27 私は、氷月燐
第五話【再生 / The Rebirth】
• ─────────── •
――《《ぐん》》と、深い水の底から無理やり引き上げられるような感覚があった。
凛――いや、燐は、ゆっくりと上半身を起こした。
痛みはなかった。全身を覆っていた倦怠も、焼けるような熱も、身体の奥へ溜まっていた鈍さも消えている。むしろ思考は、霧の晴れた冬の朝のように冴えきり、ひどく冷えていた。
どれほど眠っていたのだろう。
首を巡らせると、すぐそばの床で、小麦色の毛玉が丸くなっている。燐がぼんやりと見つめていると、その長い耳がわずかに動いた。
「……アンバー」
小麦色の毛玉は、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。
大きな琥珀色の瞳には、覚束ない顔をした燐の姿が映っている。その自分の表情を見て、燐はようやく、戻ってきたのだと気づいた。
『あなたは、誰ですか?』
アンバーは床へ伏せたまま、燐を見つめていた。
誰がそこにいるのかを確かめる視線だった。一度死んだ燐が、また別の誰かになって戻ってきたのではないかと疑っているようにも見える。
「私……」
燐は口を開き、言葉に詰まった。一度唇を閉じてから、もう一度ゆっくりと答える。
「私は、氷月燐」
声に出した瞬間、不思議なほど違和感はなかった。
その名前はするりと胸の中へ落ち、最初から用意されていた場所へ収まった。
頭の半分では、それがもともと自分の名前ではなかったと理解している。けれど、もう半分では、ずっと以前からそう呼ばれてきたような気がしていた。
アンバーはしばらく燐を見返したあと、豊かな毛並みを揺らして、ふわりと宙へ浮かんだ。
『おはようございます、御主人。お目覚めのご気分はいかがですか?』
「悪くは、ない。……夢を見てたみたい」
『夢は、夢ですよ』
「……私、どのくらい寝てた?」
『おおよそ、五分というところでしょうか』
「五分?」
燐は床へついていた右腕を持ち上げた。
死霊の牙が食い込んだはずの場所には、傷一つ残っていない。黒い袖だけが無残に裂けていなければ、すべて夢だったのではないかと疑えてしまいそうだった。
「――死んだと思った」
日焼けも傷もない白い肌。細い指先。薄桃色の貝殻に似た爪が、艶やかに光っている。
血の痕も、綺麗さっぱり消えていた。
『魔法使いは長命ですが、死なない魔法使いはいません』
アンバーは燐の頬を、ざらりとした舌で一度だけ舐めた。それから少し距離を取り、空中へ座り直す。
『でも、御主人は、ボクと出会うずっと、ずうっと前から、《《そういう》》魔法使いでした』
「そういう……」
燐は立ち上がり、床へ散らばっていた硝子片へ目を落とした。
この身体が何をしようとしているのか、なぜか分かった。氷月燐も、過去に何度も同じことを確かめたのかもしれない。
燐は小さな破片を拾い上げた。指先へ力を込めると、尖った縁が皮膚を裂き、赤い血が滲む。
遅れてやってきたのは、ごく普通の痛みだった。
「痛い」
『そりゃあ、痛いでしょうね』
「……うん。普通に痛いな」
けれど、その痛みは長く続かなかった。
滲んだ血が吸い戻されるように消え、裂けた皮膚は、何事もなかったように塞がっていく。じくじくと残っていた痛みもぬるい余韻へ変わり、それさえすぐに消えた。
燐は元どおりになった指先を見つめ、しばらく言葉を失った。
「……治った」
『呪いでしょうね』
アンバーは燐の顔を覗き込み、ゆっくりと二度瞬きをした。
『でも、以前の燐にも、その呪いを解くことはできなかった。不死の呪いが、どこで、いつ、どうして掛けられたのかさえ、あの燐にも分からなかったのです』
まるで、この事実を知った燐がどんな顔をするのか、純粋に観察しているようだった。
『可哀想な魂』
アンバーはわざとらしく耳と尾をぺたりと垂らした。
『燐は狡猾で冷徹で、目的のためなら手段を選ばない魔法使いでしたからね。あなたが騙され、ここへ連れてこられた光景が目に浮かびます。何と言われたのですか? 死にたくなければ助けてやる、とでも?』
「違う」
驚くほど迷いのない、硬い声が口を衝いて出た。
『では、助ける代わりに自分になれと?』
「違うの」
記憶を辿りながら、燐は少しだけ語気を強めた。
「燐は、私を助けてくれた。だから今度は、私の番なの」
『燐が。あの燐が、あなたを助けた? それで、あなたはあの燐を助けようとしているのですか?』
「嘘じゃない。私は約束したの。背を向けないって」
『ふむむ。お優しい心構えです』
アンバーの声は軽かった。
『ですが、燐は二枚舌の演技派でしたからねえ』
氷月燐という存在を、最初から信用していない言い方だった。
『その身体は、もうあなたのものです。これから先のことは、あなたが決めなければなりません』
「ええ」
『本当に、分かっているのですか?』
アンバーは宙でゆっくりと一回転し、燐の正面へ回り込んだ。
『あなたは燐の代わりに、《《死なない魔法使い》》になったのですよ』
燐は黙って、アンバーを見つめ返した。
『それとも、死なない身体になれて嬉しいですか? 老いない身体と、終わりのない命。人間が、昔から欲しがってきたものですからね』
動きは軽やかだったが、その言葉には、人の感情へ寄り添う温度がなかった。
責めているわけでも、慰めているわけでもない。ただ、遠い場所から事実だけを差し出している。
『あなたは、彼女に会う前、何をしていたのですか?』
「あ……」
燐は言葉に詰まった。
「炎に焼かれて……燐が助けてくれて……」
『その前は?』
「その前……?」
自分の口から漏れた問いに、燐自身が引っかかった。
糸を手繰るように、記憶を探す。どこかに、それまでの人生があるはずだった。
けれど、閉まっている引き出しの場所は分かるのに、その中身を取り出すことができない。鍵の開くものが、ひどく限られている。
肌を焼いた熱風。落ちていく身体。そして、青い炎。
浮かんでくるのは、氷月燐としてこの部屋で目覚める直前の出来事ばかりだった。途切れ途切れなのに、魂の奥底へ焼きつけられたように鮮烈だった。
「日本で、……暮らしていて。私も、りん、だった」
一つずつ確かめるように、言葉を重ねる。
けれど、言葉と言葉がうまく繋がらない。掴もうとするたびに、ほかの記憶が指の隙間から静かに抜け落ちていった。
アンバーは、しばらく黙って燐を見つめていた。
その瞳にあるのは、心配でも同情でもない。燐が何を覚え、何を失ったのかを確かめるような、純粋な観察だった。
やがて、アンバーはこてんと首を傾げた。
琥珀色の瞳が、燐の胸元へ向けられている。
「な、なに?」
アンバーは尾をふわりと漂わせながら近づき、心臓の辺りをじっと覗き込んだ。
『御主人。それは?』
視線を追い、燐も胸元へ目を落とす。
ワイシャツの襟から覗く心臓の上に、奇妙な痕が残っていた。
傷と呼ぶには、あまりに整いすぎている。引き攣れた皮膚が、幾つもの細い線となって一つの形を描いていた。服越しにも分かるほど、そこだけがじわりと熱を帯びている。
「何、これ」
『痕、でしょうか』
アンバーは、ぴくぴくと白い鼻を動かした。
『何かの模様のようですが』
尾をゆらりと揺らしながら考え込み、片耳だけをぴんと立てる。
『天秤、でしょうか?』




