23 あの炎を憎まずにはいられない
「う、ぐっ! ――えっ?」
鼓膜がひりつくように震え、世界のあらゆる感覚が一斉に遠ざかっていった。足場ごと崩れ落ちるように、音も光も、自分の身体の輪郭さえも、内側から抜け落ちていく。
熱い。苦しい。喉の奥が焦げつき、押し出された叫びは掠れて言葉にならなかった。身体の内側で何かが燃え、背骨を一本ずつ金槌で打ち砕かれるような痛みが、頭頂から尾骶骨まで一気に走り抜ける。
「あ、あ……あぅっ、あああああっ!」
「凛!」
凛は両手で頭を抱え、叫んだ。
身体が激しく跳ねて仰け反り、痛みから逃れようとするように左右へとのたうつ。宙を彷徨った腕へ誰かの手が重なり、強く、確かな力で掴まれた。
その感触に縋った途端、激しく明滅していた視界が、わずかに落ち着いた。
白く霞んだ世界の向こうに、巨大な金の柱が見える。柱の左右から鎖が伸び、それぞれに円形の皿を吊り下げていた。
右側の皿には、何も見えない。
けれど、そこに何かが載っていることだけは分かった。
風もないのに空気が押し潰され、皿が重たげに揺れている。目に見えず、触れることもできない何かが、天秤の片側へ圧倒的な重みを与えていた。
時間も、記憶も、生も死も、何もかもを呑み込んでしまいそうな重さだった。
その反対側の皿には、人影が一つ、身体を丸めていた。
あまりに小さな人影だった。右側の重みには到底釣り合わず、皿ごと軽々と上へ持ち上げられている。
――自分だ。
長廻凛。その魂そのものだった。
「――あ」
胸の奥が引き裂かれるように痛んだ。
けれど、それ以上に恐ろしかったのは、自分という存在の重さが、少しずつ失われていく感覚だった。
皿が上へ昇るたびに、頭が白くぼやけていく。名前が滲み、顔も、声も、自分が何をして生きてきたのかも、輪郭を失っていった。
「……わたし、どうして……。ねえ、わたし……誰、だった……?」
「聞いて、凛!」
燐は凛の頭を包み込むように抱き寄せた。壊れ物を支えるように優しい腕だったが、その声だけは鋭く、はっきりと届いた。
「忘れないで。あなたは凛よ。この世界に一人しかいない、長廻凛よ」
燐は一瞬、何かを続けようとして口を閉ざした。それから凛の手を強く握る。
天秤が、きしりと低い音を立てた。
ほんのわずかに、凛の載った皿が下がった。
「思い出して。忘れないで。自分が誰だったのか、考え続けるの!」
燐の声が強くなる。
「あの天秤は、魔法によって変えられたものと、その代償を量っている。あなたは本来、あの火事で死んでいた。それなのに、私の身体へ魂を移し、もう一度生きようと願った」
「……あ、い、いや……。どうして、なんで……? 帰りたい。私、もう帰りたい……っ」
凛は泣きながら、子どものように何度も頭を振った。動くたびに、自分の中身が白く削り取られていくようだった。
燐はその身体を、さらに強く抱きしめる。
「帰りたいのよね。ごめんなさい。でも、もう以前のあなたとして、元の場所へ戻ることはできない」
凛の肩が、びくりと跳ねた。
「それ以上、帰りたいと願っては駄目。あなたの魂は、元の身体へ戻ろうとしている。でも、戻るべき身体はもう失われているの。願いが続けば、魂は行き先をなくして、消えてしまう」
「そんな……」
「世界の流れを変え、生き直すためには、それに釣り合うだけの意味が必要になる。けれど、今のあなたは名前も、記憶も、自分が生きる理由さえ失いかけている」
燐はまっすぐ凛を見つめた。
見覚えのある瞳だった。こんなふうに見つめられたいと思ったことがある。この美しい瞳へ、自分を映してほしいと願ったことがある。
「だから、あなたに重さを取り戻してほしい」
燐が天秤を見上げる。白く霞んだ空の中で、金の柱がわずかに揺らぎ、天秤の動きがひととき止まった。
「あなたには、青い炎を追う理由がある。あの炎は、この世界の理から外れた魔法よ。人を殺し、魂を傷つけ、それでも誰にも止められていない」
「あ……あお……」
「あなたは、あの炎に抗うことができる。あなたが生きることで、あの魔法に殺されるはずだった誰かが救われるかもしれない」
凛には、燐の言葉をすべて理解することはできなかった。ただ、その青紫の瞳だけに視線を縫い留められ、逸らせずにいた。
同じ色のはずなのに、燐の瞳はどこまでも澄み、美しく見えた。
「思い出して。あなたが守りたかったものを。あなたが生きたいと思った理由を」
燐の声は静かだった。静かなのに、凛の中へ深く届いた。
「あなたが、あの炎から守れなかった人を。もう二度と、同じものに奪われたくないと願ったことを」
凛の載った皿へ、一つの影が落ちた。
白い花を抱き、目を閉じた少女だった。
火の中で凛の名を呼び、最後まで笑おうとしていた、愛しい存在。
凛の目から、自然と涙が溢れた。痛みのせいなのか、悲しみのせいなのか、自分でも分からなかった。
「……あ……あの子……。あれ……」
名前が出てこない。
何よりも大切だった名前。絶対に忘れてはいけなかったものなのに、思い出そうとすると、そこだけぽっかりと空白になる。
燐は、泣き出しそうな凛を見つめ、決意を滲ませた笑みを浮かべた。
「まだ間に合うわ」
凛の身体を、ゆっくりと抱き上げる。
「思い出しに行きましょう。あなたが守りたかった人を。あなたが生きてきた時間を。全部、あなたの重さになる」
ふいに、鼻先を線香の匂いが掠めた。
忘れてはいけない、始まりの痛み。
凛が凛であるために、手放してはならない記憶だった。
「大丈夫、凛」
燐は凛を抱きしめたまま、静かに言った。
「今度は私が、必ずあなたを守るから」




