26 選び続ける
言い終えた瞬間、空間を満たしていた音が、ふっと一つに重なった。
息を呑むほど澄んだ音色が、その場の空気そのものを震わせる。鼓膜を通り抜けた響きは、頭の内側をなぞり、そのまま胸の底へ深く沈んでいった。
天秤の鎖が、ゆっくりと動き始める。
上がりきっていた凛の皿が、きしりと低く軋みながら下がっていった。その光景を見つめる燐の肩が、小さく揺れる。忘れていた呼吸を、ようやく思い出したような動きだった。
凛は、その横顔を見た。
燐は目を見開き、わずかに唇を開いている。決して覆らないと思っていたものが動いた。もう一方の皿と釣り合う可能性が、初めてそこに現れたのだ。
それでも、瞳の奥から恐れは消えていなかった。
二つの皿は少しずつ高さを揃えていく。凛の載った皿が、もう一方へ近づき、並ぼうとした、その直前だった。
かたん、と乾いた音が鳴る。
清らかな余韻だけが白い空間へ残り、やがて弱まって消えていった。鎖は、それ以上動かない。
あと、ほんのわずか。
何かが足りなかった。
凛は、思わず自分の呼吸を確かめた。
息を吸い、吐き出す。ただそれだけのことさえ、この場所で許されているのか分からない。静寂はあまりに深く、二人の胸へ暗い影を落とした。
そのとき、天秤を支える柱の足元で、空間がわずかに歪んだ。
白い床の上へ光の粒が集まり、一つの輪郭を結んでいく。気づけば、そこには人の姿をした何かが立っていた。
「え……」
白とも灰ともつかない衣をまとい、雪のような髪を垂らしている。女のような柔らかさと、男のような鋭さが同居した、年齢も性別も判然としない顔だった。
真珠めいた肌は、白い空間の中でも奇妙なほど鮮明に浮かんでいる。けれど、その足元には影がなかった。
凛には分かった。
目の前に現れたものは、人ではない。
量られる側ではなく、量る側に立つものだ。
焦点の定まらない白い瞳が、凛へ向けられる。背骨の奥が冷えた。
見られているのではない。そこに存在するものとして、ただ無機質に観測されている。感情も関心もなく、残すべきか消すべきかを量られているだけだった。
隣で、燐が小さく息を呑んだ。
「……代理者」
驚きよりも、警戒を滲ませた低い声だった。
「だいり、しゃ……?」
燐の指が、凛の手を強く掴んだ。凛もまた、自分がまだここにいることを確かめるように、その手を握り返す。
『その選択は、世界を救わない』
代理者の唇は動いていなかった。
抑揚のない声が、天秤の響きと同じ圧力をもって、頭の内側へ直接流れ込んでくる。
『あなたには、我々の脅威を討つ力がない』
鎖が低く鳴り、沈みかけていた凛の皿が、ぎ、と引き戻された。
その音が膝の裏を打ち、身体が折れそうになる。それでも凛は倒れなかった。ただ、倒れることさえ許されないような感覚があった。
『青い炎を終わらせる力を、あなたは持たない。英雄にも、偉大な魔法使いにもなり得ない』
感情のない白い瞳が、凛を見据えている。
『あなたには、終わらせられない』
凛は、すぐには反論しなかった。
胸の奥へ、予想していたとおりの冷たさが落ちてくる。
分かっていた。
逃げてきた。何もできなかった。誰かを助けようとして、結局また守られた。
それでも、そこから目を逸らさないと決めたから、今ここに立っている。
凛は姿勢を変えた。
前へ出るでも、後ろへ退くでもない。ただ、天秤を見上げるために上げていた顎を下ろし、代理者をまっすぐに見返す。
量られるための立ち方を、やめた。
燐の指が、力を分けるように凛の手を握った。
「分からない」
凛は視線を逸らさなかった。
「今の私に、終わらせられるかなんて、分からない」
『それは、解決とは呼ばない』
代理者が、わずかに首を傾げる。
焦点のなかった瞳が、初めて凛の上で結ばれた。白い瞳の中へ、自分の輪郭が映ったような気がした。
「私は何もできていない。逃げたこともあるし、今だって、怖い」
隣で、燐が小さく首を振った。凛は一瞬だけ目を細め、それから言葉を続ける。
「でも、誰かの願いがあって、私はここにいる」
写真の中で笑っていた妹の姿が浮かぶ。
最後まで凛を生かそうとした涼。自分を消してまで、凛へ身体を与えた燐。
凛は、握られた手へ力を返した。
「奪われたことも、怒りも、誰かの願いも、それを抱えたまま生きる苦しさも、全部引き受けて進むことはできる」
代理者は沈黙した。
天秤の鎖が、きい、と小さく鳴る。
『焼かれてもなお、おまえの魂が、ただ喰われるだけのものではないと証明できるか』
どこまでも淡々とした声だった。
それでも凛は、切り捨てられる前に問われたのだと気づいた。
「証明する」
代理者の瞳が、はっきりと凛を捉えた。
「誰かに決められたからじゃない」
凛は燐の手を握ったまま、一歩も引かずに告げる。
「もう、青い炎には何も渡さない」
長い沈黙が落ちた。
白い瞳は凛から外れない。息をすることも忘れ、凛はその答えを待った。
『あなたは、不完全だ』
やがて、代理者は静かに告げた。
『我々は結果を求める。不完全な者は、脅威へ対抗するには足りない』
そこで一度、声が途切れた。
『だが、背を向けないことを、おまえは選び続けると言うのだな』
「――ええ」
凛は大きく頷いた。
『我々の外縁へ立ち続ける者も、必要なのだろう。おまえの強さを認めるのではない』
代理者は一度、白い瞳を閉じた。
『弱さを抱えたまま進む、その欠陥を見届けよう』
時間そのものが引き延ばされたような沈黙のあと、代理者は再び凛を見た。
『あなたを英雄とは認めない。正解を持つ者とも、救済者とも見なさない』
天秤の鎖が、低く鳴る。
『だが、あなたを監視点へ置く』
重く沈んでいた片方の皿が、ゆっくりと持ち上がる。浮いていた凛の皿も、同時にわずかに下がった。
二つの皿は、やがて音もなく高さを揃えた。
『あなたたちの選択を、理へ対抗する証とする』
代理者の視線が、燐へ移る。
『あなたたちの痛みを、脅威へ抗う証とする』
次の瞬間、凛の胸元から光が溢れ出した。
散らばっていた光が一点へ集まり、心臓の上で文字を書くように動いていく。服の下、皮膚の奥へ、焼けるような熱が刻み込まれた。
「う……っ」
凛は胸元を押さえ、呻きを堪えた。
燐が強く手を握る。凛はその心配そうな顔へ、掠れた声で「大丈夫」と返した。
『それは祝福ではない』
代理者は、凛の胸を指した。
『氷月燐と長廻凛の罪業の証。そして、我々によって生かされている証だ』
「証……?」
問い返したときには、代理者の姿は消えていた。
残されたのは、釣り合った天秤と、凛と燐の二人だけだった。
均衡の下で、燐がようやく息を吐く。小さく肩を落とし、掠かな笑いを零した。
「……まさか、代理者まで現れるなんて」
燐は凛を見つめた。
「凛。あなたはやっぱり、弱いだけの人じゃなかった」
「どういうこと?」
「安心して。あなたは、生きていける」
凛は、言葉を返せなかった。
燐の瞳から、少しずつ紫色が失われている。透明な宝石のような輝きは残ったまま、色だけが静かに抜け落ちていった。
「それに、もう目覚めないと」
「……目覚める?」
燐が凛の額へ、自分の額をそっと寄せる。
触れた途端、胸の奥が強く縮んだ。息を吸おうとしても、うまく空気が入らない。
凛は震える喉を動かし、ようやく言葉を引き出した。
「私たち……もう、会えないの?」
燐は静かに首を振り、凛の胸元へ指先で触れた。心臓の上には、刻まれた光がまだ淡く灯っている。
「私は、あなたの中にいる」
燐は笑おうとして、うまくできなかったように顔を歪めた。
「私はあなたで、あなたは私だから」
その不格好な笑みを見た瞬間、凛は、これが最後なのだと分かってしまった。
「背を向けない限り、私も、あなたも、消えないわ」
白い空間が、少しずつほどけていく。
輪郭が溶け、床の冷たさが薄れ、遠くで天秤の音が霞んでいった。
燐の頬を、一筋の涙が伝う。白い肌を滑り落ちた雫が、凛の胸元を静かに濡らした。
「いってらっしゃい」
「……うん」
「凛。あのとき、声をかけてくれて、ありがとう」
「あのとき?」
聞き返すと、燐は「いつか分かるわ」と答え、凛を抱きしめた。
凛も、その背中へ腕を回す。
温かかった。けれど、その感触は少しずつ薄れていった。
やがて燐は身体を離し、凛の肩をそっと後ろへ押した。
それが最後だった。
光が白へ溶けていく。眩しさの中で燐の輪郭は薄れ、紫の瞳だけが最後まで凛を見つめていた。
凛は、立ち尽くさなかった。逃げた自分も、何もできなかった自分も、そのまま抱えていく。
背を向けないために、凛はその先の光へ向かって、一歩を踏み出した。




