03 許してもらえるわけないけど
言いかけて、朝陽は言葉を飲み込んだ。その間に生まれたわずかな空白を拾うように、凛は首を傾げる。
「どうしたの?」
「――本当に、すごいよね」
「何が?」
「さっきの。おばあさんに席、譲ったでしょ」
歩きながらこちらを振り返る朝陽に、凛は肩をすくめた。
「困ってそうだったし、当たり前じゃん」
「その当たり前のことを、当たり前にできるのがすごいの」
「うーん、そうかな……」
言われて、凛は足元へ視線を落とした。まだ熱を残したアスファルトの温度が、靴底越しにじわりと伝わってくる。
「目の前で困っている人がいたら、見て見ぬふりはしたくないだけだよ」
「それがすごいんだって」
てらいのない声で言い切られ、凛は少しだけ居心地が悪くなった。こうして真正面から言葉を向けられると、どう受け取ればいいのか分からなくなる。
――でも、これは裏があるな。
「褒めても、何も出ないよ?」
「……あ、ばれた?」
朝陽はにやりと笑った。数歩先へ躍り出ると、くるりと振り返り、胸の前で両手を合わせる。
「神さま、仏さま、凛さま。どうかここにいる哀れな学生をお助けくださいっ!」
大げさな仕草に、凛は呆れたように息を吐いた。
「うーん、内容によるけど。何、課題?」
「サトセンのやつ! 先週のレジュメ、保存するの忘れたの。今週の課題を出さないと、さすがに成績が危なくてさ」
ああ、と凛は納得した。サトセンこと、里山先生の授業だ。
「サトセン、すぐファイル消すもんねえ。いいよ、レジュメくらい」
「本当!?」
朝陽の顔が、光でも弾けたように明るくなる。
「このお礼は必ずするから!」
「いいって。帰ったらすぐ送るね」
「ありがとーっ、凛!」
「わっ。あっちゃん、重い、重い!」
勢いのまま飛びついてきた朝陽を受け止め、凛は思わずよろけた。朝陽の腕を外そうとしながらも、結局は仕方なく笑った。
「もう、しょうがないなあ」
横断歩道を渡っていく朝陽の背中を見送り、凛は踵を返した。
そのままポケットから携帯を取り出すと、通知が一件。バイト先から明日のシフトについて連絡だった。
『明日の朝、大学いつ頃行く?』
今度は朝陽から。返事をしようとアプリを開いた瞬間、画面の上部に、もう一件通知が差し込まれる。
『ごめん、連絡できなくて。本当にごめん』
「あ……」
表示された名前を見た途端、心臓を下へ引き落とされたような感覚が走った。
いまさら、と思う。
既読をつけないまま画面を閉じてしまおうか。そう考えたときだった。
ぶるる、と手の中で携帯が震えた。
「わっ」
突然鳴り出した着信音に驚き、凛は危うく携帯を取り落としかけた。
表示されている名前は、市ノ瀬優翔。
出るか、出ないか。
迷っている間にも着信音は鳴り続ける。十回を過ぎても途切れる気配がない。振動だけが、じりじりと掌へ残っていく。
いつの間にか唇を噛んでいたことに気づき、凛はゆっくりと力を抜いた。それから意を決し、通話ボタンを押す。
「……長廻ですけど、何ですか」
せめてもの抵抗として他人行儀に告げると、耳元で息を呑む音がした。
『あ――凛。俺だよ、優翔。その、ごめん。本当に、許してもらえるとは思ってないけど……ごめん』
言葉だけがせわしなく溢れ、そのあとに凛の返事を待つ沈黙が続いた。凛は一度息を整え、口を開いた。
「それだけ?」
『あ……いや』
「それだけなら、もう切るね」
二人の間に沈黙が落ちた。凛はそれ以上の言葉を見つけられず、震えそうになる唇を結んだ。
先に声を出したのは、優翔だった。
『――待って。待ってくれ』
「何?」
『その……理由を説明するから。本当に悪かった。こんなに忙しくなるなんて、思ってなかったんだ』
切羽詰まった声に凛は眉をひそめる。隠しきれていない狼狽が、電話越しにもはっきりと伝わってくる。
携帯の向こう側からは絶え間なく喧騒が聞こえていた。通勤時間の駅のホームにも、大勢の人でごった返す祭りの会場にも聞こえる。人の声と物音に埋もれ、優翔の声は何度も途切れた。
『ねぇー、ゆうちゃん? 誰と電話してるのぉ? もう、電話なんかしないでよぉ』
けれど、その声だけはやけにはっきりと耳へ届いた。
携帯が手から滑り落ちそうになり、凛は反射的に握り直した。今度は強く握りすぎて、端末がみしりと軋んだ。
甘い女の声だった。
全身の神経が一斉にざわめき、不快な痺れが皮膚の下を駆け抜ける。目の前が暗くなり、足元がわずかに揺れた。
凛はくらりとした頭を支えるように、空いている手を額へ当てた。
「……ねえ」
自分でも驚くほど、低い声が出ていた。
「今、どこにいるの。優ちゃん」




