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月夜の霞に梟鳴きて――青炎に囚われた者たち――  作者: 藤橋峰妙
第四話「不死 / The Immortality」
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25 置いていかない

 凛は、すぐには動けなかった。


 腕の中には、妹の写真立てがある。抱きしめた腕には力が入らず、離そうとすれば指先が震えた。青い炎が視界の端で低く唸っている。それでも、一歩を踏み出せない。


 ――このまま、ここにいれば。


 時間ごと、この場所へ閉じ込められてしまえば、失ったものを、もう二度と失わずに済むのではないか。


 そんな考えが、胸の奥で形になりかけた。


 青い炎は背丈を越えて巻き上がり、天井を覆い始めた。凛、と呼ぶ声が再び届く。けれど、その響きは次第に遠ざかっていった。


 足元の畳が、ぼろぼろと崩れていく。祭壇も、菊も、白い棺も形を失い、この場所そのものが終わりへ向かっていた。


 その光景を前にして、凛はようやく思い出した。


 ――必ず、助けに戻るから!


 あの日、確かにそう言った。


 炎の向こうで、妹は凛を行かせた。


『お姉ちゃん、行って! 生きて!』


 写真の中の妹は、あの日と同じ笑顔で凛を見ていた。置いていったことを責めもせず、引き止めもせず、ただ笑っている。


 ――行って。生きて。


 青い炎の向こうには、燐がいた。


 凛がゆっくりと顔を上げると、差し出された指先がかすかに揺れていた。炎を隔てていても、タンザナイトのような瞳は少しも曇らず、凛を捉えて離さない。


 最初に、その手を取ったのは凛だった。


 もう一度この手を取れば、きっと二度と、元の場所へは戻れない。


 それでも凛は、一歩を踏み出した。


 手を伸ばし、燐の指先へ触れる。


 ぱちん、と乾いた音が鳴った。


 炎が裏返るように弾け、景色が反転した。


 次の瞬間、凛は白い部屋に立っていた。


 部屋の中央には、少女が一人立っている。中学校の夏服は、凛の記憶に残る最後の姿だった。


 かつてはさほど変わらなかった身長も、今では少し差が開いている。涼は向日葵のように笑い、凛を見上げていた。


「お姉ちゃん、ありがとう」


 声を聞いた瞬間、胸が詰まった。


 妹はこんな声だっただろうかと、ほんの一瞬だけ思った。けれど、風鈴のように軽やかで、その名のとおり涼やかな声は、凛の涙を簡単に引き出した。


「……涼、これは……」

「これはね、幻だよ」


 涼は柔らかく答えた。


「でも、お姉ちゃんが生きる理由になるなら、何度でも言うよ」

「涼……わたしっ」

「今までも、これからも、ずっと――」

「待って。待って、涼!」


 少女は、大輪の花が綻ぶように笑った。


「お姉ちゃん、愛してる。だから、消えないで」


 その姿が、白い光の中へ溶けていく。


 あとに残ったのは、凛が持ち出した小さな写真立てだけだった。その中で、涼はいつもの笑顔を浮かべている。


「涼……」


 ごうううぅ――ん。


 幾重にも重なる重い音が、白い空間を揺らした。


 鐘にもラッパにも似た響きが、胸の奥へ直接触れてくる。床もその振動に合わせて細かく震えていた。


「来た……」


 燐は何かを堪えるように、天秤へ目を向けた。それから凛を見て、祈るように拳を握る。


 遥か高い雲間から、巨大な天秤が鎖で吊られていた。


 片方の皿には、身体を丸めた凛の姿がある。その隣には涼が横たわっていた。二人分の重みを受けた皿が、きしりと音を立てて沈んでいる。


 それでも、反対側の皿はびくともしなかった。


「……っ!」


 低い振動とともに、足元が揺れた。


 視界が傾き、凛は頭を抱えてよろめいた。足元に違和感を覚え、目を向けた瞬間、息を呑む。


 両足が、床と同じ白へ溶け始めていた。


 息を吸おうとしても、空気が肺へ入らない。まるで世界のほうが凛を拒んでいるように、身体の輪郭が内側から削られていく。


 世界にとって、重いか、軽いか。


 残す価値があるか、ないか。


 判決を下されているようだった。


「あっ……!」


 内側から身体を引き裂かれる感覚に、凛は胸元を強く掴んだ。


 心臓のあたりから、服を押し上げるように淡い光が漏れている。この光がすべて失われれば、自分は消える。


 理屈ではなく、そう分かった。


 凛が光を押さえ込むように胸を抱いたとき、燐が真正面へ立った。


 すぐ近くにいる。それでも、触れられそうで触れられないほどの距離が残されていた。


「……私ね、あなたに生きてほしいの」


 天秤の音が、すっと遠ざかる。


 凛の意識は、目の前の燐だけに引き寄せられた。


 青紫の瞳の奥で、何かがゆっくりと渦を巻いている。燃え残った炎のようなものが、記憶の底へ沈んでいた感情を掻き混ぜ、濁った波となって凛へ押し寄せてきた。


 目を逸らそうとしても、逸らせない。


 白い部屋の輪郭が燐の背後へ吸い寄せられ、歪んでいく。世界にはもう、凛と燐しか残されていなかった。


「許せないでしょう」


 燐の声が、頭の内側へ直接響いた。


 温度はなく、氷水を流し込まれたような冷たさだけが、思考の奥へ染み込んでくる。


 足元の感覚が遠のき、身体がふわりと軽くなった。考えようとしたことが掴めない。胸の中にくすぶっていた幾つもの感情が、一つの流れへ押し流されていく。


「何も考えなくていいの。私の言葉だけを聞いて」


 喪失。怒り。奪われたという事実。


 燐が近づくほど、凛の思考は静かに押し倒されていった。紫の瞳に浮かぶ渦が、少しずつ深くなっていく。


 ――これは、駄目だ。


 頭のどこかで、鋭い警鐘が鳴った。


「あなたから何もかも奪って、勝手に燃え続けて、それでも世界は、何事もなかったみたいに回っていく」


 脳裏を、青い炎が過った。


 妹を奪った火。凛の命を奪った火。今もどこかで燃え続けているもの。


「そんな火も、そんな世界も、そんな結末も――」


 燐は凛の胸元へ、そっと手を伸ばした。指先は、あとわずかのところで光へ届かない。


 それでも凛は視線に絡め取られ、その続きを待っていた。


「許せないと、言って」


 燐の声が、さらに低くなった。


「憎んで、燃やして、灰にして。すべてを終わらせるの。あなたの手で」


 冷たい声とは裏腹に、燐の唇はわずかに震えていた。


「憎んで、憎んで、あの青い炎よりも強い炎になるの」


 燐の腕が、凛の首へ回る。


「私の記憶も、憎しみも、生きてきた理由も、あなたに焼きつける。絶対に忘れられないように。それが、あなたの存在理由になるように」


 額と額が触れた。


 知らないはずの記憶と感情が、最初から自分の中にあったもののように流れ込んでくる。


 青い炎。憎しみ。失った者たち。終わらせなければならないという、強迫に似た衝動。


 その奔流に焼かれながら、凛は気づいた。


 これは、燐のすべてだ。


 流れ込んでくる記憶も、怒りも、悲しみも。そして、それらを渡すたび、燐の存在そのものが削られている。


 タンザナイトの瞳から、少しずつ色が失われていた。


「……ま、待って」


 凛は、かすかな声を絞り出した。


 天秤がきしりと鳴り、凛の皿が、わずかに釣り合いへ近づく。


 燐の言葉には、人の思考を一定の方向へ導く力があった。憎しみを受け入れれば、凛はここへ残れるのかもしれない。


「あなたは消えない。この世界から、消させない」


 燐の頬を、一筋の涙が伝った。


 凛はゆっくりと手を伸ばし、その頬へ触れた。


「……燐」


 喉へ引っかかったものを押し出し、ようやく出た声は細く震えていた。


「それじゃあ、私は、あなたに選ばされたままだよ」


 胸の奥で、まだ淡く灯る光へ意識を向ける。


 流れ込んできた怒りも、憎しみも、使命感も、確かにそこにあった。どれも強く、厳しく、正しいもののように思えた。


 与えられた理由を背負えば、世界に存在を許されるのかもしれない。


 ――でも。


 それは、本当に凛の生きる理由なのだろうか。


 凛は首を振り、両手で燐の頬を包んだ。


 指先が触れると、燐の身体が強張る。色を失いかけていた瞳が、大きく見開かれた。薄れかけてもなお、宝石のような紫は凛を映している。


「約束する。私が、青い炎を止める」


 凛は言葉を探すように、一度大きく息を吸った。


「あなたに出会って、初めて知った。あの炎が魔法だったことも、涼が死んだ理由も」


 燐は何も言わず、凛を見つめている。


「許せないって思った。どうして私たちが、どうして涼が死ななきゃいけなかったのって」


 声は震えていた。それでも凛は、視線を逸らさなかった。


「もう、知らなかったふりはできない。憎しみも、怒りもある。あなたの思いも、もう私の中にある」

「……凛」


 燐の顔が、今にも壊れそうに歪んだ。


「ごめん……ごめんなさい」

「大丈夫だよ」

「あなたを巻き込んだ。私が……全部……」

「ううん」


 凛は静かに首を振った。


「涼を失って、あなたに生かされた。私は、二人に助けられた」


 少し間を置き、自分の胸にある言葉を確かめてから続ける。


「だから、もう見て見ぬふりはしない。私が、あの炎をどうにかしたい。あなたに言われたからじゃない。私が、そうすると決めるの」


 凛は自分から、燐の額へそっと額を重ねた。


「燐。もうこれ以上、自分を犠牲にしないで」


 燐はしばらく、何も言わなかった。


 凛の手へ自分の手を重ね、喉の奥で呼吸を整えている。やがて耐えきれなくなったように、小さく笑った。


 それは、凛が初めて見る顔だった。


 冷酷な魔法使いでも、捜査官でも、神でも、化け物でもない。


 傷つきながら、それでも誰かを救おうとしている、一人の人間の顔だった。


「これは、涼とあなたに生かされた私が、選ぶことなの」


 重なっていた天秤の音が、遠くで静かに鳴り止んでいく。


「私は生きて、あの炎に立ち向かう」


 誰かの代わりではなく、逃げるためでもない。


「涼も、あなたも、置いていかない」


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