33 内側から破る音
肉を削ぎ落としたような細い身体が、大きく跳ねた。喉から、人とは思えない唸り声が零れる。女はふらつくまま両手を伸ばし、ぶつかった男の顔へ爪を立てる。
「うわっ、やめろ!」
短い悲鳴とともに血が散り、人垣が一斉に退いた。
女は倒れかけた身体を不自然に捩り、さらに近くの誰かへ手を伸ばした。指先は獲物を探す獣のように宙を掻いている。
「あ、ぁ……う、ぅ……うっ!」
その足元から、今度は赤黒い魔力が噴き上がった。
生温かな風が爆ぜ、露店の天幕が内側から大きく膨らんだ。
軋んだ支柱が根元から折れ、棚の瓶や木箱が宙へ弾き飛ばされる。薬瓶は色鮮やかな煙を撒き散らして砕け、硝子片と薬液が人々へ降り注いだ。
「あっ……」
考えるより先に、燐は手を上げていた。
燐の指先から青紫の光が溢れ、人々の頭上へ薄い膜となって広がる。
鋭い硝子片も、折れた木片も、光へ触れた途端、深い水へ沈むように勢いを失った。魔法灯の赤を映した破片が星屑のように瞬き、燐が指先を下ろすと、石畳へ音もなく降り積もる。
周囲に、か細い安堵の声が上がりかけ――、しかし再び赤黒い魔力が脈打った。
女を中心に波紋のような衝撃が走り、両側の露店をまとめて押し潰した。積み上げられた木箱が崩れ、石壁にまで亀裂が走る。逃げ遅れた老人の頭上へ瓦礫が落ちていくのを横目に、燐の手が反射的に動いた。
石塊は老人の目前で静止し、人のいない場所へ弾かれた。倒れかけた柱も、逃げる者たちとは反対側へ崩れ落ちる。
燐はぐっと指に力をいれた。その先をどこへ向け、どれほどの力を加えれば人を傷つけずに済むのか。身体だけが、迷わず知っていた。
「――バウン状態か!」
東雲が女の異変を見て叫んだ。
「皆さん、離れてください! 刺激しないで!」
その声を合図に、人々は蜘蛛の子を散らすように逃げ始めた。商品を抱えて店の奥へ引っ込む者、倒れた薬瓶を踏み越えて細い路地へ駆け込む者。先ほどまで値段を競っていた声も、客引きの囁きも、急速に遠ざかっていく。
女はその場に取り残され、獣のように両腕を振り回していた。
赤黒い魔力が首筋から頬へ細い筋となって走り、見開かれた瞳は白く濁っている。身体は何度も荒々しく跳ねるのに、視線だけがどこにも結ばれず、宙の一点を通り過ぎていた。
バウン。
知らないはずの言葉なのに、意味だけが先に浮かんだ。魔力に呑まれて、自分の身体を止められなくなった状態。無理に押さえれば、もっと暴れる。引き戻すには、同じ魔法種から意識へ触れるしかない。
呼びかけ。その言葉まで浮かんだときには、東雲はもう女の前へ片膝をついていた。
「大丈夫です。俺の声を聞いてください」
振り回された腕が東雲の頬を掠めた。
爪先に裂かれ、左目の下へ赤い一線が滲む。それでも身を引かず、濁った瞳を見つめ続けた。
「……怖がらなくていい。今から、あなたの力に触れます」
東雲の足元で、影が静かな水面のように揺れた。
白銀の前脚が石畳へ降りた。続いて現れた白虎は、夜明け前の雪原を思わせる毛並みに、墨を流したような縞をまとっていた。群青の瞳には、東雲と同じ深い海の色が宿っている。
――スピル。
魔法種の魂が獣の姿を得た、命と分かちがたく結ばれた存在。魂の獣。
白虎は女へ近づかず、東雲の背後へ静かに伏せた。大きな尾が東雲の腰を囲む。
逃げていく足音が遠ざかり、割れた瓶から薬液の滴る音だけが残った。その中で、東雲の声だけが途切れず続いていた。
「大丈夫。これは、あなたの魔力です」
白い光が東雲の指先から伸び、女のまわりを緩やかに巡った。女の指が痙攣すると、東雲の指先にも同じ震えが走る。肩が跳ね、喉が引きつった。
白虎が低く喉を鳴らし、東雲の背へ額を押し当てる。毛並みを縁取る光が、彼の乱れた呼吸へ重なるように明滅した。
「まだ制御できます。少しずつ、緩めてください」
女の肩は痙攣するように上下していた。胸は一度も膨らまず、開いた口から吐息も漏れない。赤黒い液体だけが顎を伝い、石畳へ落ちていった。白く濁った瞳は瞬きもせず、東雲の向こうを見ていた。
東雲は目を細めた。
「……聞こえていますか」
白い光がさらに巡る。白虎の尾が東雲の腰へ強く巻きつき、こちら側へ引き戻すように身体を支えた。
東雲は息を詰め、何かを待つように女を見つめていた。
白い光が女の影へ触れると、その表面に、血管を撚り合わせたような赤い筋が浮かび上がった。細い根は女の足元から伸び、白い光へ幾重にも絡みついていく。
東雲の唇がわずかに開いた。
「……何も、いない」
「え?」
「スピルがいない」
白い光へ絡みついていた赤黒い筋が、東雲の指先へ向かって一気に這い上がった。
「っ……」
東雲の手の甲が裂け、赤い血が滲んだ。白虎は苦しげに身を震わせ、腰へ回した尾へ力を込めた。
「東雲」
「まだ、分かりません」
東雲は女の胸元へ一度視線を落とし、濁った瞳へ戻した。横顔が強張る。
「俺の声を聞いてください」
東雲の声は次第に強くなった。
「聞こえているなら、こっちへ戻ってきてください」
女の瞳は動かない。喉から獣のような呻きが漏れ続けるばかりだった。
東雲は何度も散りかける光を繋ぎ続けた。そこにいるかもしれない誰かへ、声を投げ続けている。
燐の胸の奥が、冷たく締めつけられた。
そのとき、女の首が大きく傾いた。
ごきり、と骨が鳴る。
喉元の皮膚が内側から押し上げられている。鎖骨のあいだに丸い膨らみが浮かび、脈打つたび、濃い赤色が薄い皮膚を透かして大きくなった。
「離れて!」
叫び終えるより早く、白い光が弾け、東雲の身体が後方へ投げ飛ばされた。
燐は咄嗟に腕を掴み、その身体を片腕で受け止める。細身に見える身体は思ったよりも重く、衝撃が肩まで伝わった。
「東雲、大丈夫?」
「俺より、あの人を……!」
東雲は荒い息を吐きながら、なお女へ手を伸ばそうとした。
だが、視線を向けたその先で、ぶつり、と肉を内側から破る音がした。
喉元の蕾が、濡れた音を立てながら開いていく。薄い肉を幾重にも重ねたような花弁が震え、根元から白い筋を引いて、裂けた皮膚と繋がっていた。
「がっ、あ、あぁあああっ!」
言葉の形を持たない絶叫が闇市場の空洞を震わせた。
肩が膨らんだ。腕と胸元の布が内側から裂け、赤黒い蕾が次々と皮膚から顔を出す。花は皮膚の裂け目から血を吸い上げるように膨らみ、赤から紫へ艶やかに色を変えながら咲き広がっていく。
花弁は光を吸い、濡れた宝石のように艶めいていた。
「【セーレハルニア】!」
燐は女へ手をかざした。
青紫の光が細い糸となり、喉元に咲いた花へ触れる。そこだけを包み込み、肉から引き離そうとした瞬間、同じ感触が肩からも、腕からも返ってきた。
一本へ力を加えると、女の肩口が大きく引き攣った。腕に咲きかけた蕾まで震え、裂けた皮膚から新しい血が滲む。
燐は息を呑んだ。
光をどこへ伸ばしても、身体の奥から花を引くような重い抵抗が返ってくる。一本を掴めば、別の場所で蕾が震えた。
燐は指先へ力を込める。花と身体の境目が、どこにも見つからない。
「切れない……!」
絶叫は続いていた。胸は一度も膨らまず、開ききった瞳にも何も映らない。声だけが、生きている人間の悲鳴に似ていた。
最後の蕾が、額の中央でゆっくりと開く。
声が途切れた。
赤黒い花に覆われた身体は、糸を切られたように石畳へ崩れ落ちた。頬が床へぶつかり、咲ききった花弁がかすかに揺れる。
それきり、指一本動かなかった。
燐は手を下ろせないまま、その身体を見つめた。胸の奥で何かが冷たく縮まり、声を出すまでに少し時間がかかった。
「……死んだの?」
東雲は答えず、女のそばへ膝をついた。
白虎は東雲の背後へ寄り、その脇へ伏せた。群青の瞳だけが、動かない女を向いていた。
沈黙が長く続く。先に口を開いたのは東雲だった。
「違います」
東雲の声は、ひどく低かった。
「え?」
「今、死んだんじゃない」
いつもの穏やかな笑みは消えていた。東雲は開いたままの瞳と、呼吸を刻んだ形跡のない胸元を見つめている。
「この人は最初から……もう、死んでいました」
石畳の上で、満開の花だけが静かに揺れていた。




