24 終わらせることを許さない
言葉の輪郭が、白い空間へゆっくりと溶けていく。すぐそばで囁かれているはずの声が、ずっと遠くの天井に反響しているみたいに聞こえた。
次の瞬間、強い風が二人のまわりをさらう。
白一色だった部屋は、壁紙を剥がすように端からめくれ上がり、その奥から別の景色が滲み出してきた。白は引き伸ばされ、淡い影が差し込み、いくつもの色が水に落ちた絵の具みたいに広がっていく。天井も壁も床も、その境目をなくしたまま凛の背後へ流れていった。
凛は思わず目を固く閉じる。
風が止んだとき、最初に戻ってきたのは匂いだった。
線香の煙。湿った畳。懐かしいのに、胸の奥の柔らかいところを針で刺されるみたいな苦さがある。足裏に確かな感触があった。少しだけ柔らかく、わずかに凹凸のある畳の感触。
遠くで鈴の音が鳴っている。
凛は、はっと目を開いた。
そこは、さっきまでいた白い部屋ではなかった。
目の前には黒い幕と、白い菊。低く垂れた天井の下に、整然と並ぶ座布団。静まり返った空気の中で、少人数の気配だけが重く沈んでいる。
凛の身体は、硬直したみたいに動かなかった。けれどもここがどこなのか理解するまでには時間がかからなかった。
記憶が勝手に呼び起こされ、その場の形を作ってしまったからだ。深く刻まれた光景は、もう一度息を吸うよりも早く蘇る。畳の縁を踏まないよう整えられた座布団。正座した黒い背中が規則正しく並び、そのあいだを縫うように線香の煙が細く立ちのぼっていた。
「……ここ、は……」
声にしようとしても、喉の奥で引っかかる。言葉になる前に、背後からそっと手が添えられた。氷月燐だった。
「あなたが、最初に戻りたいと願った場所よ。前を、見て」
静かな声に導かれ、凛は祭壇を見た。中央に置かれた遺影は、なぜか輪郭が曖昧だった。そこに誰が写っているのか分かっているはずなのに、どうしても焦点が合わない。目元だけが、黒い線で塗り潰されたみたいに隠されている。
「あ……」
誰なのか、知らないはずがない。分からないはずがない。それなのに写真へ伸ばした指先はかすかに震えていた。
「……わたしの、大切な……」
名前も、顔も、なぜか思い出せない。それなのに、どうしようもなく失いたくない存在だったという感情だけが、先に胸の中で形を持つ。
「あなたの妹の葬式よ」
その言葉が落ちた瞬間、目の奥がじわりと熱を持った。視界が揺らいで、気づくより少し遅れて、自分が泣いていることを知る。涙は音もなく頬を伝い、拭うこともできないまま落ちていった。
祭壇の脇に、見覚えのある背中があった。
小柄で、それでも悲壮に潰されることなくまっすぐ背を伸ばした女性。黒髪に白いものが混じった頭髪。凛の祖母だった。
黒い喪服に身を包み、数珠をきつく握っている。その手は細く、深い皺が刻まれている。その隣の座布団には、高校の制服を着た少女が座っていた。
「あれは……」
凛は一歩、思わず前へ出た。
近づいても、その少女は気づかない。丸めた背中は小さく、太腿の上に置かれた両手は拳を強く握ったまま、ほどけない。爪が食い込んでいるのが分かるほど力が入っていた。
俯いた顔は、誰とも視線を交わそうとしていない。泣いているのかどうかも分からないその少女は、喪服に身を包んだ――凛自身だった。
ふと、目の前の自分が顔を上げる。
重たいものを引きずり上げるように、ゆっくりと。視線はまっすぐ祭壇へ向かっているのに、その焦点はどこにも合っていなかった。何を見ればいいのか分からないまま、ただ前だけを向いている目。その目を見た瞬間、凛の胸の奥がざわりと揺れた。
――ああ。
思い出す。
泣くこともできなかった。
怒ることも、縋ることもできなかった。
あの時、凛自身が「悲しむ自分」を拒んでいたのだ。
動いたら壊れてしまう気がした。声を出したら、もう戻れなくなる気がした。だから、ただ座っていただけだった。背中を丸め、拳を握り、あの時間が過ぎていくのをただ待っていた。目の前の自分自身と視線が合うことはない。それでも、その目に沈んでいる感情だけは、痛いほど分かる。
それは悲しみだけではなかった。泣くことを拒んだまま、底に沈殿してしまったもの。
終わらせることを許さない、悲しみと憎悪だった。
凛は自分の胸元の服をぎゅっと握る。自分自身の感情を突きつけられ、その視線の先を追って、祭壇へ目を向けた。
その時だった。
祭壇を飾る白菊が、風もないのに震え始め、花弁の先がふっと色を変えた。
白が青へと滲む。凛が息を呑むよりも早く炎が走った。爆ぜる音もなく、煙も上がらない。ただ、冷たいほど静かな青い炎だけが、祭壇を舐めるように広がっていく。
「……っ」
参列者は誰一人動かなかった。燃えていることにすら、気づいていない。葬式はそのまま進み続けている。祭壇を見ている過去の凛自身でさえ、青い炎を見つめたまま、動こうとしない。
「……やめ……やめて!」
炎が棺へ燃え移った。白木の表面を静かに舐め、じわじわと周囲へ広がっていく。
それを見た瞬間、凛は走り出していた。座布団を踏み越え、畳を蹴って、お経を読み続けている住職の前へ飛び出し炎の前に立っていた。
熱さは感じなかった。なのに怖かった。その炎の中で、凛は必死に遺影へ手を伸ばし、写真を胸へ抱きしめる。
――大切なもの。
――私の唯一の、私の……!
その時、凛ははっきりと思い出した。
「涼……!」
葬式の会場は、青い炎に包まれていた。
凛は写真を胸へ抱え込み、それを守るように背中を丸めた。祭壇も、菊も、白い棺も、過去の自分さえも、炎に呑まれるみたいに消えていく。写真が指の中で震えたような気がして、凛はおそるおそる胸から離した遺影を見た。
「いつも、笑ってた……!」
そこに写る妹は、向日葵みたいに明るい笑顔をしていた。
そうだ。いつだってこの笑顔で、凛を見上げていた。胸に開いた穴を埋めようとするみたいに、その懐かしさが一気に込み上げる。
――助けられなかった。
――逃げたのは、私だ。
膝が崩れ、凛は畳に燃え広がる炎の中へ倒れ込んだ。
「凛!」
声がした。
顔を上げると、巻き上がる青い炎の向こうから、燐が手を伸ばしていた。




