21 思い出したものは
第四話【不死 / The Immortality】
思い出したものは、鮮烈な青だった。
目を灼くほど澄みきった炎が、闇の中で火の粉を巻き上げている。頭から足先まで感覚を失った身体は、倒壊した柱の下敷きになっていた。立ち込める黒煙に息を継ぐ暇もなく、指先一つ動かすことができない。
炎は生き物のように荒れ狂い、美しいアンティーク調の部屋を蹂躙していた。ばちん、と頭上で何かが爆ぜ、蒼と黒を孕んだ火の渦が、獣のような唸りを上げる。
目の前で強い光が弾けた。
次の瞬間、巨大な火の波が、部屋のすべてを呑み込んだ。熱に耐えきれず天井が崩れ、砕けた柱が残骸の山へ突き刺さる。その向こうから、怪物の手のような蒼炎が迫ってきた。
身体が死を恐れ、声にもならない悲鳴を上げる。
その刹那、世界が断ち切られた。
• ─────────── •
青い炎に包まれた廊下を、『彼』に抱えられて進んでいた。
腹の上に重なった手は、子どものように小さい。わずかに視線を上げると、視界の端で、自分と同じ黒髪が揺れていた。
『大丈夫。俺が絶対に助ける。命に代えても』
見つめられていることに気づいたのか、彼は励ますように笑った。頬から顎へ流れた汗が、こちらの手の甲へ落ちる。
次の瞬間、世界は再び青い炎に包まれた。
• ─────────── •
青い炎は、人の形をしていた。
二本の足で歩き、扉の隙間へ手をかけ、ゆっくりと部屋へ入ってくる。顔のあたりで揺らめく火が、笑ったように歪んだ。
視界のすべてが青へ沈んでいく。彼の姿も、深い海の底へ呑まれるように消えた。
最後に振り返った彼と、視線が合う。
この身体と同じ、紫色の瞳だった。
『――』
名前を呼ばれた。
『生きろ』
彼の唇が、その形を作った。
断末魔と炎の唸りが耳の奥へ満ち、その声は途中でぶつりと途切れた。
やがて、世界から音という概念そのものが消えた。残されたのは、怪物が口を閉じたあとの、蒼い火の静寂だけだった。
暗転。
それから、どれほど時間が過ぎたのかは分からない。
ただ、その身体だけが灰燼の中から蘇った。
それが、彼女の最初の死だった。
• ─────────── •
白い石壁と煌めく装飾に囲まれた部屋で、少女は大勢の人間に傅かれていた。
目の前には豪勢な食事や宝飾品、上質な布や肥えた家畜が山のように積まれている。人々の願いを聞き、指を示し、杖を掲げ、言葉を紡げば、彼らは諸手を上げて喜んだ。
『カミサマ』
そう呼ばれた。
彼らの笑顔を守るために、少女は力も、命も、心も捧げた。
けれど、誰も彼女の名前を呼ばなかった。
それが、死なない少女が人としての名を失った日だった。
• ─────────── •
やがて、誰かが力を欲し、また別の誰かも力を欲しがった。
積み上げられていた供物も、頭を垂れていた大人たちも、すべて血と泥の中へ沈んだ。
『バケモノ』
今度は、そう呼ばれた。
愛したつもりだった。守ったつもりでもあった。
それでも返ってきたのは、石礫と罵声だった。
その日、名を失った神は、人の心を捨てた。
• ─────────── •
空腹に苛まれていた。
路地裏に転がりながら、明日はどうなるのだろうと、意味のないことを考えていた。隣に横たわる人間は、もう随分前から動かなくなっている。
腹が減っていた。
もう限界だと思って目を閉じた。これで隣の塊と同じになれるのだと思った。
けれど、また目は開いた。
しばらくすると、隣へ別の人間が転がった。目を閉じて、目を開き、腹を空かせ、また明日のことを考える。
この身体には、いつまで経っても終わりが訪れなかった。
少女はその日から、自分の時間を数えることをやめた。
• ─────────── •
「あなたは、愛されるべき存在なのよ」
それは、失われた心を取り戻そうとした女の言葉だった。
「君が自由に生きられるように、僕たちができることをしてあげたいんだ」
それは、失われた自由を取り戻そうとした男の言葉だった。
• ─────────── •
痛い。痛い。赤い。苦しい。
目の前が真っ赤に染まり、身体だけが獣のように叫んでいた。
痛みはいつしか意味を失い、世界との繋がりまで消えていった。
• ─────────── •
日は陰り、雨が地を打ち、雷が轟いた。魔法が爆ぜ、天が裂け、海が唸り、竜の翼風が万物を削った。
表の世界でも、裏の世界でも、人間が死に、魔法使いも死んだ。争いは復讐を呼び、復讐は新たな争いを生んだ。
その泥沼の中心に、彼女は立っていた。
敵と仲間、大勢の骸に囲まれ、杖を手に、ただ一人で。
誰もが化け物になっていた。
けれど、その中で最も恐れられていたのは、彼女だった。
やがて戦いは終わった。正確には、戦える者がいなくなっただけだった。
心を与えようとした女も、自由を与えようとした男も死んだ。
彼女はその日、夢と愛を失った。
• ─────────── •
暗闇の中で、ただ一人うずくまっていた。
目を開いているのか、閉じているのかさえ分からない場所へ、ゆっくりと沈んでいく。
『君の力を貸してくれないか』
なぜ、と問い返した。
『表と裏。魔法使いと人間。今と未来、そのすべてを守るために』
『僕たちの願いのために』
『我々、梟のために』
止まり木を見つけた不死の鳥は、その日から「梟」となった。
• ─────────── •
それでも、燐は終わらなかった。
ある者は彼女を人形と呼び、ある者は化け物と呼び、またある者は生ける屍と呼んだ。
死と再生を繰り返す終わりのない日々は、彼女の運命であり、同時に呪いでもあった。
ただの少女だった日。神と崇められた日。悪女と呼ばれた日。化け物と恐れられた日。路地裏で飢えていた日。獣のように戦った日。革命を起こした日。そして、『梟』として世界を駆け回った日。
隣にいた家族も、頭を垂れた人々も、権力を争った為政者も、石を投げた者たちも、路地裏の住人も、仲間も、魔法使いも、愛した人も。
結局は皆、彼女を置いていった。
もう、終わらせたい。
そう願った、そのときだった。
『傘、さしてあげる』
雪の中に、あの子どもが現れた。
綿のように柔らかな声は、雪の静けさを壊すことなく、ただそっと、彼女の耳へ届いた。
• ─────────── •




