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月夜の霞に梟鳴きて――青炎に囚われた者たち――  作者: 藤橋峰妙
第四話「不死 / The Immortality」
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26 選び続ける

 言い終えた瞬間、空間を満たしていた音が、ふっと一つに重なった。


 息を呑むほど澄んだ音色が、その場の空気そのものを震わせる。鼓膜を通り抜けた響きは、頭の内側をなぞり、そのまま胸の底へ深く沈んでいった。


 天秤の鎖が、ゆっくりと動き始める。


 上がりきっていた凛の皿が、きしりと低く軋みながら下がっていった。その光景を見つめる燐の肩が、小さく揺れる。忘れていた呼吸を、ようやく思い出したような動きだった。


 凛は、その横顔を見た。


 燐は目を見開き、わずかに唇を開いている。決して覆らないと思っていたものが動いた。もう一方の皿と釣り合う可能性が、初めてそこに現れたのだ。


 それでも、瞳の奥から恐れは消えていなかった。


 二つの皿は少しずつ高さを揃えていく。凛の載った皿が、もう一方へ近づき、並ぼうとした、その直前だった。


 かたん、と乾いた音が鳴る。


 清らかな余韻だけが白い空間へ残り、やがて弱まって消えていった。鎖は、それ以上動かない。


 あと、ほんのわずか。


 何かが足りなかった。


 凛は、思わず自分の呼吸を確かめた。


 息を吸い、吐き出す。ただそれだけのことさえ、この場所で許されているのか分からない。静寂はあまりに深く、二人の胸へ暗い影を落とした。


 そのとき、天秤を支える柱の足元で、空間がわずかに歪んだ。


 白い床の上へ光の粒が集まり、一つの輪郭を結んでいく。気づけば、そこには人の姿をした何かが立っていた。


「え……」


 白とも灰ともつかない衣をまとい、雪のような髪を垂らしている。女のような柔らかさと、男のような鋭さが同居した、年齢も性別も判然としない顔だった。


 真珠めいた肌は、白い空間の中でも奇妙なほど鮮明に浮かんでいる。けれど、その足元には影がなかった。


 凛には分かった。


 目の前に現れたものは、人ではない。


 量られる側ではなく、量る側に立つものだ。


 焦点の定まらない白い瞳が、凛へ向けられる。背骨の奥が冷えた。


 見られているのではない。そこに存在するものとして、ただ無機質に観測されている。感情も関心もなく、残すべきか消すべきかを量られているだけだった。


 隣で、燐が小さく息を呑んだ。


「……代理者」


 驚きよりも、警戒を滲ませた低い声だった。


「だいり、しゃ……?」


 燐の指が、凛の手を強く掴んだ。凛もまた、自分がまだここにいることを確かめるように、その手を握り返す。


『その選択は、世界を救わない』


 代理者の唇は動いていなかった。


 抑揚のない声が、天秤の響きと同じ圧力をもって、頭の内側へ直接流れ込んでくる。


『あなたには、我々の脅威を討つ力がない』


 鎖が低く鳴り、沈みかけていた凛の皿が、ぎ、と引き戻された。


 その音が膝の裏を打ち、身体が折れそうになる。それでも凛は倒れなかった。ただ、倒れることさえ許されないような感覚があった。


『青い炎を終わらせる力を、あなたは持たない。英雄にも、偉大な魔法使いにもなり得ない』


 感情のない白い瞳が、凛を見据えている。


『あなたには、終わらせられない』


 凛は、すぐには反論しなかった。


 胸の奥へ、予想していたとおりの冷たさが落ちてくる。


 分かっていた。


 逃げてきた。何もできなかった。誰かを助けようとして、結局また守られた。


 それでも、そこから目を逸らさないと決めたから、今ここに立っている。


 凛は姿勢を変えた。


 前へ出るでも、後ろへ退くでもない。ただ、天秤を見上げるために上げていた顎を下ろし、代理者をまっすぐに見返す。


 量られるための立ち方を、やめた。


 燐の指が、力を分けるように凛の手を握った。


「分からない」


 凛は視線を逸らさなかった。


「今の私に、終わらせられるかなんて、分からない」

『それは、解決とは呼ばない』


 代理者が、わずかに首を傾げる。


 焦点のなかった瞳が、初めて凛の上で結ばれた。白い瞳の中へ、自分の輪郭が映ったような気がした。


「私は何もできていない。逃げたこともあるし、今だって、怖い」


 隣で、燐が小さく首を振った。凛は一瞬だけ目を細め、それから言葉を続ける。


「でも、誰かの願いがあって、私はここにいる」


 写真の中で笑っていた妹の姿が浮かぶ。


 最後まで凛を生かそうとした涼。自分を消してまで、凛へ身体を与えた燐。


 凛は、握られた手へ力を返した。


「奪われたことも、怒りも、誰かの願いも、それを抱えたまま生きる苦しさも、全部引き受けて進むことはできる」


 代理者は沈黙した。


 天秤の鎖が、きい、と小さく鳴る。


『焼かれてもなお、おまえの魂が、ただ喰われるだけのものではないと証明できるか』


 どこまでも淡々とした声だった。


 それでも凛は、切り捨てられる前に問われたのだと気づいた。


「証明する」


 代理者の瞳が、はっきりと凛を捉えた。


「誰かに決められたからじゃない」


 凛は燐の手を握ったまま、一歩も引かずに告げる。


「もう、青い炎には何も渡さない」


 長い沈黙が落ちた。


 白い瞳は凛から外れない。息をすることも忘れ、凛はその答えを待った。


『あなたは、不完全だ』


 やがて、代理者は静かに告げた。


『我々は結果を求める。不完全な者は、脅威へ対抗するには足りない』


 そこで一度、声が途切れた。


『だが、背を向けないことを、おまえは選び続けると言うのだな』

「――ええ」


 凛は大きく頷いた。


『我々の外縁へ立ち続ける者も、必要なのだろう。おまえの強さを認めるのではない』


 代理者は一度、白い瞳を閉じた。


『弱さを抱えたまま進む、その欠陥を見届けよう』


 時間そのものが引き延ばされたような沈黙のあと、代理者は再び凛を見た。


『あなたを英雄とは認めない。正解を持つ者とも、救済者とも見なさない』


 天秤の鎖が、低く鳴る。


『だが、あなたを監視点へ置く』


 重く沈んでいた片方の皿が、ゆっくりと持ち上がる。浮いていた凛の皿も、同時にわずかに下がった。


 二つの皿は、やがて音もなく高さを揃えた。


『あなたたちの選択を、理へ対抗する証とする』


 代理者の視線が、燐へ移る。


『あなたたちの痛みを、脅威へ抗う証とする』


 次の瞬間、凛の胸元から光が溢れ出した。


 散らばっていた光が一点へ集まり、心臓の上で文字を書くように動いていく。服の下、皮膚の奥へ、焼けるような熱が刻み込まれた。


「う……っ」


 凛は胸元を押さえ、呻きを堪えた。


 燐が強く手を握る。凛はその心配そうな顔へ、掠れた声で「大丈夫」と返した。


『それは祝福ではない』


 代理者は、凛の胸を指した。


『氷月燐と長廻凛の罪業の証。そして、我々によって生かされている証だ』

「証……?」


 問い返したときには、代理者の姿は消えていた。


 残されたのは、釣り合った天秤と、凛と燐の二人だけだった。


 均衡の下で、燐がようやく息を吐く。小さく肩を落とし、掠かな笑いを零した。


「……まさか、代理者まで現れるなんて」


 燐は凛を見つめた。


「凛。あなたはやっぱり、弱いだけの人じゃなかった」

「どういうこと?」

「安心して。あなたは、生きていける」


 凛は、言葉を返せなかった。


 燐の瞳から、少しずつ紫色が失われている。透明な宝石のような輝きは残ったまま、色だけが静かに抜け落ちていった。


「それに、もう目覚めないと」

「……目覚める?」


 燐が凛の額へ、自分の額をそっと寄せる。


 触れた途端、胸の奥が強く縮んだ。息を吸おうとしても、うまく空気が入らない。


 凛は震える喉を動かし、ようやく言葉を引き出した。


「私たち……もう、会えないの?」


 燐は静かに首を振り、凛の胸元へ指先で触れた。心臓の上には、刻まれた光がまだ淡く灯っている。


「私は、あなたの中にいる」


 燐は笑おうとして、うまくできなかったように顔を歪めた。


「私はあなたで、あなたは私だから」


 その不格好な笑みを見た瞬間、凛は、これが最後なのだと分かってしまった。


「背を向けない限り、私も、あなたも、消えないわ」


 白い空間が、少しずつほどけていく。


 輪郭が溶け、床の冷たさが薄れ、遠くで天秤の音が霞んでいった。


 燐の頬を、一筋の涙が伝う。白い肌を滑り落ちた雫が、凛の胸元を静かに濡らした。


「いってらっしゃい」

「……うん」

「凛。あのとき、声をかけてくれて、ありがとう」

「あのとき?」


 聞き返すと、燐は「いつか分かるわ」と答え、凛を抱きしめた。


 凛も、その背中へ腕を回す。


 温かかった。けれど、その感触は少しずつ薄れていった。


 やがて燐は身体を離し、凛の肩をそっと後ろへ押した。


 それが最後だった。


 光が白へ溶けていく。眩しさの中で燐の輪郭は薄れ、紫の瞳だけが最後まで凛を見つめていた。


 凛は、立ち尽くさなかった。逃げた自分も、何もできなかった自分も、そのまま抱えていく。


 背を向けないために、凛はその先の光へ向かって、一歩を踏み出した。


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