25 置いていかない
凛は、すぐには動けなかった。
腕の中には、妹の写真立てがある。抱きしめた腕には力が入らず、離そうとすれば指先が震えた。青い炎が視界の端で低く唸っている。それでも、一歩を踏み出せない。
――このまま、ここにいれば。
時間ごと、この場所へ閉じ込められてしまえば、失ったものを、もう二度と失わずに済むのではないか。
そんな考えが、胸の奥で形になりかけた。
青い炎は背丈を越えて巻き上がり、天井を覆い始めた。凛、と呼ぶ声が再び届く。けれど、その響きは次第に遠ざかっていった。
足元の畳が、ぼろぼろと崩れていく。祭壇も、菊も、白い棺も形を失い、この場所そのものが終わりへ向かっていた。
その光景を前にして、凛はようやく思い出した。
――必ず、助けに戻るから!
あの日、確かにそう言った。
炎の向こうで、妹は凛を行かせた。
『お姉ちゃん、行って! 生きて!』
写真の中の妹は、あの日と同じ笑顔で凛を見ていた。置いていったことを責めもせず、引き止めもせず、ただ笑っている。
――行って。生きて。
青い炎の向こうには、燐がいた。
凛がゆっくりと顔を上げると、差し出された指先がかすかに揺れていた。炎を隔てていても、タンザナイトのような瞳は少しも曇らず、凛を捉えて離さない。
最初に、その手を取ったのは凛だった。
もう一度この手を取れば、きっと二度と、元の場所へは戻れない。
それでも凛は、一歩を踏み出した。
手を伸ばし、燐の指先へ触れる。
ぱちん、と乾いた音が鳴った。
炎が裏返るように弾け、景色が反転した。
次の瞬間、凛は白い部屋に立っていた。
部屋の中央には、少女が一人立っている。中学校の夏服は、凛の記憶に残る最後の姿だった。
かつてはさほど変わらなかった身長も、今では少し差が開いている。涼は向日葵のように笑い、凛を見上げていた。
「お姉ちゃん、ありがとう」
声を聞いた瞬間、胸が詰まった。
妹はこんな声だっただろうかと、ほんの一瞬だけ思った。けれど、風鈴のように軽やかで、その名のとおり涼やかな声は、凛の涙を簡単に引き出した。
「……涼、これは……」
「これはね、幻だよ」
涼は柔らかく答えた。
「でも、お姉ちゃんが生きる理由になるなら、何度でも言うよ」
「涼……わたしっ」
「今までも、これからも、ずっと――」
「待って。待って、涼!」
少女は、大輪の花が綻ぶように笑った。
「お姉ちゃん、愛してる。だから、消えないで」
その姿が、白い光の中へ溶けていく。
あとに残ったのは、凛が持ち出した小さな写真立てだけだった。その中で、涼はいつもの笑顔を浮かべている。
「涼……」
ごうううぅ――ん。
幾重にも重なる重い音が、白い空間を揺らした。
鐘にもラッパにも似た響きが、胸の奥へ直接触れてくる。床もその振動に合わせて細かく震えていた。
「来た……」
燐は何かを堪えるように、天秤へ目を向けた。それから凛を見て、祈るように拳を握る。
遥か高い雲間から、巨大な天秤が鎖で吊られていた。
片方の皿には、身体を丸めた凛の姿がある。その隣には涼が横たわっていた。二人分の重みを受けた皿が、きしりと音を立てて沈んでいる。
それでも、反対側の皿はびくともしなかった。
「……っ!」
低い振動とともに、足元が揺れた。
視界が傾き、凛は頭を抱えてよろめいた。足元に違和感を覚え、目を向けた瞬間、息を呑む。
両足が、床と同じ白へ溶け始めていた。
息を吸おうとしても、空気が肺へ入らない。まるで世界のほうが凛を拒んでいるように、身体の輪郭が内側から削られていく。
世界にとって、重いか、軽いか。
残す価値があるか、ないか。
判決を下されているようだった。
「あっ……!」
内側から身体を引き裂かれる感覚に、凛は胸元を強く掴んだ。
心臓のあたりから、服を押し上げるように淡い光が漏れている。この光がすべて失われれば、自分は消える。
理屈ではなく、そう分かった。
凛が光を押さえ込むように胸を抱いたとき、燐が真正面へ立った。
すぐ近くにいる。それでも、触れられそうで触れられないほどの距離が残されていた。
「……私ね、あなたに生きてほしいの」
天秤の音が、すっと遠ざかる。
凛の意識は、目の前の燐だけに引き寄せられた。
青紫の瞳の奥で、何かがゆっくりと渦を巻いている。燃え残った炎のようなものが、記憶の底へ沈んでいた感情を掻き混ぜ、濁った波となって凛へ押し寄せてきた。
目を逸らそうとしても、逸らせない。
白い部屋の輪郭が燐の背後へ吸い寄せられ、歪んでいく。世界にはもう、凛と燐しか残されていなかった。
「許せないでしょう」
燐の声が、頭の内側へ直接響いた。
温度はなく、氷水を流し込まれたような冷たさだけが、思考の奥へ染み込んでくる。
足元の感覚が遠のき、身体がふわりと軽くなった。考えようとしたことが掴めない。胸の中にくすぶっていた幾つもの感情が、一つの流れへ押し流されていく。
「何も考えなくていいの。私の言葉だけを聞いて」
喪失。怒り。奪われたという事実。
燐が近づくほど、凛の思考は静かに押し倒されていった。紫の瞳に浮かぶ渦が、少しずつ深くなっていく。
――これは、駄目だ。
頭のどこかで、鋭い警鐘が鳴った。
「あなたから何もかも奪って、勝手に燃え続けて、それでも世界は、何事もなかったみたいに回っていく」
脳裏を、青い炎が過った。
妹を奪った火。凛の命を奪った火。今もどこかで燃え続けているもの。
「そんな火も、そんな世界も、そんな結末も――」
燐は凛の胸元へ、そっと手を伸ばした。指先は、あとわずかのところで光へ届かない。
それでも凛は視線に絡め取られ、その続きを待っていた。
「許せないと、言って」
燐の声が、さらに低くなった。
「憎んで、燃やして、灰にして。すべてを終わらせるの。あなたの手で」
冷たい声とは裏腹に、燐の唇はわずかに震えていた。
「憎んで、憎んで、あの青い炎よりも強い炎になるの」
燐の腕が、凛の首へ回る。
「私の記憶も、憎しみも、生きてきた理由も、あなたに焼きつける。絶対に忘れられないように。それが、あなたの存在理由になるように」
額と額が触れた。
知らないはずの記憶と感情が、最初から自分の中にあったもののように流れ込んでくる。
青い炎。憎しみ。失った者たち。終わらせなければならないという、強迫に似た衝動。
その奔流に焼かれながら、凛は気づいた。
これは、燐のすべてだ。
流れ込んでくる記憶も、怒りも、悲しみも。そして、それらを渡すたび、燐の存在そのものが削られている。
タンザナイトの瞳から、少しずつ色が失われていた。
「……ま、待って」
凛は、かすかな声を絞り出した。
天秤がきしりと鳴り、凛の皿が、わずかに釣り合いへ近づく。
燐の言葉には、人の思考を一定の方向へ導く力があった。憎しみを受け入れれば、凛はここへ残れるのかもしれない。
「あなたは消えない。この世界から、消させない」
燐の頬を、一筋の涙が伝った。
凛はゆっくりと手を伸ばし、その頬へ触れた。
「……燐」
喉へ引っかかったものを押し出し、ようやく出た声は細く震えていた。
「それじゃあ、私は、あなたに選ばされたままだよ」
胸の奥で、まだ淡く灯る光へ意識を向ける。
流れ込んできた怒りも、憎しみも、使命感も、確かにそこにあった。どれも強く、厳しく、正しいもののように思えた。
与えられた理由を背負えば、世界に存在を許されるのかもしれない。
――でも。
それは、本当に凛の生きる理由なのだろうか。
凛は首を振り、両手で燐の頬を包んだ。
指先が触れると、燐の身体が強張る。色を失いかけていた瞳が、大きく見開かれた。薄れかけてもなお、宝石のような紫は凛を映している。
「約束する。私が、青い炎を止める」
凛は言葉を探すように、一度大きく息を吸った。
「あなたに出会って、初めて知った。あの炎が魔法だったことも、涼が死んだ理由も」
燐は何も言わず、凛を見つめている。
「許せないって思った。どうして私たちが、どうして涼が死ななきゃいけなかったのって」
声は震えていた。それでも凛は、視線を逸らさなかった。
「もう、知らなかったふりはできない。憎しみも、怒りもある。あなたの思いも、もう私の中にある」
「……凛」
燐の顔が、今にも壊れそうに歪んだ。
「ごめん……ごめんなさい」
「大丈夫だよ」
「あなたを巻き込んだ。私が……全部……」
「ううん」
凛は静かに首を振った。
「涼を失って、あなたに生かされた。私は、二人に助けられた」
少し間を置き、自分の胸にある言葉を確かめてから続ける。
「だから、もう見て見ぬふりはしない。私が、あの炎をどうにかしたい。あなたに言われたからじゃない。私が、そうすると決めるの」
凛は自分から、燐の額へそっと額を重ねた。
「燐。もうこれ以上、自分を犠牲にしないで」
燐はしばらく、何も言わなかった。
凛の手へ自分の手を重ね、喉の奥で呼吸を整えている。やがて耐えきれなくなったように、小さく笑った。
それは、凛が初めて見る顔だった。
冷酷な魔法使いでも、捜査官でも、神でも、化け物でもない。
傷つきながら、それでも誰かを救おうとしている、一人の人間の顔だった。
「これは、涼とあなたに生かされた私が、選ぶことなの」
重なっていた天秤の音が、遠くで静かに鳴り止んでいく。
「私は生きて、あの炎に立ち向かう」
誰かの代わりではなく、逃げるためでもない。
「涼も、あなたも、置いていかない」




