞み、天井や壁際では、小さな炎がちらちらと揺れている。


 そのとき、煙の向こうから子どもの泣き声が聞こえた。続いて、弱々しい女の声が重なる。二階の一番奥にある部屋だ。


 そこには、足の悪い高齢の女性と、小さな男の子が暮らしていた。


 考えるよりも先に、凛は駆け出していた。


「だ、誰か――誰か、いますか……っ、げほっ!」


 咳き込みながら声を張ると、煙の奥から引き攣った細い声で「助けて」と返ってきた。


 凛は扉を押し開け、そのまま部屋へ飛び込んだ。


 隣室との境になっている壁は、火と煙に呑まれて崩れかけていた。床の上にも細い炎が伸び、畳の表面を舐め始めている。


 部屋の奥では、小さな男の子が泣きながら、倒れた箪笥のそばにしゃがみ込んでいた。凛の姿を見つけた途端、涙に濡れた顔が縋るようにこちらを向いた。


 箪笥の下には、小柄な女性がうつ伏せに倒れていた。


 腰から下を挟まれ、身じろぎもできない様子だ。男の子は女性の服を両手で掴み、必死に引っ張っている。


 凛は、その光景を前に息を呑んだ。


「ぬ、抜け出せないの。おばあちゃん、足が悪くて……」


 男の子が早口で訴えた。


 その言葉を聞き、凛は、いつも杖をついてゆっくりと歩く女性の姿を思い出した。


「お願い、その子を――」

「お、おばあちゃん!」


 女性の声に、男の子の叫びが重なる。女性は苦痛と焦りを滲ませながら、凛を見上げた。


 何としてでも子供を助けたいという視線だった。


 凛は反射的に男の子を抱き上げ、口元を自分の腕で覆いながら、まだ煙の薄い反対側の壁際へ移動させた。


「な、何を……うぅっ! その子を、連れて逃げて……!」

「嫌だ!」


 男の子が叫び、女性のそばへ戻ろうとする。凛はその肩を押さえた。


「煙を吸わないように、口を隠して!」


 凛が袖口から腕を離して見せると、男の子は泣きながら自分の服を鼻と口へ押し当てた。


「わ、私は、まだ大丈夫ですから……!」

「どこを怪我していますか」

「う、ぐ……っ。た、たぶん、もう、足が……」


 女性は苦痛に顔を歪め、箪笥の下へ挟まれた足へ視線を落とした。もともと悪かった足が、倒れた箪笥の重みで、さらに傷ついているのかもしれない。


 凛は唇を噛んだ。女性は大丈夫だと言う。だが、本当にそうなのだろうか。


 男の子だけでも連れて逃げるべきではないか。


 まず一人を確実に助けるほうが正しいのではないか。


 そう考えた瞬間、胸の奥を別の熱が走った。


 ――そうしたら、また、あのときと同じになる。


 置いていけない。


 もう誰かを残したまま、逃げることはできない。


 凛は倒れた箪笥へ手をかけた。熱を持った木材へ掌が触れ、じり、と焼けるような痛みが走る。それでも手を離さず、歯を食いしばって腕へ力を込めた。ずしりとした重みが両腕へのしかかり、肩から背中までが軋んだ。


「ぐっ、うぅぅ……っ! もう、少し……!」


 数センチでも浮けばいい。


 その一心で、凛はさらに力を込めた。腕が震えて、爪の先まで熱と痛みに痺れている。それでも箪笥はほんのわずかに床から持ち上がった。


 助けないと。その思いだけを支えに、凛は息を詰める。


「一気に上げますから……せえのっ!」


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