02 あんたには幸せになってほしい
「優翔のやつ、今度会ったら、ただじゃおかないから」
言葉は軽いのに、朝陽の指先はフォークを強く握ったままだった。金属が皿の縁に触れてかすかな音を立てる。
「もう、本当に大丈夫だってば」
そう返しながら、凛は視線を落とした。
大丈夫という言葉が、自分の中でうまく形にならないまま、頼りなく浮いているのが分かった。
「……もしかして、もう好きじゃないの?」
「えっ?」
胸の奥で何かが跳ねた。脈とは違う。問いかけが届いてから、わずかに遅れて衝撃だけが広がったような感覚だった。
感情が表へ飛び出しかけたことに気づき、凛は「うーん」と唸って誤魔化した。
「分かんない……」
言ってから、その言葉が思っていたよりも軽く口を出たことに気づいた。
朝陽の目が一瞬だけ細められる。そこにほんのわずかな揺れが浮かび、すぐに消えた。
「もっと怒ってもいいのに」
静かに言って、朝陽はフォークを皿の上へ置いた。
「凛、もう少し自分の気持ちを大事にしなよ。嫌なら嫌、好きなら好きって言っていいの。あんたは、あんたが幸せだと思えるほうを選ぶの」
朝陽の視線は、凛から外れなかった。
「……私、あんたには幸せになってほしい」
「あっちゃん」
凛は両手でカップを包み込んだ。指先に伝わった温度が、じんわりと手のひらへ広がっていく。
「その、心配しないで。今日はあっちゃんに会えてよかったし、おいしいケーキも食べられたし、楽しかった。いい気分転換になったよ」
「凛、でも――」
朝陽の眉が下がるのを見て、凛はその先を遮った。
「だから、この話はこれでおしまい」
顔を上げ、重くなった空気を払うように、凛は少しだけ笑った。
「愚痴に付き合ってくれてありがとう。あっちゃんが代わりに怒ってくれたら、なんだかすっきりした。ちゃんと、優翔と話すから」
「うん。それがいいって。……あんなやつ、早く別れなよ」
「そうだね。私も、あっちゃんには幸せになってほしいよ。最近はどうなの?」
「最近?」
問い返した朝陽は、わずかに視線を逸らした。先ほどまでの勢いが、少しだけ抜けている。
「……まあ、勉強があんまり進んでないくらい」
小さく呟き、朝陽は肩を落とした。その仕草が珍しくて、凛は思わず笑った。
「勉強かあ。あっちゃんらしいなあ」
朝陽は大学でもよく目立つ美人で、周囲から好意を向けられることも多かった。
しかし本人は自分の恋愛にはほとんど関心を示さず、暇さえあれば勉強や将来の話をしている。
「国家公務員志望だっけ?」
「そー」
朝陽は盛大にため息をつき、さらに深く肩を落とした。
彼女は、大抵のことを危なげなくこなしてしまう。成績もよく、勉強に関しては凛よりもずっと要領がよかった。むしろ、何ができないのか凛にはよく分からないほどだ。
それでも、何でもできそうに見える人にも、こうして立ち止まることはあるらしい。
「あっちゃんなら大丈夫だよ。手伝えることがあったら言ってね」
「……うん。ありがと」
朝陽は嬉しそうに笑ったが、成績上位の彼女に、凛が勉強で手を貸せることはほとんどなさそうだった。
――おしとよしは言えないのに。
「そういう凛はどうなの。インターン、行ってたでしょう」
「まあ、うーん。ぼちぼち?」
「なぁに、それ。私よりやばそう」
「ちゃんと行ってるよ。私のモットーは、大学を出て仕事をして、恋愛して、普通に長生きすることだからね」
凛は曖昧に笑って誤魔化した。
朝陽はそれ以上追及せず、コーヒーを飲み、残っていたケーキを口へ運んだ。凛も他愛のない会話を続けながら、机の端に置かれた携帯へ、そっと目をやる。
通知は一件も来ていない。胸の内で、何かが力なく肩を落としたような気がした。
「あいつから、まだ連絡来てないよね」
目ざとく気づいた朝陽が、凛の携帯を睨む。
「このあと、どこか行く?」
朝陽が腕時計へ目をやると、針は六時半に近づいていた。窓の外はまだ明るいものの、昼間の濃さを失い始めた空が、少しずつ薄い色へ変わっている。
「今日はもう帰ろうかな。明日、バイトあるし」
「そっか。じゃあ、今日は早く帰ろ」
二人は席を立ち、そのまま店を出た。
外へ出た途端、冷えた体へ熱気がまとわりつき、呼吸がわずかに重くなった。
歩けない距離ではなかったが、この空気の中を三十分も歩く気にはなれない。二人は自然と駅前のバスターミナルへ向かい、ちょうど到着したバスへ乗り込んだ。
車内は冷房が強く、外気との温度差に二人は同時に小さく身をすくめた。
凛は乗降口に近い一人掛けの座席へ座り、朝陽はその前の席に腰を下ろした。この暑さでは歩く気になれないのはほかの人も同じらしい。発車する頃には座席の大半が埋まり、通路にもいくらか人が立っている。
城下町の狭い路地を器用に抜けていったバスは、五つ目の停留所で止まった。扉が開くと、杖をついた白髪の女性がゆっくりと乗ってくる。
凛は、すぐに席を立った。荷物を抱え、女性へ声をかける。
「あの、よかったらどうぞ」
女性は驚いたように凛を見た。
「いいのかい? でも……」
「次の停留所で降りますから」
女性は少し迷ってから、ゆっくりと席へ腰を下ろした。
「ありがとうね」
その言葉を聞きながら、凛は吊革へ手をかけた。
次の停留所で、二人はバスを降りた。昼間ほどではないにしても、外にはまだ肌へまとわりつくような熱が残っている。
住宅街の道を並んで歩いていると、朝陽がふっと笑い、凛の顔を覗き込む。
「……凛、あんたってさ」




