31 蜥蜴の尻尾
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廊下へ出ると、高窓から差し込んだ午前の光が、磨かれた床へ淡い反射を落としていた。
こつ、こつ、と細い靴音が規則正しく続く。自分の足元から響いていることにいまだ慣れない。見るからに不安定なハイヒールなのに、足は迷わず前へ運ばれていく。痛みもない。身体が歩き方を覚えているのか、それともこの靴に馴染んでいるだけなのか、燐には分からなかった。
資料室から小鳥遊の情報管理室まで、ひとつ上の階に上がる必要がある。
隣を歩く東雲は押収品の入った保管箱を抱えていた。封印魔法で閉ざされた箱の中には例の小瓶が収められている。重そうには見えないが、箱の角が制服へ触れないように腕の位置を細かく調整しているようだった。
「井畑は拘束中です。供述そのものは一貫していますが、依頼主についてはほとんど分からないそうです」
燐は顔だけを向けた。
「分からないって?」
「魔法薬の調合を依頼されただけだと。資料の三枚目です」
歩きながら資料を捲ると、たしかに井畑の供述が載っていた。
――まさか、全部覚えたの?
驚いて横顔を見る。東雲は燐の視線に気づき、耳元の黒髪を揺らして首を傾げた。
「依頼主とは一度も顔を合わせていないそうです。指定された場所から素材を受け取り、言われたとおりに混ぜただけ。報酬は後払いで、やり取りも最小限だったと」
「それで、正規の依頼だと思ったの?」
「本人はそう言っています」
「でも、何かおかしいって思わなかったのかしら」
「羽振りが良かったようですからね」
東雲は前を向いたまま、わずかに目を細めた。
「井畑は指定された素材を受け取り、指示された工程まで調合していた。けれど、その素材がどこから来たのかも、その先で何を加えられ、どんな薬になるのかも知らなかったと」
「自分が何を作ってるのかも?」
「人は、自分に都合の悪いものを見ないことができますから」
燐は小さく息を吐いた。
どこかで聞いた構図に似ている。顔も知らない相手から指示を受け、言われたものを受け取り、言われたところまで仕事をする。その前後で何が行われているのかは知らない。知らなくても、報酬だけは支払われる。自分は全体のほんの一部で、何が起きても責任は別の誰かにあると思い込む。
まるで闇バイトだ。
「……こっちにもあるのか。トカゲの尻尾切り」
「何か言いました?」
「あ、いや。何でもない」
燐が首を振ると、東雲は不思議そうな顔をした。
廊下の突き当たりに、小鳥遊の管理室が見えてくる。
燐の視線は、自然と保管箱へ落ちた。淡い幾何学模様を浮かべる結界越しに、小瓶の赤が歩調に合わせてゆらりと傾く。硝子は澄んでいるはずなのに、その液体だけが妙に濁って見えた。
知らなかったでは済まない。だが、知らされなかったことも事実だ。
井畑自身、この薬が何になり、誰へ使われるのかさえ知らない。その曖昧さこそが、いちばん厄介だった。
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小鳥遊の情報管理室へ入ると、中央の大机は書類と見慣れない器具で埋め尽くされていた。
壁一面には大小さまざまな書類棚が並び、その隙間を縫うように、薄い硝子板が何枚も宙へ浮かんでいる。硝子の表面では細かな文字や図形が絶えず組み替わり、人物の顔写真、地図、取引記録らしき数字が現れては消えていた。
机の端には細い硝子管や銀色の鉗子、乾燥した植物の根も置かれている。だが、それらは分析室のように整然と並んでいるわけではない。どれも別の事件から拾い上げられた、情報の欠片のように見えた。
雑然としているようで、小鳥遊の中ではすべてが繋がっているらしい。東雲から保管箱を受け取ると、積み上がっていた書類を片腕で押し退け、空いた場所へ慎重に置いた。
「これが押収されたものね」
小鳥遊が箱へ指を近づけると、刻まれた文字が淡く光った。その反応を確かめてから留め具を外し、小瓶を一本だけ取り出す。
「管理記録には、調合途中の魔法薬としか書かれていなかったけど……材料表だけじゃ、この反応を全部説明できないわね」
「記載されていない素材が?」
「たぶん。少なくとも、材料表にない反応が二つか三つ出てる」
小鳥遊は納得していない様子で、小瓶を光へ透かした。
中の液体は、単純な赤ではなかった。底には黒に近い色が沈み、上澄みには細かな金色の粒が浮いている。瓶を傾けても二つの層は混ざり合わず、それぞれ別の流れを描いた。
「増幅系の薬だと聞いていたけど、変ね」
「何がですか?」
「そもそも、増幅剤と呼べるかも怪しいわ。井畑にはそう説明されていたみたいだけど、調合途中とはいえ、既知の増幅薬とは反応が違いすぎる」
小鳥遊は瓶を光へ透かした。
「一部には興奮作用を起こしそうな素材がある。でも、それだけじゃこの反応は説明できない。安定剤が足りないのか、それとも、最初から別の作用を狙ってるのか……。東雲、材料表は?」
「こちらです」
東雲が差し出した頁へ、小鳥遊は一度だけ目を落とした。それから空いている手で宙の硝子板を引き寄せ、指先を滑らせる。
文字列が次々と切り替わった。押収品の記録、薬剤の登録番号、素材の輸送履歴らしき表が浮かび、その一部が赤く囲まれていく。
「これだけ?」
「井畑が供述した範囲では」
「やっぱり合わないわね。ひとつは生体由来みたいだけど……この状態じゃ、それ以上は分からない」
小鳥遊が瓶の底を軽く弾く。金色の粒が赤黒い液体の中へ舞い上がり、かすかな光を散らした。
「それに、この匂い」
「蓋が閉まっているのに分かるんですか?」
「魔力を嗅いでるの。古い樹脂と、湿った土。それから……花」
「花?」
「甘い香りじゃないわ。茎を折ったときみたいな、青臭い匂い」
燐には何も感じ取れなかった。硝子越しの赤は、血にも、熟れすぎた果実にも見える。ただ見つめているうちに、胸の奥へ薄い不快感が沈んでいった。
小鳥遊は小瓶を簡易照合器へ固定し、蓋の中央へ細い金属針を差し込んだ。針先から淡い光が流れ込み、液体の表面へ幾重もの輪が広がる。
やがて器具の側面に、登録済み素材との照合結果が浮かび上がった。登録済みの素材と照合されていくが、いくつかの項目だけが空欄のまま残る。
「未知の素材ということですか」
「それもあり得るけど、名前を変えて流している可能性のほうが高いわ。闇市場では、摘発された素材ほど呼び名が増えるもの」
小鳥遊は別の硝子板を呼び寄せた。
「最近、『魔力を強くする薬』って触れ込みのものが増えてるのよ。けれど、成分も効き方もばらばら。まともな増幅剤とは呼べないものまで混じってる」
「井畑のものも、その一つ?」
「まだ分からない。完成品がないもの。ただ、同じ流通経路から素材が入っている可能性はある」
小鳥遊は地図の一角を指で拡大した。
「闇市場の東側。古い薬種商が集まる区画よ」
「誰が流しているかは?」
「そこを調べているところ。連絡役は使い捨て、取引名義は偽名ばかり。けれど、どんなに消しても情報はどこかに残るわ」
小鳥遊は明るく笑った。その笑顔とは裏腹に、硝子板を追う瞳は鋭かった。
「成分の詳細は薬理班へ回す。私は偽名と受け渡し記録を追うわ。使い捨ての連絡役でも、完全に痕跡を消すことはできないから」
東雲は小さく頷いた。
「俺たちは受け渡し場所を確認してきます」
「闇市場へ?」
「はい」
小鳥遊は顔を上げ、二人を交互に見る。
「二人で行くの? 大丈夫だとは思うけど、目立つわよ。特に燐は」
視線を向けられ、燐は首を傾げた。
「どうして」
「どうしてって……」
小鳥遊は言葉を失い、助けを求めるように東雲を見る。東雲は何とも言えない顔で、そっと視線を逸らした。
「あなた、自分がどう見られているか、分かっているでしょ。闇市場の連中は、あなたを見たら逃げるか、逃げる前に殺されると思って固まるわ。前にあそこでやったこと、まだ語り草になってるもの」
「……どれのこと?」
「候補がいくつもある時点で反省して」
教えるつもりはないらしい。
小鳥遊の眉がわずかに上がる。燐は答えに詰まり、視線を逸らした。
「細かいことは忘れたの」
「都合の悪いことだけ忘れるのね!」
冗談めいた調子で言いながら、小鳥遊は机の引き出しから薄い黒布を取り出した。広げると、簡素なフードのついた外套だった。
「これを着ていけば少しはまし。顔を全部隠す必要はないけど、目立たない努力くらいはして」
「ありがとうございます」
東雲が受け取り、そのまま燐へ差し出す。黒い布は見た目より軽く、指のあいだを滑るような手触りだった。
「東雲も気をつけて。闇市場の古い知り合いから、最近は客層まで変わったと聞いてる。薬を買いに来るような人間じゃない連中が、出入りしてるらしいわ」
小鳥遊は赤い小瓶へ視線を落とす。
「だから、少し嫌な感じがするのよねぇ」
「結果が出たら連絡をお願いします」
「分かった。二人とも、無茶はしないでちょうだい」
最後の言葉だけ、少し低かった。
燐は返事をしかけて迷う。大丈夫、と言うのは簡単だ。けれど目覚めてから今まで、何ひとつ大丈夫だった覚えがない。
「……気をつける」
小鳥遊は一瞬だけ目を丸くし、それからぱっと明るく笑った。
管理室を出ると、東雲が外套を燐の肩へ掛けた。背後から回された腕が近づき、紙と煙草の匂いがかすかに鼻先を掠める。
「自分で着られる」
「知っていますよ」
東雲は留め具をひとつ閉じ、燐の顔を覗き込んだ。
「でも今のあなたは、目を離すと何をするか分かりませんから」
「……なにそれ」
東雲は意味ありげに口元を緩め、何も言わなかった。そして満足そうに先へ歩き出す。燐は外套の端を摘まみながら、その背を追った。
薄い布一枚で、氷月燐という存在を隠せるとは思えない。それでも、何も知らないまま剥き出しで歩くよりはましだろう。
闇市場。
その言葉を頭の中で繰り返す。初めて行く場所のはずなのに、胸の奥には、薄暗い石畳と湿った空気の感触が浮かんでいた。答えの出ない感覚を抱えたまま、燐は東雲とともに昇降機へ乗り込んだ。
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