36 大鷲の主任
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佐伯の執務室へ向かうあいだ、東雲は珍しくほとんど口を開かなかった。
第一班の執務室を出て、硝子張りの渡り廊下を進む。朝から降っている雨が窓を細く伝い、その向こうでは、濡れた尖塔の屋根を魔法鳥が二羽、低く横切っていった。
燐は東雲の半歩後ろを歩きながら、先ほど小鳥遊から聞いた話を思い返していた。
昨夜逮捕され、今朝死亡。
荒菱亘は事件への関与を認めたという。それなのに、肝心の方法については何も話していない。
突き当たりの重厚な扉が近づいたところで、東雲が急に足を止めた。燐も危うくその背中へぶつかりかけて止まる。
「燐さん」
「なに」
「無理に話さなくて大丈夫です」
燐は眉を寄せた。
「……どういうこと?」
「必要な確認は俺がします。あなたは普段通りにしていてください。今はその方が、余計な勘繰りをされませんから」
「普段通りって」
東雲は燐の顔を見て、薄く笑った。
「その顔です」
「……今の?」
「ええ。少し不機嫌そうで、何を考えているのか分からない顔」
燐の眉がさらに寄る。
「ほら、それです」
腹が立つような気もしたが、助かるのも事実だった。
佐伯とは一度話している。けれど、もう一人いる相手が氷月燐とどの程度の付き合いだったのか、燐には分からない。東雲の時のように何かがふいに浮かんでくるのか、それとも何も出てこないのかも。
黙っていれば、少なくとも余計な綻びは増えない。
「そんな顔しないでください。悪い意味じゃありません。あなたは堂々としていればいいんです。氷月燐が相手なら、大抵は向こうの方が緊張しますから」
なんだそれ、と燐は思った。
「だから、変に取り繕わなくて大丈夫です」
言われた通りにしているだけなら、少なくとも大きな失敗はしない。今はそれでいいはずだった。
東雲は三度扉を叩いた。ほどなくして錠の外れる音が響き、ドアノブがひとりでに回る。
「どうぞ」
佐伯の落ち着いた声がした。
扉が開くと、以前にも見た、本と紙に囲まれた部屋が現れた。入口脇では幾つもの丸い鏡を取りつけた置物が、かこん、かこん、と一定の間隔で揺れている。燐が敷居を跨ぐと、その一枚へ姿が映り、像の縁を金色の線が三重に走った。
今日は、佐伯だけではなかった。
佐伯は来客用のソファに腰を下ろしており、窓際には一人の男が立っていた。五十歳前後だろうか。短く整えた黒髪には白いものが混じり、濃紺の制服に包まれた身体は東雲よりひと回り大きい。男の前には何枚もの資料が浮かび、その傍らでは薄い硝子板の上を淡青色の文字が流れていた。
燐はその顔を見た。どうするべきか迷っていると、隣へ並んだ東雲が、ごく小さな声で告げる。
「第二班《大鷲》の主任、貴透宗一郎捜査官です」
昨日、自分たちを闇市場の現場から退かせた第二班。その班を預かる男だ。
「来たね」
佐伯が顔を上げた。
「朝から呼びつけてすまない。二人とも、掛けてくれ」
「失礼します」
東雲が応接卓の前へ進む。燐もその隣へ腰を下ろし、ふと思い出して片脚を組んだ。
卓越しに佐伯と目が合った。ほんの僅か、銀縁眼鏡の奥の目が細くなる。余計なことはしなくていい、と言われたような気がして、燐はそのまま背もたれへ身体を預けた。
「こちらは知っての通り、《大鷲》の主任、貴透捜査官だ。昨日の闇市場の件は、彼の班が指揮を執っている」
「貴透だ」
男が短く名乗り、燐へ目を向けた。その視線がほんの一瞬だけ止まり、それから隣の東雲へ移る。
「氷月捜査官、東雲捜査官。来てもらって感謝する」
そう言ってから、貴透はわずかに座り直した。
第二班を預かる主任だと聞いている。それでも氷月燐を前にすると、肩から腕にかけてどこか力が入っているように見えた。
「どうも」
佐伯の口元が微かに緩む。どうやら、これでよかったらしい。
「小鳥遊から、荒菱亘については聞いたかな」
「逮捕されたあと、今朝亡くなったと聞きました」
自分でも意外なほど自然に声が出た。佐伯が頷く。
「やはり聞いていたか。なら話は早い。まず、昨日の遺体について少し補足しておこう」
佐伯は資料を一枚めくった。
「昨日とよく似た事例は、これまでにも確認されている」
「似た?」
「死後も動いていたこと。それから、身体に花が咲いていたことだ」
東雲の眉が僅かに寄った。
「聞いたことがあります。確か、それぞれ別件として扱われていたものですよね。セイントミア・エリアで四、五件ほど……」
「そうだよ。ただ、共通していたのはその二点くらいだ。発見された場所も時期も離れているし、死因も、現場に残った魔力痕も一致していない。花の出方にもばらつきがあった」
「屍鬼化として処理されていた?」
「便宜上はね。既知の屍鬼化とも少し違っていたが、それぞれ単独で起きた異常事例と判断されていた。互いを結びつける証拠がなかったんだ」
燐の脳裏に、白く濁った目と、その皮膚を押し上げて咲いた赤黒い花が浮かぶ。
「それが昨日、変わった」
佐伯の指が資料の端を押さえた。
「荒菱の家から、その事例すべてに関する資料が見つかった」
貴透が一枚の資料を抜き出した。
「荒菱は元魔法薬調合師だ。現在は闇市場で、魔法薬そのものより、調合用の素材や触媒を集めていた。固定の店は持たず、希少素材を欲しがる相手へ仲介することもあったらしい。第二班でも何度か名前は挙がっていたが、大きな組織の流通を担うような人間ではない」
そう言って、荒菱の供述調書を二人の前へ置く。
「昨夜、自宅で身柄を確保した。その際、過去に確認された異常死についても、自分が関与したと認めている」
燐は紙面へ目を落とした。
「関与は認めたとして、方法は?」
東雲が訊くと、貴透の目が伏せられた。
「話していない」
「何も?」
「ああ。誰に何をしたのか、何を使ったのか。そこへ話を進める前に体調を崩し、そのまま留置室で死亡した」
東雲が調書の端へ指を置いた。
「犯行を説明したのではなく、自分が関与したことだけを認めたということですね」
「そうなる」
「荒菱の死因は?」
「調査中だ。薬毒物なのか、魔法によるものかもまだ分かっていない」
佐伯が別の資料を二人の方へ向けた。
荒菱宅からは、過去の異常死に関する資料のほか、古代の禁止魔法を記した魔導書も押収されていた。その中には、死体へ術者の魔力を送り込み、行動させる術式も記されているという。
第二班は荒菱がその術式を使った可能性も調べている。だが昨日の女性の遺体からは、一致する術式痕が確認されていない。過去の事例についても、残された記録の中に同じ痕跡はなかった。
「じゃあ、禁止魔法を使った証拠はないの?」
燐が訊く。
「今のところ、決定的なものはない」
貴透はそう答えた。
「魔導書が見つかり、荒菱自身も関与を認めている。可能性として外せないだけだ」
燐は卓上の資料へ目を落とした。
「井畑の薬と比べたら、分からないの?」
貴透は首を横に振る。
「照合はしている。ただ、単純には比べられない」
「どうして?」
「荒菱宅から出たのは調合前の素材だ。井畑から押収されたものは、いくつかの素材を混ぜ、指定された工程まで処理した中間物になる。調合の途中で反応して、性質そのものが変わっている成分もある」
貴透は別の資料へ指を置いた。
「しかも井畑が供述した材料だけでは、中間物から出ている反応をすべて説明できない。本人の知らないものが含まれていた可能性もある」
「じゃあ、昨日の薬包紙は?」
「そちらも鑑定中だ。中身はほとんど残っていない。採れるとしても、微量の残留物と魔力反応程度だろう」
東雲が三つの資料を順に見た。
「荒菱宅にあった原料。井畑が途中まで調合したもの。それから、昨日の女性が使った可能性のある薬」
指先が最後の資料で止まる。
「同じものに関係している可能性はある。でも、今のところ直接つなぐ証拠がない、ということですね」
「そうだ」
「井畑の中間物と荒菱の素材が一致するとも、昨日の薬包紙がその完成品だとも、まだ言えない」
「ああ。現時点ではな」
そこまで聞いて、燐にもようやく分かった。
近くにはある。けれど、まだ一本の線にはならない。
「なるほど……」




