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月夜の霞に梟鳴きて――青炎に囚われた者たち――  作者: 藤橋峰妙
第一話「青い炎 / The Blue Flame」
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02 あんたには幸せになってほしい

「優翔のやつ、今度会ったら、ただじゃおかないから」


 言葉は軽いのに、朝陽の指先はフォークを強く握ったままだった。金属が皿の縁に触れてかすかな音を立てる。


「もう、本当に大丈夫だってば」


 そう返しながら、凛は視線を落とした。


 大丈夫という言葉が、自分の中でうまく形にならないまま、頼りなく浮いているのが分かった。


「……もしかして、もう好きじゃないの?」

「えっ?」


 胸の奥で何かが跳ねた。脈とは違う。問いかけが届いてから、わずかに遅れて衝撃だけが広がったような感覚だった。


 感情が表へ飛び出しかけたことに気づき、凛は「うーん」と唸って誤魔化した。


「分かんない……」


 言ってから、その言葉が思っていたよりも軽く口を出たことに気づいた。


 朝陽の目が一瞬だけ細められる。そこにほんのわずかな揺れが浮かび、すぐに消えた。


「もっと怒ってもいいのに」


 静かに言って、朝陽はフォークを皿の上へ置いた。


「凛、もう少し自分の気持ちを大事にしなよ。嫌なら嫌、好きなら好きって言っていいの。あんたは、あんたが幸せだと思えるほうを選ぶの」


 朝陽の視線は、凛から外れなかった。


「……私、あんたには幸せになってほしい」

「あっちゃん」


 凛は両手でカップを包み込んだ。指先に伝わった温度が、じんわりと手のひらへ広がっていく。


「その、心配しないで。今日はあっちゃんに会えてよかったし、おいしいケーキも食べられたし、楽しかった。いい気分転換になったよ」

「凛、でも――」


 朝陽の眉が下がるのを見て、凛はその先を遮った。


「だから、この話はこれでおしまい」


 顔を上げ、重くなった空気を払うように、凛は少しだけ笑った。


「愚痴に付き合ってくれてありがとう。あっちゃんが代わりに怒ってくれたら、なんだかすっきりした。ちゃんと、優翔と話すから」

「うん。それがいいって。……あんなやつ、早く別れなよ」

「そうだね。私も、あっちゃんには幸せになってほしいよ。最近はどうなの?」

「最近?」


 問い返した朝陽は、わずかに視線を逸らした。先ほどまでの勢いが、少しだけ抜けている。


「……まあ、勉強があんまり進んでないくらい」


 小さく呟き、朝陽は肩を落とした。その仕草が珍しくて、凛は思わず笑った。


「勉強かあ。あっちゃんらしいなあ」


 朝陽は大学でもよく目立つ美人で、周囲から好意を向けられることも多かった。


 しかし本人は自分の恋愛にはほとんど関心を示さず、暇さえあれば勉強や将来の話をしている。


「国家公務員志望だっけ?」

「そー」


 朝陽は盛大にため息をつき、さらに深く肩を落とした。


 彼女は、大抵のことを危なげなくこなしてしまう。成績もよく、勉強に関しては凛よりもずっと要領がよかった。むしろ、何ができないのか凛にはよく分からないほどだ。


 それでも、何でもできそうに見える人にも、こうして立ち止まることはあるらしい。


「あっちゃんなら大丈夫だよ。手伝えることがあったら言ってね」

「……うん。ありがと」


 朝陽は嬉しそうに笑ったが、成績上位の彼女に、凛が勉強で手を貸せることはほとんどなさそうだった。


 ――おしとよしは言えないのに。


「そういう凛はどうなの。インターン、行ってたでしょう」

「まあ、うーん。ぼちぼち?」

「なぁに、それ。私よりやばそう」

「ちゃんと行ってるよ。私のモットーは、大学を出て仕事をして、恋愛して、普通に長生きすることだからね」


 凛は曖昧に笑って誤魔化した。


 朝陽はそれ以上追及せず、コーヒーを飲み、残っていたケーキを口へ運んだ。凛も他愛のない会話を続けながら、机の端に置かれた携帯へ、そっと目をやる。


 通知は一件も来ていない。胸の内で、何かが力なく肩を落としたような気がした。


「あいつから、まだ連絡来てないよね」


 目ざとく気づいた朝陽が、凛の携帯を睨む。


「このあと、どこか行く?」


 朝陽が腕時計へ目をやると、針は六時半に近づいていた。窓の外はまだ明るいものの、昼間の濃さを失い始めた空が、少しずつ薄い色へ変わっている。


「今日はもう帰ろうかな。明日、バイトあるし」

「そっか。じゃあ、今日は早く帰ろ」


 二人は席を立ち、そのまま店を出た。


 外へ出た途端、冷えた体へ熱気がまとわりつき、呼吸がわずかに重くなった。


 歩けない距離ではなかったが、この空気の中を三十分も歩く気にはなれない。二人は自然と駅前のバスターミナルへ向かい、ちょうど到着したバスへ乗り込んだ。


 車内は冷房が強く、外気との温度差に二人は同時に小さく身をすくめた。


 凛は乗降口に近い一人掛けの座席へ座り、朝陽はその前の席に腰を下ろした。この暑さでは歩く気になれないのはほかの人も同じらしい。発車する頃には座席の大半が埋まり、通路にもいくらか人が立っている。


 城下町の狭い路地を器用に抜けていったバスは、五つ目の停留所で止まった。扉が開くと、杖をついた白髪の女性がゆっくりと乗ってくる。


 凛は、すぐに席を立った。荷物を抱え、女性へ声をかける。


「あの、よかったらどうぞ」


 女性は驚いたように凛を見た。


「いいのかい? でも……」

「次の停留所で降りますから」


 女性は少し迷ってから、ゆっくりと席へ腰を下ろした。


「ありがとうね」


 その言葉を聞きながら、凛は吊革へ手をかけた。

 

 次の停留所で、二人はバスを降りた。昼間ほどではないにしても、外にはまだ肌へまとわりつくような熱が残っている。


 住宅街の道を並んで歩いていると、朝陽がふっと笑い、凛の顔を覗き込む。


「……凛、あんたってさ」


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