22 理の天秤
瞼の裏を、白い光が照らした。凛は反射的に目を閉じ、何度かぎこちなく瞬きを繰り返してから、恐る恐る瞼を持ち上げた。
すぐ頭上に、自分と同じ顔があった。
――氷月燐。
重たかった意識が少しずつ浮上し、凛はようやく自分の置かれた状況を理解し始めた。床へ倒れている。その上半身を、隣へ膝をついた燐が抱き起こすように支えていた。
「ひづき、りん……?」
掠れた声が、喉の奥から漏れた。
「うん。驚いた?」
燐は眉尻をわずかに下げ、くすりと笑った。
「私も驚いているの。また会えるとは思っていなかったから」
「え……なんで……?」
「疑問はたくさんあるわよね。でも、その前に呼び方を決めておかないと」
燐は笑みを消し、凛の顔をまっすぐに見つめた。
「あなたのことは、凛と呼ぶわ。今のあなたは、存在そのものが消えかけているから」
「は――ええ?」
情けない声が出た。
頭はまだ鈍く、言葉の意味をすぐには理解できない。燐は穏やかな顔をしていたが、その瞳の奥には、隠しきれない焦りが滲んでいた。
やがて燐は一度だけ視線を逸らし、何かを睨みつけるように顔を上げた。
つられるように、凛もそちらを見る。
そこは、どこまでも白い場所だった。
雪景色よりも無機質で、世界そのものが白く塗り潰されたように見える。凛はすぐに気づいた。ここは、初めて燐と話をした場所だ。
けれど、以前とは違っていた。
天井と呼べる境界は白い霞へ溶け、その中心には、光を帯びた巨大な金の柱が一本、雲の向こうまで伸びている。柱の左右からは対になった鎖が垂れ下がり、その先に円形の皿が吊るされていた。
人が何人も乗れそうなほど大きな皿だった。縁には繊細な金の意匠が施され、白い光を静かに弾いている。
「何、あれ……」
呆然と呟くと、燐が低い声で答えた。
「天秤よ。あれは、『理の天秤』」
「こと、わり……?」
「世界の均衡を保つもの。魔法によって本来あるべき流れが大きく変えられたとき、それに見合う代償を決めるために現れるの」
燐の腕に、わずかに力が入った。
「あなたは、天秤を動かしてしまった」
「わたしが? ま、魔法なんて使ってない……!」
自分が何をしたのかさえ、はっきりと思い出せなかった。ただ、不安だけが胸の上へ重く積もっていく。
「あなたが意図したかどうかは関係ないの。願いに魔法が応えた。その結果、禁忌に触れるほど大きく理を歪めてしまった」
「禁忌って……。待って、何のこと? どういうことなの?」
燐の声が、わずかに掠れた。凛を抱き支える腕は優しかったが、その指先は震えている。
「凛、思い出して。意識を失う直前に、何があったのか教えて」
「意識を失う、前……」
凛は途切れ途切れに話し始めた。
燐の身体で目を覚ましたこと。東雲と出会ったこと。人形師と戦ったこと。死霊に噛まれたこと。
怖かった。痛かった。もう何もかも分からなくなって、ただ帰りたいと願った。
「それで……青い炎を探さなきゃって思って。だけど、私には無理だって……」
意識を失う直前、視界を満たしたものを思い出す。
床に広がった青白い線。身体を包んだ冷たい光。
「も、もしかして、あれが魔法だったの? でも私、何も唱えてない」
燐は白磁のような手で、自分の顔を覆った。
「ああ……」
その声には、はっきりと後悔が滲んでいた。
「私が使った術式が、身体の中に残っていたのね。あなたの願いに反応して、勝手に発動した」
指の隙間から、細い吐息が漏れる。
「ごめんなさい。本当に……私のせいだわ」
「じゃあ、私は今、どうなってるの? どうしてあなたがここにいるの? あなたは、もう死んだんじゃ……」
燐は手を下ろし、一度静かに目を伏せた。それから、もう一度凛を見つめる。
「私は、身体の中に残っていた最後の意識よ。魂と呼べるほど完全なものではない。ただの残滓みたいなものね」
「ざんし……」
「本来なら、すぐに消えるはずだった。でも、あなたの魂が弱って、身体との結びつきが揺らいだから、こうして表へ出てくることができた」
「私の魂が、弱ってる……?」
「ええ。このままだと、あなたは氷月燐という器に呑み込まれる。名前も、記憶も、凛として生きたことも、すべて失うわ」
凛は言葉を失った。
「じゃあ、あなたは……もうすぐ消えちゃうの?」
「ええ」
燐は、目を伏せたまま頷いた。
「私も残っていられるとは思っていなかった。でも、こうしてあなたと話せたのは幸運だったわ」
「幸運って……。こんな状態なのに?」
そのときだった。
ごうううぅ――ん、と、空間全体を震わせる低い音が響いた。
始まりを告げるラッパにも、遠くで鳴る鐘にも似ていた。けれど、あまりに低く平坦で、人の手によって鳴らされた音には思えない。
雲の切れ間から降り注ぐ光が強まり、巨大な天秤の鎖が、わずかに震えた。
凛は何も分からないまま、その音を耳で追った。
広大な空間の果てまで届いていくように、重い響きがいつまでも残っている。燐も天秤を見上げていた。
抱き支えられたままの凛からは、その表情までは見えない。ただ、自分を支えている燐の指へ、ぐっと強い力が込められたことだけが分かった。
次の瞬間、焼けるような痛みが走った。
赤熱した針が、胸の奥を貫いた。




