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月夜の霞に梟鳴きて――青炎に囚われた者たち――  作者: 藤橋峰妙
第四話「不死 / The Immortality」
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23 あの炎を憎まずにはいられない

「う、ぐっ! ――えっ?」


 鼓膜がひりつくように震え、世界のあらゆる感覚が一斉に遠ざかっていった。足場ごと崩れ落ちるように、音も光も、自分の身体の輪郭さえも、内側から抜け落ちていく。


 熱い。苦しい。喉の奥が焦げつき、押し出された叫びは掠れて言葉にならなかった。身体の内側で何かが燃え、背骨を一本ずつ金槌で打ち砕かれるような痛みが、頭頂から尾骶骨まで一気に走り抜ける。


「あ、あ……あぅっ、あああああっ!」

「凛!」


 凛は両手で頭を抱え、叫んだ。


 身体が激しく跳ねて仰け反り、痛みから逃れようとするように左右へとのたうつ。宙を彷徨った腕へ誰かの手が重なり、強く、確かな力で掴まれた。


 その感触に縋った途端、激しく明滅していた視界が、わずかに落ち着いた。


 白く霞んだ世界の向こうに、巨大な金の柱が見える。柱の左右から鎖が伸び、それぞれに円形の皿を吊り下げていた。


 右側の皿には、何も見えない。


 けれど、そこに何かが載っていることだけは分かった。


 風もないのに空気が押し潰され、皿が重たげに揺れている。目に見えず、触れることもできない何かが、天秤の片側へ圧倒的な重みを与えていた。


 時間も、記憶も、生も死も、何もかもを呑み込んでしまいそうな重さだった。


 その反対側の皿には、人影が一つ、身体を丸めていた。


 あまりに小さな人影だった。右側の重みには到底釣り合わず、皿ごと軽々と上へ持ち上げられている。


 ――自分だ。


 長廻凛。その魂そのものだった。


「――あ」


 胸の奥が引き裂かれるように痛んだ。


 けれど、それ以上に恐ろしかったのは、自分という存在の重さが、少しずつ失われていく感覚だった。


 皿が上へ昇るたびに、頭が白くぼやけていく。名前が滲み、顔も、声も、自分が何をして生きてきたのかも、輪郭を失っていった。


「……わたし、どうして……。ねえ、わたし……誰、だった……?」

「聞いて、凛!」


 燐は凛の頭を包み込むように抱き寄せた。壊れ物を支えるように優しい腕だったが、その声だけは鋭く、はっきりと届いた。


「忘れないで。あなたは凛よ。この世界に一人しかいない、長廻凛よ」


 燐は一瞬、何かを続けようとして口を閉ざした。それから凛の手を強く握る。


 天秤が、きしりと低い音を立てた。


 ほんのわずかに、凛の載った皿が下がった。


「思い出して。忘れないで。自分が誰だったのか、考え続けるの!」


 燐の声が強くなる。


「あの天秤は、魔法によって変えられたものと、その代償を量っている。あなたは本来、あの火事で死んでいた。それなのに、私の身体へ魂を移し、もう一度生きようと願った」

「……あ、い、いや……。どうして、なんで……? 帰りたい。私、もう帰りたい……っ」


 凛は泣きながら、子どものように何度も頭を振った。動くたびに、自分の中身が白く削り取られていくようだった。


 燐はその身体を、さらに強く抱きしめる。


「帰りたいのよね。ごめんなさい。でも、もう以前のあなたとして、元の場所へ戻ることはできない」


 凛の肩が、びくりと跳ねた。


「それ以上、帰りたいと願っては駄目。あなたの魂は、元の身体へ戻ろうとしている。でも、戻るべき身体はもう失われているの。願いが続けば、魂は行き先をなくして、消えてしまう」

「そんな……」

「世界の流れを変え、生き直すためには、それに釣り合うだけの意味が必要になる。けれど、今のあなたは名前も、記憶も、自分が生きる理由さえ失いかけている」


 燐はまっすぐ凛を見つめた。


 見覚えのある瞳だった。こんなふうに見つめられたいと思ったことがある。この美しい瞳へ、自分を映してほしいと願ったことがある。


「だから、あなたに重さを取り戻してほしい」


 燐が天秤を見上げる。白く霞んだ空の中で、金の柱がわずかに揺らぎ、天秤の動きがひととき止まった。


「あなたには、青い炎を追う理由がある。あの炎は、この世界の理から外れた魔法よ。人を殺し、魂を傷つけ、それでも誰にも止められていない」

「あ……あお……」

「あなたは、あの炎に抗うことができる。あなたが生きることで、あの魔法に殺されるはずだった誰かが救われるかもしれない」


 凛には、燐の言葉をすべて理解することはできなかった。ただ、その青紫の瞳だけに視線を縫い留められ、逸らせずにいた。


 同じ色のはずなのに、燐の瞳はどこまでも澄み、美しく見えた。


「思い出して。あなたが守りたかったものを。あなたが生きたいと思った理由を」


 燐の声は静かだった。静かなのに、凛の中へ深く届いた。


「あなたが、あの炎から守れなかった人を。もう二度と、同じものに奪われたくないと願ったことを」


 凛の載った皿へ、一つの影が落ちた。


 白い花を抱き、目を閉じた少女だった。


 火の中で凛の名を呼び、最後まで笑おうとしていた、愛しい存在。


 凛の目から、自然と涙が溢れた。痛みのせいなのか、悲しみのせいなのか、自分でも分からなかった。


「……あ……あの子……。あれ……」


 名前が出てこない。


 何よりも大切だった名前。絶対に忘れてはいけなかったものなのに、思い出そうとすると、そこだけぽっかりと空白になる。


 燐は、泣き出しそうな凛を見つめ、決意を滲ませた笑みを浮かべた。


「まだ間に合うわ」


 凛の身体を、ゆっくりと抱き上げる。


「思い出しに行きましょう。あなたが守りたかった人を。あなたが生きてきた時間を。全部、あなたの重さになる」


 ふいに、鼻先を線香の匂いが掠めた。


 忘れてはいけない、始まりの痛み。


 凛が凛であるために、手放してはならない記憶だった。


「大丈夫、凛」


 燐は凛を抱きしめたまま、静かに言った。


「今度は私が、必ずあなたを守るから」

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