29 休みって言葉、知ってたんだな
どこか見覚えのある建物だった。
形だけを見れば、アメリカのエンパイアステートビルを少し低くしたものに似ている。とはいえ、見上げれば首が後ろへ折れてしまいそうなほど高い。白や茶を基調とした石造りの街並みの中で、そこだけが異様なほど景観へ馴染んでいなかった。
景観法という概念がこの世界にもあるのなら、建築計画の段階で止められていてもおかしくない。
そんな黒い建物へ迷いなく進んでいく東雲と白峰の背を、燐は早足で追いかけた。
――歩くの、速すぎ……。
追いつくことと、動揺を悟られないことに必死で、ここまでどうやって来たのか、燐は半分も覚えていなかった。残りの半分は、この身体へ長く染みついた感覚が勝手に補ってくれたのだろう。
初めて訪れたはずなのに、どこか見覚えがあった。
要塞めいた建物の入口には、黒いマントをまとった男が二人立っている。守衛だろうか。燐が観察するように目を向けると、片方の男と視線が合った。
男は、さっと顔を逸らした。
――え……目、逸らされた?
もう一人へ目を向ける。今度は、男の喉から「ひっ」と小さな音が漏れた。
「そんなに怖がらせるなよ」
白峰が、ため息混じりに言った。
「怖がらせてなんていない」
「へいへい。そうですか」
「本当に、怖がらせてないよ」
私のことを何だと思っているの、と言い募ろうとして、燐は口を閉じた。
入口の先へ広がる光景に、言葉を失ったからだ。
天井が、想像していたよりも遥かに高い。
円形の広大なエントランスを、人々が右へ左へと忙しなく行き交っていた。足音と話し声が幾重にも重なり、殺伐とした空気が漂っている。
「燐さん、行きましょう」
東雲に呼ばれ、燐はようやく我に返った。
一歩踏み出すと、今度は溢れ返る人の波が押し寄せる。誰もが暗い色の外套を羽織っていたが、縁を飾る刺繍や装飾は一様ではない。すれ違う者たちの顔立ちも、髪や瞳の色も多種多様だった。
人波を避けようと身を捩った瞬間、肘へ何かがぶつかる。
謝るより早く、ぶつかった男は「ひゅっ」と息を呑んだ。蒼白な顔で燐を見たあと、逃げるように人混みの中へ消えていく。
「なんなの……?」
足音。囁き声。煩わしいざわめき。天井の下を行き交う人と鳥。
――鳥?
さらに上を見上げると、高い天井の階の向こうで雷雲が轟いていた。
「雷……」
その呟きを、東雲が拾う。
「今日はリーデンベスの日ですから」
もはや、燐には質問を返す気力もなかった。
戸惑う燐を置き去りにして、二人はエントランスの中央へ進んでいく。人々の波が自然と左右へ割れ、彼らのためだけに道を開いていった。
――顔を伏せるな。
頭の奥で声が響いた。
《《氷月燐には、あってはならないこと》》を教える声だった。
四方八方から視線が突き刺さる。
好意。忌避。畏怖。
そのどれもが、燐を居心地悪くさせた。
• ─────────── •
『百二十五階です』
静まり返った昇降機が、ごうん、と硬い音を立てて止まった。
女の音声が響き、燐は足元へ落としていた視線を上げる。ほんの数秒しか動いていなかったはずなのに、表示は確かに〈125〉を示していた。
「医務室の前に、佐伯さんのところへ行きましょう。執務室にいるようですから」
――佐伯。
この流れなら、その人が管理官なのだろう。
燐は東雲のあとへ続いた。背後からは白峰がついてくる。
廊下の突き当たりは見えているのに、いくら歩いても足取りが重い。自分の身体なのに、思うように前へ進まない。そのことに、燐はひどく辟易した。
やがて三人は、重厚な大扉の前で足を止めた。
黒く無機質な建物には不釣り合いなほど、美しい木彫りの装飾が施されている。
東雲が三度ノックすると、ドアノブが音を立て、ひとりでに回った。
扉が開いた瞬間、室内から陽光が溢れ出し、燐は思わず目を細める。
そこは、本に囲まれた落ち着いた部屋だった。
入口の脇では、幾つもの丸い鏡を取りつけた置物が、かこん、かこん、と規則正しい音を立てて揺れている。その一つへ燐の姿が映り込み、像の周囲を金色の線が三重に巡った。
「待っていたよ、三人とも」
低く、よく通る声がした。
硝子張りの窓を背に、崩れそうなほど書類を積み上げた机の前へ、一人の男が立っている。
――優しそうだけど……。
焦げ茶色の髪には白いものが混じり、後ろへ整然と撫でつけられていた。彫りの深い顔立ちをしているが、わずかに垂れた目元が印象を柔らかくしている。
細い銀縁の眼鏡と穏やかな微笑には、知識人めいた温和さがあった。一方で、黒いスーツ越しにも分かるほど、体つきはしっかりしている。
佐伯は椅子へ腰を下ろした。
東雲は机の前まで進んだが、白峰は少し離れた位置で足を止めた。燐も迷った末、白峰の隣へ立つ。
「こちらが、現場で回収した人形師のトランクです。持ち主は、すでに死亡していますが」
東雲が手を翳すと、机の前へトランクが現れた。
佐伯はそれへ一瞥を向け、すぐに白峰へ視線を移す。
「白峰捜査官。この魔法道具の解析を頼めるかい」
「はい」
「それから、氷月捜査官」
東雲の肩越しに佐伯を観察していた燐は、不意に視線を向けられ、心臓を大きく跳ねさせた。
「君からは、まだ何も聞いていない」
眼鏡の奥にある黒い瞳が、燐の内側まで見透かしているように思えた。
「ホルトゥの死霊に噛まれるなんて、君はそんなことをする人ではないだろうに」
燐が答えられずにいると、東雲が恐る恐る口を開いた。
「佐伯さん。その件について、ご報告があります」
あ、と燐は声を出しかけた。
東雲は、記憶喪失について話すつもりなのだろう。相棒であり上司でもある者の異変を、さらに上の立場へ伝えるのは当然だった。
記憶喪失。
自分が本来の氷月燐ではないことを隠すには、都合のよい言葉でもある。先に伝えてしまえば、多少の不自然な言動を防ぐ盾になる。
けれど、佐伯と白峰へ知らせて、本当に大丈夫なのだろうか。
そう思ったところで、東雲の口を塞ぐことはできなかった。
「燐さんには、記憶の混乱があるようです」
記憶喪失ではなく、少しぼかした言い方だった。
「まじかよ」
白峰は目を見開き、燐を凝視したまま絶句した。
一方で、佐伯はほとんど表情を変えない。
「いつからの記憶がないんだい。断片的に失われているのかな」
「……だ、断片的に」
嘘ではなかった。
ふとした瞬間に、知らないはずの記憶や知識が頭の中を走る。けれど、「いつから」と問われても答えようがない。
燐には、氷月燐と佐伯がどれほど長く、どのような関係を築いてきたのか分からなかった。佐伯の言う「いつから」が、どの出来事を起点としているのかさえ判断できない。
佐伯の視線が、静かに鋭さを増した。
柔和な表情の奥に、燐の言葉が真実かどうかを見極めようとする圧が潜んでいる。
「魔法は使えるのかい?」
「使える」
燐は反射的に答えていた。
「現場でも魔法は使えていました。死霊に噛まれた傷も、自分で処置したようですし、魔力に問題はないと思います」
東雲の報告に、佐伯は小さく頷いた。
「魔法が使えるなら、差し迫った問題はなさそうだね」
「記憶を戻す魔法を使いますか?」
佐伯は顎へ手を当て、しばらく考え込んだ。それから、「いや」と首を振る。
「それは最終手段にしよう。氷月捜査官が生きてきた時間を考えれば、記憶全体へ干渉するには、かなり強力な魔法が必要になる。その代償がどれほどのものになるか、予測できない」
燐は、その言葉に胸を詰まらせた。
――生きてきた時間。
「ひとまず、しばらく様子を見よう」
「それなら……ねえ、少し休みをもらってもいい?」
そう口にした瞬間、部屋へあり得ないほど静かな空気が流れた。
時間が止まったような空白だった。
燐は内心、その反応にどきりとする。
佐伯の穏やかな目が丸く見開かれた。東雲も白峰も、信じられない言葉を聞いたように、ぽかんと燐を見つめている。
「いや……驚いた」
一拍置いて、佐伯が口を開いた。
「こちらが休めと命じても休まなかった君が、自分から休みを求めるなんて」
やがて、佐伯はいつもの柔らかな表情へ戻った。
「まずは東雲捜査官。氷月捜査官を医務室へ連れていき、検査を受けさせなさい。今の彼女なら、素直に行ってくれそうだ」
「もちろんです」
「それから、氷月捜査官の状態については他言無用だ。今日ここにいない『梟』の捜査官にも、一切知らせてはいけない」
「え、話さないの?」
思わず聞き返すと、佐伯は口を固く結んだ。
「氷月捜査官。記憶がないという事実は、明確な弱点になる」
声は穏やかなままだったが、言葉には重さがあった。
「君がこれまで捕らえ、敵対してきた者たちへ、隙を見せることになる。東雲捜査官も、そう考えたから、ここで報告したのだろう?」
「はい。管理官と特別捜査官には、事前に共有しておくべきだと思いました」
「賢明な判断だな。これが外へ漏れれば、俺たち『梟』まで危うくなる」
白峰も頷く。
どうやら、氷月燐にとっては、記憶喪失のふりですら命取りになるらしい。
――そんな無茶な。
「そういうことだ。白峰捜査官も、氷月捜査官も、大変だとは思うが、頼んだよ」
佐伯は書類へ手を伸ばしながら、東雲へ顔を向ける。
「検査が済んだら、次の任務へ取りかかってくれ」
「任務は、燐さんと一緒に?」
東雲が燐を見た。
「ああ」
佐伯が当然のように頷く。
「え?」
燐は思わず聞き返した。
どう考えても、休みをもらえる流れだったはずだ。
「ちょっと待ってく……待って。私も? 記憶が、ないのに?」
「君は、その場にいるだけでも大きな抑止力になる。こちらとしては、記憶のない大魔導師でも、杖だけは借りたいくらいなんだ」
燐は愕然とした。
その期待は、『大魔導師』だからこそ向けられるものなのだろう。けれど、今の燐にはまるで実感が湧かなかった。
「仕事をしていれば、記憶が戻る可能性もある。そのほうが手っ取り早いと思うんだ」
「いや、そんな……」
「すまないね。こちらはいつも人手不足で、お上からは早く解決しろと言われている。それなのに、『梟』へ回される案件は減らない」
佐伯は困ったように眉尻を下げた。
「今回の任務は、東雲捜査官の補佐として同行してくれないかな」
「え……」
「お願いだよ、氷月捜査官」
燐は、他人の困った顔に弱い。
佐伯のしおらしさが演技めいていることも、うまく言いくるめられていることも分かっていた。それでも、心の柔らかな場所を押されてしまう。
気づいたときには、燐は頷いていた。
頷く以外の返事が、口から出てこなかった。
執務室を出たあと、しばらく黙って歩いていた白峰が、ぽつりと呟いた。
「お前……休みって言葉、知ってたんだな?」
馬鹿にしているのかと反論しかけて、燐は口を閉じた。
白峰は、本気で驚いている。
『氷月燐』は、いったいどんな人間だったのだろう。
身体の元の持ち主へ思いを巡らせたとき、頭の中へアンバーの言葉が蘇った。
――御主人は、仕事中毒でしたから。
あれは、笑って済ませられる冗談ではなかった。
元の氷月燐へ向けられた、疑いようのない共通認識だったのだと、燐は思い知った。




