30 あなたの味方ですから
• ─────────── •
「ひとまず、異常は見当たりませんね。本当にホルトゥの死霊に噛まれたのですか?」
魔法管理部、魔法警備局医務室。
医務官の斎条あずりは、燐を前にしても少しも臆する様子を見せなかった。
それどころか燐が医務室へ入るなり、「ようやく来てくださったのですね! この日を待っていましたとも!」と声を弾ませ嬉々として診察を始めた。
四十代から五十代ほどに見える女だった。丸みを帯びた薄茶色の瞳には、医師の慎重さよりも、未知の生物を前にした研究者のような好奇心が浮かんでいる。
斎条は燐の腕を取り、瞳を覗き込み、全身を上から下まで丹念に診察した。
いや、観察した。
一人で診察を受けることになった燐は、余計なことを口にしないよう、できるだけ静かにしていた。
斎条とは、これまで深い関わりがなかったらしい。燐がそっけなく答えても、態度の変化を訝しむ様子はない。
気になるのは、その視線だけだった。
同じ魔法使いを診ているというより、何か別の生き物を確かめているような目だった。燐は居心地の悪さに、無意識に肩をすくめた。
「かなり出血していたと聞きました。それなのに傷痕さえ残っていない。どうやって治したのですか? 治癒魔法ですよね。どんな術式を?」
「……魔法で」
曖昧に答えると、斎条はあからさまに顔をしかめた。
「それくらい、馬鹿でも分かります! 何という魔法を使ったのかと聞いているんです」
「質問が多い……」
燐は視線を落とし、手の甲を指先でなぞった。できるだけ感情を見せないよう、声の温度を下げる。
「結果的に治った。それだけ。特別なことはしてないよ」
「ですが、普通はこれほど綺麗に治りません。まるで、最初から傷なんてなかったみたいに――」
燐は、わずかに口元を緩めた。
それ以上は答えないという意思を込めただけの笑みだったが、斎条の表情が一瞬だけ強張る。
「……失礼しました」
斎条は名残惜しそうに燐の腕から手を離した。
「でも、気が変わったら、ぜひ教えてくださいね」
最後まで好奇心に満ちた視線を背に受けながら、燐は医務室を出た。
元の氷月燐は医務室を嫌い、滅多に訪れなかったらしい。
不死ならば、治療を受ける必要がなかったのかもしれない。けれど、それだけではないのだろう。
奇異なものを見る目に晒される場所へ、わざわざ近づきたくなかった。
今なら、その気持ちが少し分かる。
廊下では、東雲が待っていた。
燐を見つけると、ぱっと表情を明るくして駆け寄ってくる。その分かりやすい変化に、燐は一瞬だけ面食らった。
「白峰は?」
二人で歩き始めてから、燐は尋ねた。
「先に戻りました」
「そっか。待ってなくてもよかったのに」
そう言うと、東雲は柔らかく笑った。
「待ちますよ。燐さん、迷うかもしれないでしょう」
実際には、迷うほどの距離でもなかった。
医務室から『梟』の執務室までは同じ階にあり、扉に掛けられた梟型の標章もよく目立つ。
その扉の前で、東雲が振り返った。
「『梟』にいる人たちのことは、どれくらい覚えていますか?」
燐は首を振りかけて、少し考え直す。
「白峰と……晴野は分かる」
「ほかには?」
「ごめん。あんまり」
「そうですか」
東雲は一瞬だけ笑った。
「でも、早く思い出してくださいね」
口元は笑っているのに、青い瞳の奥へ微かな陰りが落ちている。
あまりに整った笑顔だった。質のよい仮面を、そっと顔へ載せたように見える。
東雲はそのまま、『梟』の構成員について簡単に説明した。
《梟》を直接指揮する管理官の佐伯駿良。特別捜査官の氷月燐と白峰愼司。その下に一等捜査官の赤坂遼一と市埜隼人がおり、東雲碧惟は準一等捜査官。二等捜査官には晴野悠里、秋葉日向、夏海柊が所属しているという。
「それから、捜査官ではありませんが――」
東雲が言いかけた瞬間、目の前の扉が勢いよく開いた。あまりの勢いに、燐の髪の先が風を受けて揺れた。
「燐、大丈夫!? 怪我したって聞いたの! 死霊に噛まれたって、本当!?」
艶やかに巻かれた赤い髪が、目の前で揺れた。
無花果の実のような色の髪をした女が、燐の腕を取り、背中や足元まで矢継ぎ早に確認していく。
「特別研究員の小鳥遊さんです」
東雲は小鳥遊へ聞こえないほどの声で囁き、二人の間へ滑り込んだ。
「斎条医務官に診てもらいました。異常はないそうです。ね、燐さん」
「ええ」
燐は控えめに頷く。
「本当に?」
小鳥遊はなおも食い気味に顔を寄せた。
「あなたが死霊に噛まれるなんて思わなくて。晴野が、また変なことを言っているのかと……」
「またって、俺、そんなに変なこと言ってませんけど!」
部屋の奥から、晴野が机越しに顔を出す。
「だから、すごく心配したの。本当に大丈夫? どこか具合が悪いんじゃない?」
「何ともないよ。大丈夫」
燐がもう一度頷くと、小鳥遊はようやく肩の力を抜いた。
「ああ、もう。びっくりした……」
その顔を見て、燐は少し呆けた。
ここへ来るまでに出会った者たちは、氷月燐を恐れるか、距離を取るかのどちらかだった。
けれど、小鳥遊の目には畏怖がない。
ただ、燐の無事を心配している。
それが、燐にはひどく珍しいものに思えた。
「おーい。三人とも、入口に突っ立ってないで入ったら?」
部屋の中から、若い男が声を上げた。
軽薄そうに口角を持ち上げたまま、三人のそばまで歩いてくる。二十代後半ほどの、背が高く細身の男だった。
男は腕を組み、扉へもたれかかる。
「あ。噛まれたって、本当なんすか?」
「本当です、市埜さん。この目で見ました」
「ほえー。でも、生きてるってすごいな。さすが大魔導師。生きてる次元まで違うんすね」
「いくら強くても、どうにもならないことはあるんだから」
小鳥遊が眉を寄せた。
燐は二人を見比べ、それから、ひとまず口を開いた。
「ありがとう」
特定の誰かへ向けたつもりはなかった。
心配していた小鳥遊にも、半ば面白がっている市埜にも、まとめて返しただけだった。
しん、とその場が静まり返る。
東雲は目を見開き、小鳥遊は口を半分開けたまま燐を見ている。市埜も、扉から身体を起こしかけた妙な姿勢で固まっていた。
その沈黙で、燐は悟った。
――失敗した。
「あっ!」
東雲が慌てたように声を上げる。
「小鳥遊さん。ほかの人たちは、どこに?」
「え? 赤坂と秋葉は外へ出ているわ。夏海は研修中。それより、二人とも管理官から次の任務について聞いた?」
「まだです」
小鳥遊は、薄い黒色の封筒を差し出した。
「管理官から、渡しておくように頼まれたの。違法魔法薬の捜査よ」
「ありがとうございます」
東雲は封筒を受け取ると、すぐに燐へ振り返った。
「では、さっそく始めましょうか。燐さん」
「え」
問い返す間もなく、東雲は部屋を出ていった。
燐のことを仕事中毒だと言っていたが、東雲も、ほかの者たちも、大概ではないだろうか。
そう思いながら、燐は慌ててその背を追った。
• ─────────── •
時刻は、朝の九時だった。
昨晩から一度も眠っていない。
いや、正確には別の意味で一度意識を失ったが、身体に眠気はなかった。思考は不自然なほど冴えているのに、精神だけが薄く削り取られたように重い。
見知らぬ世界で目を覚まし、魔法を使い、人形師と戦った。死霊に噛まれ、一度死に、また蘇って、そして今は仕事をしている。
――でも、やるしかない。
東雲に案内された空き部屋には、机と棚が整然と並んでいた。
東雲は燐を近くの椅子へ座らせ、自分も向かい側へ腰を下ろす。それから、黒い封筒の中身を机へ広げた。
燐もそれに倣い、資料を取り出す。
《第七〇八二〇号 違法魔法薬捜査資料》
燐は意を決して、紙面へ目を落とした。
文字は読めた。書かれている内容も、一つずつなら理解できる。
けれど、そこから何を見つけ、何を考えればよいのかまでは掴めなかった。
向かいでは、東雲が同じ資料を読み進めている。
その速さに、燐は思わず目を見張った。
頁はほとんど止まることなく捲られていく。燐が一枚を読み終えるより早く、東雲は三枚、四枚と先へ進んでいた。
「はや……」
無意識に零れた声に、東雲が顔を上げる。
「何か?」
「え」
聞かれているとは思わず、燐は肩を揺らした。
「あ……いや。事件のことを考えていて」
「ああ。この件ですね」
東雲は資料へ視線を戻しながら、軽く頷いた。
「先日、『大鷲』が――」
オオワシ。
燐が頭の中で復唱したのを察したのか、東雲は一瞬だけ言葉を止め、説明を足した。
「魔法犯罪捜査第二班、通称《大鷲》が、違法魔法薬を調合していた魔法薬師を逮捕しました。ただ、現場から押収されたのは調合途中のものだけで、完成品は見つかっていません」
「完成してない?」
「ええ。それでも、使われていた素材の一部がかなり特殊なんです。どこから入手されたものなのかも分かっていません」
「それを、私たちが調べる?」
「そういうことです」
あまりにも淡々とした説明に、燐は首を傾げた。
「つまり……雑用?」
「まあ、そうとも言えますね」
東雲は肩をすくめて笑った。机の端には、赤黒い液体の入った小瓶が幾つか並んでいる。どれも同じように見えるのに、よく見ると底へ沈んだ色や浮かんでいる粒子が少しずつ違っていた。
「これが、その魔法薬?」
「途中まで調合されたものです。まずは、材料の流通経路を調べます」
東雲は書類の束から一枚を抜き、燐へ差し出した。細かな文字が紙面へ隙間なく並んでいる。
「井畑の供述と押収品から判明している素材の一覧です。まだ特定できていないものもありますが、このうちいくつかは、かなり入手の難しい素材です」
指先が、幾つかの項目を順に辿る。
「一人の魔法薬師が容易に揃えられるものではありません。井畑大貴には、それだけの資金も、流通経路へ接触できる立場もなかった」
東雲は、逮捕された魔法使いの資料へ目を落とした。
井畑大貴。三十歳。郊外に父親が一人。職業は魔法薬師だが、目立った業績も実績もない。どこにでもいそうな人物だった。
「単独犯ではないと?」
「少なくとも、素材を供給した相手は別にいる可能性が高いと思います。井畑本人は、完成品が何になるのかまでは知らなかったと供述しているみたいですね」
「完成品も知らないってことか」
「指定された工程まで調合して、受け渡す役だったようです」
燐は並んだ小瓶を見た。完成していない。何になるのかも、誰の手へ渡るのかも分からない。それでも、そこには簡単には手に入らない素材が使われている。
「……なるほど?」
理解できていないことは、自分でも分かっている。
それでも、僅かな情報からここまで筋道を組み立てる東雲の速さに、燐は圧倒されていた。
東雲は少し考えたあと、顔を上げる。
「まず、素材の出所を追いましょう」
燐は、足元へ視線を落とした。
東雲の青い瞳から逃れるように。
「……多分、私は足手まといになると思うけど」
「そんなことありません」
東雲は即座に否定した。
それから、少し困ったように笑う。
慰めるでも、励ますでもない。当然の事実を伝えているような声だった。
「燐さんなら、十分に対応できます。何もかも忘れたわけではないのでしょう。きっと、すぐに記憶も戻りますよ」
――私は、あなたの知っている氷月燐じゃない。
言葉は喉の奥まで上がり、そこで止まった。
違う。
あなたの知る燐は、もういない。
そう伝えたかった。けれど、どうしても言葉にできなかった。
――やるしかない。
「燐さん」
呼ばれ、燐ははっと顔を上げた。
「大丈夫です」
東雲は、燐をまっすぐに見ていた。
「何があっても、俺はあなたの味方ですから」
燐は、はく、と小さく口を開いて息を吸った。
「あなたは……」
胸の内側へ押し込んでいた問いが、思わず零れた。
「私が、嘘をついていたとしても、信じるの?」
東雲は、すぐには答えなかった。
ほんの少しだけ考えてから、静かに頷く。
「信じます」
「理由は?」
「いつか、その嘘を俺に教えてくれると信じているからです」
不思議な青い瞳だった。
深い海の底から見上げられているような色をしているのに、燐の内側まで静かに見透かしてくる。
そこには、疑いを知らないような信頼があった。
だからこそ、燐はそれを素直に受け取ることも、同じものを返すこともできなかった。
「……分かった」
燐は資料を閉じ、椅子から立ち上がる。
「準備をして、動きましょう」
東雲も頷き、二人は並んで部屋を出た。
• ─────────── •




