34 花に覆われた遺体
燐はしばらく何も言えなかった。
女はさっきまで動いていた。呻き、腕を振り回し、魔力を撒き散らしていた。それなのに、東雲は最初から死んでいたと言う。
「じゃあ、あれは……」
東雲は花に覆われた遺体を見下ろした。
「おそらく、屍鬼化ではないでしょうか」
「しき……?」
「死者が、何らかの力で動き続ける現象です。少なくとも、あの人自身の意思で動いていたわけではないと思います」
「だから、呼びかけても……」
「ええ。戻るべき魂そのものが、もうなかった」
東雲の声には、まだ僅かな硬さが残っていた。
「ただ……」
花に覆われた遺体を見下ろす。
「俺の知っている屍鬼化とは、少し違います」
言いながら視線を落とした先で、新しい蕾がひとつ、女の頬を押し上げた。皮膚が裂け、血に濡れた花弁がゆっくりと開いていく。
「花は、普通咲かない?」
「少なくとも、俺は見たことがありません」
答えを聞くより早く、燐は息を詰めた。
少し前まで人で溢れていた市場から、いつの間にか喧騒が消えていた。
東雲の指示で逃げた者たちだけではない。遠巻きに様子を窺っていた者も、次々と姿を消している。店主たちは商品をまとめ、灯りを落とし、看板を裏返していった。
「『大鷲』が来るぞ」
どこかで声がした。
「巻き込まれる前に消えろ……!」
その名を聞いた途端、残っていた者たちの動きがさらに速くなる。半透明の蝶は店主の袖へ吸い込まれ、露店の扉が壁の中へ溶けるように閉じていった。
ほどなくして、薬種商の区画には燐と東雲、それから花に覆われた遺体だけが残された。
やがて、東雲が燐の顔をちらりと見た。
「気になりますか」
「……少し」
燐は白い布の下で増え続ける花を見た。小鳥遊の机にあった赤黒い未完成薬が、頭に浮かぶ。関係があるという根拠はない。それでも、並べて考えずにはいられなかった。
「あの薬と関係あると思う?」
東雲はすぐには答えず、遺体を覆う赤黒い花へ目を戻した。
「何とも言えません。ただ、偶然だと決めるには早いと思います」
遠くで、金属を打ち鳴らすような警戒音が響いた。東雲がそちらへ顔を向ける。
「《大鷲》が来ます。ずいぶん速いですね」
「《大鷲》は、違法魔法薬の事件を依頼した班よね」
「はい。この一帯の取り締まりと監視も担当しています。あの警報も、異変を知らせるためのものです。誰かが鳴らしたのでしょう」
「じゃあ、もう触らないほうがいいわよね」
「ええ」
東雲はそう答えたものの、遺体から目を離さなかった。
「ただ、引き渡す前に最低限だけ確認しておきたいです」
燐も白い布へ目を戻した。
本来なら、ここで待つべきなのだろう。現場を荒らさず、《大鷲》へ引き渡す。それくらいは燐にも分かる。
けれど、布の下では今も花が増えている。
氷月燐なら、ここで待っただろうか。
そう考えた途端、なぜか答えはすぐに出た。
「……少しだけ見よう」
東雲が燐を見る。ほんの一瞬だけ目を細め、それから頷いた。
「ええ。時間はありません。触れるのは最低限にしましょう」
東雲は遺体へ視線を戻した。
燐は頷いた。
二人はその場から動かず、まず周囲を見た。割れた硝子、散らばった商品、女が倒れている位置、石畳に落ちた赤黒い花弁。東雲は目だけを動かしながら、一つずつ位置を確かめていく。
「花、まだ増えてる」
燐は呟いた。白く濁った女の頬の脇で、新しい蕾が皮膚を押し上げていた。
「ええ」
東雲は眉を寄せた。
「やはり、普通の屍鬼化とは思えない」
東雲はしばらく女を見下ろしていたが、やがて外套の内側から折り畳まれた白い布を取り出した。
「このままというのも、よくありませんね」
指先を軽く上げる。
布が手を離れ、風を孕むように広がった。東雲が指を下ろすのに合わせてゆっくりと降り、女の顔から足元までを覆う。赤黒い花の膨らみだけが、白い布の下へ歪な輪郭を作った。
東雲はそれ以上、魔法を使わなかった。
「所持品……」
傍らに女が投げ捨てた鞄が落ちている。燐は鞄を拾った。
中には財布、小さな鏡、櫛、紙に包まれた菓子が入っていた。身分証には、栗色の髪を整えて笑う女の写真と名前が記されている。
ミラ・アーレン。
燐は一度、白い布に覆われた遺体を見た。
写真の中の女性と、その下に横たわるものとが、すぐには結びつかなかった。
身分証を元の場所へ戻そうとして、鞄の底に薄紅色の紙が見えた。
「これ」
燐が指先で持ち上げる。
薄紅色の薬包紙だった。中は空だったが、赤黒い染みが残っている。
紙を開くと、湿った土と、折ったばかりの茎に似た青臭い匂いがした。
「あの魔法薬の匂いに似てる」
東雲が顔を寄せる。
「本当ですね」
薬包紙の隅には、小さな花の印が押されていた。花弁は七枚。そのうち一枚だけが、ほかとは逆を向いている。
「何かの印でしょうか」
燐はもう一度だけ見てから、薬包紙を鞄の底へ戻した。身分証も財布も元の位置へ戻し、鞄を閉じる。
「……井畑の件と、つながっているんでしょうか」
東雲がそう言った直後だった。
空気が、鋭く裂けた。
燐が顔を上げるより早く、濃紺の光が四方で瞬く。何もなかった通路の影から人影が滑り出し、次の瞬間には二人を取り囲んでいた。
外套の裾が翻る。向けられた杖には、すでに術式の光が灯っていた。
「動くな」
低い声が飛んだ。
燐は反射的に身構えかけたが、隣で東雲がすぐに両手を上げるのが見えた。
「燐さん、そのままで」
小さくそう言ってから、東雲は包囲する捜査官たちへ顔を向けた。
「アマリ地区司法局・魔法管理部、魔法警備局公安警察部、特殊魔術犯罪広域対策室第一班『梟』。準一等魔法捜査官、東雲碧惟です」
一拍置き、燐を示す。
「こちらは氷月燐特別捜査官。俺たちが第一発見者です」
濃紺の光が、わずかに揺れた。
何人かの視線が燐へ集中する。フードを被っていても、分かったらしい。誰かが息を呑む。
「……氷月だって?」
それでも、包囲は解かれなかった。
先頭に立つ男が一歩進み出る。三十代半ばほどだろうか。短く整えた黒髪に、白い肌。濃紺の外套は襟元まできっちり留められ、皺ひとつ見当たらない。
銀縁の眼鏡の奥には、鋭さよりも生真面目さを感じさせる目があった。
整った顔立ちには愛想らしいものがなく、燐たちへ魔法を向けたまま、その視線だけが二人の手元、足元、背後の遺体へと順に動いた。
「身分証を」
「はい」
東雲は片手を上げたまま、もう一方の手をゆっくりと外套の胸元へ差し入れた。取り出した証票を、相手から見える高さに掲げる。
燐はその動きを横目で追った。
同じように自分の外套の内側へ指を滑らせる。胸元を探ると、指先に硬いものが触れた。引き抜けば、銀色の縁取りが施された黒い証票が出てくる。
そこに刻まれた文字を読むより先に、男の表情が変わった。
「氷月特別捜査官……」
周囲の空気が、わずかに張りつめた。
燐へ向けられていた術式の光が僅かに揺れた。杖の先は下がらないが、魔法が消える気配はない。
男は証票と燐の顔を見比べた。喉が一度だけ動いた。
「杖を下ろせ」
濃紺の光が一斉に消える。向けられていた緊張感はそのままだが、燐は息がしやすくなった。
「失礼しました。魔法犯罪捜査第二班『大鷲』、一等捜査官の篠井です」
篠井と名乗った男の視線が、二人の背後へ移る。
花に覆われた遺体。壊れた露店。石畳に残る魔法の痕跡。その光景を順番に見て、最後に東雲と燐に冷たい視線を向けた。
「何があったのか、説明を。なぜお二人はこんな場所に?」
「捜査です」
「お伺いしても?」
「第一班の担当事案です。詳細は管理官を通して照会してください。ただ、そちらでも把握されているかと。第七〇八二〇号です」
「……違法魔法薬の件ですか」
「ええ」
東雲は余計な感情を挟まず、短く報告を始めた。
「到着後、この女性が周囲を襲い、魔力暴走に似た状態を示しました。バウン状態と判断して呼びかけを行いましたが反応はなく、途中でスピルが存在しないことを確認しています。発見時には、すでに死亡していた可能性が高い。屍鬼化です」
篠井の表情が変わる。
「屍鬼?」
「身分証は鞄の中にありました」
その視線が石畳の鞄に向かった。
「現場保存を優先すべきなのは承知しています。到着前に行ったのは、周囲の目視と身元確認だけです。ここで起きたことは、すべて報告します」
「ずいぶん勝手なことするんだな」
包囲の端から声が飛んだ。杖を下ろしたばかりの別の捜査官が、東雲を睨んでいる。
「《梟》のお坊ちゃんは、よその管轄でも好きに漁っていいって教わってんのか?」
東雲はそちらへ目を向けた。
「身元を確認しただけですよ」
「やめろ」
篠井が遮った。男はまだ何か言いたそうだったが、ぐっと口を閉じ、渋々と引き下がった。
「……失礼しました。状況は分かりました」
篠井は引き下がった部下へ一度だけ目をやり、それから東雲へ向き直った。
「東雲捜査官、氷月特別捜査官。お二人には後ほど庁舎で事情を伺います。確認した内容についても、その際に報告をお願いします」
東雲は頷いた。
「承知しました」
「それから」
男は一度言葉を切った。篠井は続けかけ、ほんのわずかに間を置いた。
「この現場については、第二班で引き継ぎます」
淡々とした声に、東雲と燐は眉を寄せた。
「以後、この区画には入らないでください」
言葉だけを聞けば事務的だ。しかし、男の指先にはまだ術式の光が残っている。燐が一歩動けば、即座に反応できるように。
「……こちらの捜査は?」
「無論、承知しております」
「なら、続けても?」
「いいえ」
返答は妙に速かった。
「氷月捜査官。申し訳ありませんが、ここは我々管轄ですので、手を引いていただきたい」
「こちらは、あなたたちの事件を調査しているのに?」
「ですから、こちらの指示に従ってください」
高圧的なのか、怯えているのか、燐にはよく分からなかった。おそらくは両方なのだろう。
「燐さん」
隣から東雲が呼ぶ。振り向くと、東雲はすでに上げていた手を下ろしていた。
穏やかな顔に戻っているものの、青い瞳の奥だけは冷えているのが、燐にはすぐにわかった。
「戻りましょう」
燐はもう一度、遺体を振り返った。
《大鷲》の捜査官たちが二人の脇を抜け、現場へ入っていく。ほどなく石畳の周囲へ薄い結界が張られ、燐たちと遺体との間を隔てた。
その向こうで、白い布の端から赤黒い花がひとつ覗いていた。




