35 事件解決
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翌朝、第一班の執務室の窓には細かな雨粒が並んでいた。
燐が濡れた外套を入口脇へ掛けると、裾から落ちた雫が床へ触れる寸前で止まった。掛け具の根元に刻まれた小さな術式が淡く光り、水滴だけを拾い上げて銀色の粒に変える。そのまま幾つかが宙を滑り、壁際の排水壺へ吸い込まれていった。
昨日、一度だけ座った場所を探して机へ向かう。
窓から三つ目。向かいには東雲の机がある。
燐が椅子を引くと、机の端に白いカップが置かれていた。表面から細く湯気が立っている。
「おはようございます」
顔を上げると、東雲が書類から視線だけをこちらへ向けていた。
「お、……はよう」
氷月燐が朝の挨拶を返す人間だったのか分からない。昨日から、こういう小さなことばかりが増えている。
「珈琲、置いておきました」
燐はカップを見る。
「……ありがとう」
言ってからまた考える。余計だっただろうか。だが、東雲は特に気にした様子もなく、手元の書類へ視線を戻した。
「昨夜は眠れましたか?」
「え? あー、少し」
「そうですか」
燐はカップへ手を伸ばした。温かい。淹れてから少し時間が経っているはずなのに、陶器はまだ手のひらへ温かかった。
「冷めてない」
「保温だけ掛けてあります」
東雲はそう言って、右手の人差し指を小さく一周させる。燐のカップの横に置かれていた銀のスプーンが、かすかな音を立ててひとりでに回り始める。黒い液面に渦ができ、二周したところで止まった。
「あ、砂糖は入れてません」
「……そう」
燐はカップを持ち上げた。こんなことにも魔法を使うのか、と訊きかけて、やめる。氷月燐なら知っているはずだからだ。
ひと口飲むと、苦味が舌の奥に残った。
珈琲はよく飲んでいたはずだった。それなのに、いつもこんなに苦かっただろうか。
燐はもう一口飲んだ。
そもそも、自分はどうして珈琲をよく飲んでいたのだろう。
好きだったから。
そうだっただろうか。
考えてみれば、よく飲んでいたことは覚えているのに、どこで飲んでいたのか、誰と飲んでいたのかがすぐに出てこない。カップを手にした自分の姿だけがぼんやりと浮かび、その前後が抜け落ちている。
燐は眉を寄せた。
昨日までは、こんなだっただろうか。
もう少し思い出そうとした、そのときだった。
先に浮かんだのは、珈琲を飲んでいた頃の景色ではなかった。濡れた石畳。白く濁った目。
東雲の声にも反応しなかった身体。肩を押し上げた蕾と、皮膚を裂いて開いた赤黒い花。昨日、自分が見たものだけが、輪郭まで鮮明に残っている。
燐はカップを置いた。
「昨日の件ですが」
東雲が書類を閉じた。
「《大鷲》が現場を引き継ぎましたから、屍鬼化事件そのものはこちらの担当ではなくなります」
燐は黙って続きを待った。
「問題は違法魔法薬の事件の方です。俺たちが追っていた素材の流通経路は、まだ何も解決していません」」
昨日の屍鬼化とは別に、井畑の違法魔法薬をめぐる捜査は残っている。
「……続けるの?」
燐が訊く。
「俺たちの調査を、ですか?」
燐が頷くと、東雲は机の上の資料へ指を置いた。
「続けますよね?」
「大鷲が、昨日の事件を引き取ったのに?」
「それとこれとは別ですよ。俺たちが追ってるのは、もともと違法魔法薬の流れですから」
「でも、昨日の人も……」
「ええ。薬と関係があるかもしれない。でも、まだ分からない」
東雲がそこまで言ったところで、執務室の扉が開いた。
「その話なら、ちょうど少し動きがあったわよ」
紙袋を抱えた小鳥遊が入ってくる。燐は反射的に背筋を伸ばした。
「二人とも早いね」
小鳥遊は自分の机へ紙袋を置き、濡れた髪を指で耳の後ろへ払った。
「おはようございます、小鳥遊さん」
東雲がにこりと笑う。
「東雲くん、昨日あれから報告書出した?」
「出しましたよ。小鳥遊さんにも共有されています」
「ほんと? まだ見てない」
「見てください」
「朝ごはん食べてからね」
「また寝坊ですか?」
小鳥遊が答える代わりに紙袋から焼き菓子を取り出したので、東雲が呆れたように笑った。燐は二人のやり取りを横目に、珈琲をもう一口飲む。
「そうだ」
焼き菓子の包みを開きかけた小鳥遊が顔を上げた。
「昨日の闇市場の件、もう聞いた?」
「何をです?」
「解決したって話!」
東雲の手が止まった。燐も珈琲を口元へ運びかけたまま、小鳥遊を見る。
「……解決?」
「昨日の夜、大鷲が男を一人捕まえたらしいわ。荒菱亘、って言ったかしら。闇市場じゃ前から魔法薬を扱ってた人間みたい」
「昨日の夜に?」
「ええ、そうよ」
小鳥遊は焼き菓子をひと口齧ってから、紙袋を机へ置いた。
「相変わらず耳が早いですね」
「情報は鮮度が命なのよ」
「どこからです?」
「ふふ、それを私に聞く?」
小鳥遊はさらりとかわしたが、東雲は笑わなかった。
「その荒菱という男は何者なんですか。どうして大鷲はそんなに早く……」
「そこまでは知らないわ。ただ、家から屍鬼化事件に関係するものが出たとか、本人も認めたとか。今朝にはもう、連続事件の犯人が捕まったって話になってたわよ。まあ、あいつ等は早く動くことが好きだからね」
「早いですね」
東雲が呟く。燐はカップを机へ置いた。
「屍鬼化の方法は?」
「詳しい資料は第二班持ちだから」
「本人は何か話してるんですか?」
「それがねぇ」
小鳥遊が少し眉を寄せた。
「もう話せないのよ」
「どういうことです?」
「今朝、留置所で死んだって」
「は……」
東雲の顔から笑みが消えた。
「死因は」
「まだ」
「捕まったのは昨夜ですよね」
「ええ」
「それで、今朝死亡……自害?」
「そこまで回ってくるほど時間も経ってないもの。でも時間の問題ね、なにせ、逮捕後に死なせちゃったんだもの」
東雲は机へ指を置いたまま、しばらく動かなかった。
燐の頭には昨日の石畳が浮かんでいた。白く濁った目。死んでいるのに動いていた身体。皮膚を押し開いて咲いた、赤黒い花。
「――あの花は?」
「花? 花……、ああ! 遺体にあったっていう?」
燐が頷くと、小鳥遊は首を横に振った。
「そっちは聞いてない。鑑定には回ってると思うけど」
燐は昨日の鞄を思い出した。身分証を戻そうとしたとき、底に見えた薄紅色の紙。湿った土と、折った茎のような匂い。
「……薬の包紙もあった」
「包紙?」
小鳥遊が焼き菓子を持ったまま、こちらを見る。
「鞄の底に。薄い紅色で、薬が入っていたみたいだったの。私たちの事件で使われていた薬に匂いが似てた」
「昨日追ってた魔法薬の?」
「分からない。でも、そう」
東雲が頷いた。
「俺も確認しました。現物は《大鷲》が回収しているはずです」
燐はカップの縁へ指を置いた。
「……そういえば印があったわ。花。花弁が……七枚あって、一枚だけ逆を向いてた」
小鳥遊の手が止まった。
「一枚だけ?」
「ええ」
小鳥遊は焼き菓子を紙袋へ戻すと、自分の机へ向かう。指先で卓上を二度叩く。何もなかった空間へ薄い光の板が立ち上がり、幾つもの文字列が流れ始めた。
「その印なら調べられるかもしれない。押収品の記録、闇市場で使われてる商標、魔法薬の流通符号……その辺りから当たってみる」
「ほんとですか」
東雲が目を輝かせる。
「もちろん。成分の方は現物がないと無理だけど、印なら話は別よ」
「助かります」
小鳥遊は机へ向き直りかけ、ふと足を止めた。
「あ、そういえば」
二人が顔を上げる。
「管理官が、あなたたち二人を呼んでたわ」
「佐伯さんが?」
「ええ。来たら執務室へ寄るようにって」
東雲は燐を見る。
「この件でしょうか」
「たぶんね」
小鳥遊は椅子を引きながら、卓上へ指を滑らせた。




