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月夜の霞に梟鳴きて――青炎に囚われた者たち――  作者: 藤橋峰妙
第一話「青い炎 / The Blue Flame」
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04 普通って、何

 電話の向こうで優翔が短く息を詰まらせた。言葉を選びあぐねている気配が、その沈黙からそのまま伝わってくる。


 優ちゃん、などと呼んだことはなかった。それなのに、自分の口からこぼれたその呼び方が凛の耳に妙に引っかかった。


『……ちょっと待って』


 凛に向けた言葉なのか、それとも向こう側にいる誰かへ告げたものなのか分からない。優翔の声が遠ざかり、先ほどまで聞こえていた甘ったるい声も、雑踏も、ふいに切り取られたように消えた。


『今のは、俺のことじゃなくて』

「……そっか。それで、ほかに用事ある?」


 自分でも驚くほど、声は平坦だった。


『ああ。その……来週、会えないかな』


 ためらいがちに差し出された言葉に、凛は胸の内で小さく唸った。


 ――今の声は、誰。


 そう聞けばよかった。


 問い詰めれば、もう少し何かがはっきりしたかもしれない。それでも言葉は喉の奥で形にならないまま止まってしまった。


『話したいことがある』

「……いいよ」


 短く答え、ほんのわずかに間を置く。


「私も、話したいことがあるから」

『わ、分かった。その……時間は、また連絡する』


 凛は返事を聞いたあとになって、本当に連絡が来るのだろうかと考えた。けれど、これが最後になるのだと思えばどうでもよかった。


「……うん」

『ありがとう、凛』

「ううん。じゃあ、切るね」

『凛、本当にさっきのは違う。本当に――』

「分かった。……分かったから」


 携帯を耳から離し、凛は赤い通話終了ボタンを強く押した。


 もう片方の手に提げたコンビニの袋が、握り込んだ指の中でかさかさと乾いた音を立てる。


 何度も約束を破った相手を、信用できるはずがない。


 それなのに心のどこかにはまだ信じたいと思っている自分が残っている。


 ――もう、違う。


 そう言い聞かせるように、凛は視線を落とした。


 優翔にとって自分は、忙しい予定の二の次か、三の次なのだろう。


「……浮気、かなあ。まあ、やっぱり、そんなものだよねえ」


 空を見上げると、薄い夕焼けが広がっていた。


 まだ明るさを残した空には、沈みかけた太陽と白い月が同時に浮かんでいる。


「ばっかみたい。みっともないなあ、私」


 何がいけなかったのだろう、と考えた瞬間、内側へ沈めていたものが一斉に浮かび上がった。


 足りなかったこと。できなかったこと。言えなかったこと。ひとつずつ拾い上げていくうちに、息が詰まり、自分の中に刻まれた引け目や劣等感が際限なく膨らんでいく。


 凛は歯を食いしばって走り出した。


 考えたくなかった。


 何も考えないために、目の前の道だけを見て足を動かした。呼吸が荒くなり、視界が揺れても止まれない。胸の奥にあるものを振り切るように、ただひたすら走り続けていた。


 息を切らしながらアパートへたどり着き、凛は玄関の扉を乱暴に開けた。


『――お姉ちゃん、おかえり! どうしてそんなに急いで帰ってきたの?』


 そう聞こえてきて、凛は足を止めた。

 

 明るいと思っていた廊下は薄暗く、玄関に立つ凛を天井のダウンライトだけがぼんやりと照らしている。

 

 いるはずのない声だ。


 着替えず布団へ倒れ込み、鞄も携帯も床へ放り出す。仰向けのまま天井を見上げると、古い染みが薄暗がりの中にぼんやりと広がっていた。


 嫌になるほど、部屋は静かだった。


 胸の奥には、ぽっかりと穴が空いている。


 そして、この部屋にもまた、人一人分の空白が残されている。


 時間が経つほど、その空白が少しずつ広がり、凛の胸を内側から掴んできた。

 

「……なんで、こんなに」


 両手で顔を覆い、凛は指の隙間から、簡素なテーブルの上に置かれた写真立てを見た。


 写真には、凛ともう一人の少女が写っている。隣に立つ少女は向日葵のように明るく笑いながら、カメラではなく、凛の顔を見上げていた。


 ――長廻(ながえ)(すず)


 妹がいた頃、この部屋にはもっと音があった。


 声があり、笑いがあり、どうでもいい言い争いや何気ないやり取りがあった。それらがずっと変わらずに続いていくのだと、凛は思っていた。


 涼が今も生きていたなら、どんな顔をして、どんな声で、凛に何を言うのだろう。


『お姉ちゃん、怖い顔してないで、笑ってたほうがいいの!』

『もう、いつまでもうじうじしてちゃ駄目だよ』


 もし生きていたなら、涼も凛も、今とは違う生き方をしていたのだろうか。


 ――どうして、こんなにうまくいかないのかな。


 ふと、朝陽の言葉が耳の奥に蘇った。


 ――もしかして、もう好きじゃないの?


 あのとき、凛はすぐに答えられなかった。


 だから、こうなることは仕方がなかったのかもしれない。朝陽も凛の迷いに気づいていたからこそ、あえて口にしたのだろう。


 優翔との関係が変わっていることには、ずっと前から気づいていた。


 それでも結論を出さず、見ないふりをしたまま時間だけを引き延ばしていた。味のなくなったガムをいつまでも噛み続けるように、終わらせることも、飲み込むこともできずにいた。

 

 今になって振り返れば、自分が心から優翔を好きだったのかどうかさえ、もう分からない。

 

 優翔のことだけではなかった。涼を失ったことも、凛はまだきちんと受け止められていない。どちらも自分で選ばず、答えを出さないまま、時間だけが先へ進んでいる。

 

 もしかすると凛は、優翔そのものを求めていたのではなく、「普通の人生」を形づくるために必要なひとつとして、彼をそこに置いていただけなのかもしれない。


 ――普通の人生。


 それは、涼が手に入れられなかったもの。


 勉強をして、恋をして、友達と笑い、仕事をして。いろいろな経験を重ねながら生きていく。


 涼にはそのどれもが許されなかった。だから凛は、自分が代わりにそれを叶えなければならないと思った。


 涼が歩けなかった人生を、自分ができるだけ普通に、できるだけ長く歩く。


 それが、残された自分にできることなのだと信じて。


「普通って……難しいよ、涼」


 普通って、何。


 気づけば、涙が頬を伝っていた。


 そう問いかけても、写真の中の少女は答えない。ただ、隣にいる凛の顔を嬉しそうに見上げている。写真の中の凛だけが、まっすぐカメラを向いていた。


「……っ、う……うう……っ」


 手のひらの隙間から、涙が流れていく。


 止めたいのに止まらなかった。優翔のことも、四年前に亡くした最愛の妹のことも、何ひとつ、凛の中では終わってはいなかった。


 埋まらない空白を抱えたまま、凛は布団の上で身体を小さく丸めた。


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