32 闇市場への入口
第六話【開花 / The Bloom】
• ─────────── •
闇市場への入口は、第二中心街の外れにある古書店の裏手へ隠されていた。
表には〈休業中〉の札が下がり、曇った窓硝子の向こうには埃をかぶった空の棚が並んでいる。建物の脇へ回ると、壁を覆う蔦の奥から赤錆びた鉄扉が現れた。長いあいだ誰にも開けられていないように見えるが、その足元だけは泥が薄く削れ、何度も人が出入りした跡を残している。
「ここですね」
東雲は鉄扉の前へ立った。外套の内側から腕を出すと、錆びた取っ手へ手のひらをかざす。
「【レヴィス・アステ】」
白い光が指先から細く伸びた。蔓のように錆の上を滑り、埋もれていた線を一本ずつ拾い上げていく。複雑な円環が鉄扉へ幾重にも重なり、その内側を雪華のような幾何学模様が埋めていった。
完成まで、あと一本。その直前で、細い光がわずかに震えた。軌道を外れた一筋が隣り合う模様へ触れる。ぱきり、と薄い硝子を爪で弾いたような音が響き、完成しかけていた術式は白い粒となって二人の足元へ崩れ落ちた。
東雲は何も言わず、散った光を見つめた。開いていた指を静かに握り直す。
「……どうしたの?」
燐が尋ねると、東雲は一拍遅れて顔を向けた。
「何がです?」
「いや……」
その目が、ほんの少しだけ見開かれた。けれど瞬きひとつのあいだに消え、代わりに困ったような笑みが浮かぶ。
「もしかして、顔に出ていましたか」
「少しだけ」
「……それは、はは……。もう少し上手く隠せているつもりだったんですが」
東雲は眉を落とした。
「資料と術式が違いますね。構造は読めるんですが……今日は少し、魔力が安定しないようです」
東雲は何でもないことのように言ったが、下ろした手の指先には、まだわずかな力が残っている。
「寝てない?」
「どうしてそう思うんです?」
「顔色がちょっと悪いから」
今度は、東雲がわずかに言葉を失った。燐を見つめる深い青の瞳に、ひどく素の戸惑いが浮かぶ。けれどそれも長くは続かず、すぐに目元を和らげて肩をすくめた。
「ここ数日、少し立て込んでいただけです」
「ちゃんと寝ないと駄目だよ」
「いつも寝てない人に言われたくありません」
「……私はちゃんと寝た」
「どのくらい」
「五分くらい」
「はは、それを睡眠とは言いませんって」
東雲は呆れたように息を吐いた。その横顔には、先ほどよりもわずかに柔らかなものが残っている。
燐は鉄扉の脇へ目を向けた。古びた煉瓦の継ぎ目に一か所だけ雨を吸ったような濃い染みがある。なぜ目についたのか分からないが、その時、耳の奥でキンと張り詰めたような違和感が走った。
燐は三段目の煉瓦へ指を当て、その下を二度叩いた。一度目には硬い音が返り、二度目だけが空洞を含んで響く。
「燐さん?」
「……たぶん、こっち」
「たぶん?」
燐はほんの少し息を詰めた。東雲は煉瓦と燐の指先を見比べたものの、それ以上は何も聞かなかった。
燐は煉瓦の継ぎ目へ手を翳した。
「【セーレハルニア】」
青紫の光が指先から静かに溢れた。薄い水膜のような輝きが壁を覆い、一つひとつの煉瓦の輪郭を撫でていく。月明かりのような薄い色が、古びた壁を淡く染めた。
光が端まで届いた途端、中央の煉瓦が音もなく解け始めた。
「おお」
壁は無数の花弁へ変わったように青紫の粒子となって宙へ舞い、その奥に、地下へ続く細い階段が現れた。
「……開いた」
東雲が横目を向ける。
「自分で驚かないでください」
「だって、こんなにすぐ開くと思わなかった」
「そうですか……」
燐は暗い階段を見下ろす。この先で道がどちらへ曲がるのか、なぜか分かる気がする。湿った壁の匂いも、踏めばわずかに沈む石段の感触も、思い出せない記憶の底へ染みついていた。
燐は借りた外套のフードを深く被り、階段へ足を踏み入れた。
石段は下へ進むほど狭くなり、壁に埋め込まれた魔法灯は二人が近づくと淡い橙色に灯り、通り過ぎると背後から順に消えていった。湿った土と古い香料、焦げた薬草の匂いが、地下へ降りるほど濃くなっていく。
長い階段を下り切ると、黒い鉄格子が道を塞いでいた。中央には錠前の代わりに、奇妙な生き物の彫像が張りついている。
太く短い四肢に、壁へ吸いつく丸い指先。蜥蜴に似た身体は細かな鱗に覆われ、頭の左右から突き出た目玉はそれぞれ別の方向を向いていた。カメレオンに似ているが、背中には半透明の羽根が畳まれ、長い舌の先には小さな鍵がぶら下がっている。
二人が近づくと、右の目だけがぐるりとこちらを向いた。
『たいかをくれ!』
腹の底へ響くような声だった。
東雲は外套の内側から銀貨を一枚取り出し、生き物の大きく開いた口へ放り込んだ。銀貨は長い舌に絡め取られ、そのまま喉の奥へ消えていく。
『たりないぞ!』
「足りない? 銀貨だぞ」
東雲は怪訝そうに二枚目を取り出した。生き物はそれも呑み込んだが、鉄格子は動かない。
『たりないぞ!』
「……ぼったくられてない?」
「現行の記録では銀貨一枚です」
「闇市場の入口にそれって通じるの?」
東雲は口を閉ざした。どうやら本気で通じると思っていたらしい。資料に書かれていたのだから、疑う必要もないと考えたのだろう。
次の銀貨へ伸びかけた手を、燐は止めた。
「あ、待って。この子、さっきから左の目だけ動いてない」
「この子?」
東雲がわずかに眉を上げる。
燐は一拍遅れて口を閉じた。
「……この門番。左の目、変じゃない?」
右目は東雲の指先を追っているのに、左目は半ば閉じたまま白く濁っていた。目の縁からは細い亀裂が走り、その隙間へ黒い魔力が溜まっている。見ているだけで自分の目の奥まで疼くようだ。
「痛そう」
「痛そう?」
「壊れてるんじゃない」
燐は一歩近づいた。右目が警戒するようにぎょろりと燐を追い、長い舌が口の端から覗いて小さく揺れる。
「あっ、触らないほうがいいですよ」
え、と燐は手を引っ込めた。
「資料には、対価を支払わず触れた者の指を喰い千切るとあります」
「それを先に言って!」
東雲の口元がほんの少しだけ緩んだ。すぐに隠されたが、笑われた気がする。
生き物は左目を閉じたまま、じっと動かなかった。ひび割れた目の縁では、細い光が何度も同じ場所へ引っかかっている。
燐は少し迷い、それから自分の手を濁った左目に翳した。
「【セーレハルニア】」
青紫の光が糸のように伸び、瞼の亀裂へ入り込んだ。引っかかっていた黒い魔力を少しずつ押し流しながら、罅を細く縫い合わせていく。
生き物の身体が、びくりと震えた。
次の瞬間、濁っていた左目がぱちりと開いた。二つの目玉が別々の方向へ動き、やがて同時に燐を向く。口がゆっくりと開き、先ほど呑み込んだ銀貨が二枚、舌の上から床へ吐き出された。
『……通れ!』
鉄格子が音もなく左右へ開いた。燐は床の銀貨と門番とを見比べる。
「通れた」
「通れましたね」
「合ってたみたい」
「そのようです」
東雲は銀貨を拾い上げながら、修復された左目を見ていた。
燐は先に格子を越えた。暗闇の奥で、無数の灯りが開く。闇市場は、地下に穿たれた巨大な空洞の中へ築かれていた。
切り立った石壁に沿って、細い通路と階段が幾層にも巡らされている。頭上から吊られた魔法灯は青から紫へ、紫から赤へと脈打つように色を変え、その光を受けた無数の硝子瓶が、暗がりの中で宝石の群れのように輝いていた。
籠の中では羽根を持つ魚が水もないまま泳いでいる。透明な小箱には色とりどりの眼球が並べられ、そのうちの一つだけが、通り過ぎる燐を追ってゆっくりと動いた。
骨で作られた首飾り、眠ったまま淡い夢を吐き続ける獣、触れようとした指へ紙の牙を立てる古書。美しいものと醜いもの、価値のあるものと触れてはならないものが、無造作に置かれている。
露店の上では半透明の蝶が群れをなして飛んでいた。翅が開くたびに細かな文字が浮かび、店主の囁いた値段を別の言語へ変え、光の粉として空気へ撒き散らしていく。
燐は思わず歩みを緩めた。
蝶の舞う真下では、異なる動物を縫い合わせた小さな死骸が、瓶の底からこちらを見上げている。
「見すぎないでください」
東雲が声を落とした。
「商品だと思われますよ」
「商品って……まさか?」
燐は困惑気味に自分を指さした。
「ここでは、欲しがったこと自体が取引の始まりになるらしいですから」
「……」
「まあ、表立つ契約より、よほど単純です」
燐は横目で東雲を見た。
育ちのよさそうな顔で、ときどきこういうことを言う。純粋なのかと思えばそうでもない。何も知らないように見せながら、人のことには驚くほどよく気づいている。
二人が歩き始めると、周囲の喧騒が少しずつ萎んでいった。
すれ違いざまに肩をぶつけた男は、フードの奥の顔を見た途端に息を呑み、脇へ飛び退いた。薬瓶を並べていた老人も、こちらへ一度目をやるなり、何も言わず店の奥へ引っ込んでいく。
少し先まで続いていた値段交渉の声も、二人が通るあいだだけ不自然に小さくなった。
「燐さん、威圧しないでくださいよ」
「してないわよ」
「あなたの魔力は、隠していても威圧感がありますから」
どうしろというのだろう。燐は言い返しかけて、やめた。周囲がこれほど怯えているのに、東雲だけは何事もないように隣を歩いている。
威圧を感じていないのか。それとも、感じた上でここにいるのか。
答えの出ない疑問を振り払い、燐は前を向いた。
井畑が素材を受け取った場所は、市場の東側にある薬種商の区画だった。
細い吊り橋を渡り、曲がりくねった階段を二つ下りると、通路が狭まるにつれて空気へ混じる匂いも濃くなった。乾いた根、焦がした樹脂、熟れすぎた果実の甘い腐臭が、薬品の刺激と絡み合って鼻の奥へ残る。
東雲は歩調を緩めることなく、店先へ視線を滑らせていた。看板、商品、店主の顔、積まれた木箱の印まで、一つ残らず写し取っているように見える。
「何か分かる?」
「供述にあった受け渡しの場所が、三軒先の看板の店です」
三軒先には、干からびた花束を吊るした店と、黒い液体を量り売りする店、読めない文字の看板を出した店が並んでいる。
「どれ?」
「左端です。えー、蔓模様の中に、数字の七と逆向きの三が隠されています」
燐は目を凝らした。言われてみれば、蔓の曲線が数字の形を取っている。知らなければ、ただの装飾にしか見えない。
「よく分かるね」
東雲はにこり目を細め、口角をあげた。嬉しそうに見えたが、本心から喜んでいるのか、燐には分かりきらなかった。
するとその時、隣にいた東雲の足が不意に止まった。
ガシャン、と前方で硝子の割れる音が響いた。
一人の女が露店へ倒れ込み、並べられていた薬瓶を床へ払い落としていた。砕けた硝子の隙間で赤や緑の液体が混ざり、色鮮やかな煙が石畳を這っていく。
女は両手で喉を押さえ、激しく身体を震わせていた。栗色の髪が汗で頬へ張りつき、外套の下で肩が不規則に跳ねている。大きく開いた口から、赤黒い液体が細く垂れた。
「離れてください!」
東雲が人垣へ踏み込んだ。




