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28 追加裁定:選択の帰属

「天秤……そう、天秤!」


 燐は思わず、自分の胸元へ手を伸ばしていた。


 刻まれた痕を指先でなぞる。その瞬間、澄んだ鐘を打ち鳴らしたような和音が頭の奥へ響き、白い光が視界を塗り替えた。


 どこまでも白い空間。雲間から吊るされた天秤。泣き出しそうな氷月燐の顔と、涼の笑顔。


 交わした言葉も、身体を貫いた痛みも、最後に握った手の温度も、怒濤の波となって押し寄せた。ぼんやりと沈んでいた記憶が一気に浮上し、燐の意識を浚っていく。


「……思い出してきた」


 霧の底へ沈んでいたものが、少しずつ自分の中へ戻ってくる。燐は胸元へ触れたまま、その感覚を噛みしめた。


 そのとき、すぐそばで、ごとん、と鈍い音がした。


「な、何これ」


 硬いものがフローリングへ落ちた音だった。燐は顔を上げ、天井を見てから周囲を見回す。


 黒革の手帳が、床の上へ静かに横たわっていた。


 まるで、最初からそこに置かれていたみたいだった。


「え……ねえ、これ、私の?」


『うーん』


 アンバーが白い鼻先をひくひくと動かした。燐のものだと言っているようにも、違うと言っているようにも見える。


『そんな気もしますし、そうでもない気もします』


「何それ」


 この生き物は、本当に役に立つのだろうか。


 使えないな、という言葉は喉の奥で呑み込み、燐は半目でアンバーを睨んだ。それから床へしゃがみ込み、手帳を拾い上げる。


 すると、手帳の間から何かが滑り落ちた。


 写真立てだった。


 挟まっていたとは思えない厚みがある。それでも確かに手帳の中から現れ、燐の膝の前で硬い音を立てて止まった。


 燐は、その写真から目を離せなかった。


 向日葵のように明るく笑う少女が写っている。


「……涼」


『写真ですか?』


 アンバーが手元を覗き込んだ。


『誰です?』


 燐は込み上げるものを噛みしめながら、ゆっくりと写真の表面を指でなぞった。


「私の……大切な妹」


 氷月燐になる前の自分については、もう多くを思い出せない。


 けれど、この少女が涼という名前だったこと。何よりも大切な存在だったこと。そして、自分が進む道を照らす光であることだけは、揺らがなかった。


 アンバーは「ふむむ」と唸り、宙でくるりと一回転した。それ以上は興味を示さず、燐の周囲をふよふよと漂い始める。人間の感情へ、長く付き合う気はないらしい。


 燐は写真立てを本棚の隅へ置いた。


 生活感の乏しい部屋の中で、それだけがひどく異質に見えた。それなのに、不思議とそこへあるべきもののようにも感じられる。


 そもそも、この部屋自体が仮の住まいのようだった。必要なものだけを残し、いつでも立ち去れるように整えられている。誰かが長く生きてきた部屋というより、長く生き続けるために用意された、ただの容れ物に近い。


 ――ああ。


 燐は、自分の右手を見た。


 先ほど硝子で傷つけたはずの皮膚には、痕跡一つ残っていない。普通の人間にも、普通の魔法使いにもあり得ない、不死の身体。


 氷月燐は、代理者を知っていた。


 理の天秤によって量られることも、その裁定がどれほど絶対的なものかも、知っているようだった。


 それでも、わずかな希望を探し、凛を救おうとした。


 ――もしかして。


 不死とは、彼女が理の天秤から受けた、別の裁定だったのだろうか。


 罰として、死ぬことを許されなかったのではないか。


 確かな証拠はない。それでも、あのとき氷月燐が浮かべていた表情の意味を、少しだけ理解できた気がした。


 燐は黒革の手帳へ視線を戻した。


 つるりとした表紙に指先で触れる。重さも手触りも、ごく普通の新しい手帳だった。


 開いていいのだろうか、と一瞬だけ躊躇う。


 けれど、胸の痕に触れた直後に現れたのだ。理の天秤か、氷月燐に関わるものに違いない。


 開くしかなかった。


 表紙を捲る。


 最初の頁は、何も書かれていない白紙だった。


 次の頁へ指をかける。二枚目から先は、紙面が一様に黒く塗り潰されていた。四隅にわずかな白い余白を残し、隙間なく広がる黒。三枚目も、四枚目も、その先も変わらない。


 筆で塗ったような濃淡も、滲みもない。最初から、黒い紙として作られていたようだった。


「変な手帳……」


『何か書いてあるのですか? ボクには、何も見えませんが』


「……そう」


 アンバーには、白紙に見えているらしい。


 燐は両手で手帳の端を押さえ、さらに頁を捲った。


 やがて、黒い頁は唐突に終わった。


 硬い指触りの厚紙が現れ、その中央に、淡い文字が浮かんでいる。


〈個体名《青い炎》を終わらせること。それが、あなたの使命〉


 命令にも、懇願にも見えない。


 すでに決定された事実を、ただ記録しているような筆致だった。


 燐が目で追うごとに、白い文字が黒い紙面へ次々と現れていく。


〈あなたは罪過を償うため、我々に存在を認められた〉

〈あなたは背を向けず、選択を続けなければならない〉

〈あなたは█████████を果たすため、我々の処置を受けた〉

〈あなたは我々の監視点である〉

〈選択と結果は、常に観測される〉


【記録】


〈裁定:████ 既存処置:不死〉

〈裁定:魂の代置 追加裁定:選択の帰属 処置:未承認〉

〈指定対象:個体名《青い炎》〉

〈当該個体が行ったすべての選択は観測され、その結果は裁定対象となる〉


「これ……」


『何だったのですか?』


「……いや」


 燐が首を振ると、アンバーは納得のいかない顔をした。


「日記かな……たぶん」


 曖昧に答えると、アンバーは思いのほかあっさりと引き下がった。


 ――どんどんどんっ!


 不意に、扉が激しく叩かれた。


 あまりに性急な音に、燐の身体が強張る。誰なのか確かめようと立ち上がりかけたが、時すでに遅かった。


 玄関の扉が、勢いよく開く。


 息を切らして飛び込んできたのは、東雲だった。その後ろから、白峰ものそりと姿を現す。


 東雲は燐を見つけると、目に見えて肩の力を抜いた。


「あ……燐さん。大丈夫ですか?」


「うん」


 燐は手帳を閉じ、立ち上がった。


「――ごめんなさい。勝手にいなくなって」


「それは……いえ、問題ないですけど……」


「いや、大ありだがな」


 東雲は歯切れ悪く視線を泳がせた。動揺を隠しきれない目が、何度も燐の右腕へ向けられている。


「腕は、もう何ともないから」


 燐が軽く右腕を動かして見せると、東雲の表情が目に見えて緩んだ。


 その変化が、かえって居た堪れなかった。燐はすぐに腕を下ろす。


「念のため、医務官に診せたほうがいい。本庁へ行くぞ」


 白峰が呆れたように言った。


 その「本庁」という言葉を聞いた瞬間、燐は首を振っていた。考えるより先の反応だった。


「いや、大丈夫だって……」


「さすが、大魔導師サマ。だが今日は拒否権なしだ。子どもじゃあるまいし、我が儘を言うな」


「行きたくないんだけど」


「連れてこいと言われてるんだよ。管理官にな」


 管理官。


 その言葉が落ちた途端、胸の奥へ重たいものが沈んだ。


 行きたくない。


 けれど、行かなければならない。


 二つの感情が混ざり合い、胃の底に嫌な重さを作っていく。


 白峰は小さくため息をついた。サングラスの向こうにある表情は、やはり読めない。


「燐さん。とにかく行きましょう、ほら」


 東雲が、まっすぐに燐を見つめている。


 燐は少し間を置いてから、渋々頷いた。


 まるで、駄々をこねる子どもを宥めるような扱いだった。


 • ─────────── •


  この世界では、魔法を使えない者が人口の大半を占める。強大な力を持つ魔法使いと、力を持たない人々。その長い対立を抑えるために定められたのが魔法法であり、法を踏み越えた魔法使いを追うのが『梟』だった。


 アマリ幻想地区司法局・魔法管理部、魔法警備局公安警察部。

 魔法犯罪取締課。

 ——「特殊魔術犯罪広域対策室第1班『梟』」


 燐の目の前には、彼らの巣がそびえ立っていた。それは黒曜石を削り出したような、暗く巨大な建物だった。


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