20 妹のように
――何かを得るためには、犠牲が伴う。得ようとするものに見合うだけの代償を、支払わなければならない。それは魔法使いでさえ例外ではない。
魔法使いは心に依って魔法を紡ぐ。すなわち、魔法とはこの世のあらゆるものと対話し、万物へ心を捧げる行為に等しい。
魔法使いは魔法を使うたび、心を削り、その代わりに力を得ているのである。これもまた、一種の契約と呼べるだろう。殊更に強い魔法は、殊更に『強い心』を代償として紡がれる。ならば、心の弱い者には、強大な魔法を紡ぐことなど不可能なのではないだろうか。
べアルドット、ルール・ルルフ、リン、マノエ、カトス、サノッチ、ノクテ・オリエス。これより名を記す、真に強い魔法使いに共通するものは、彼らが一様に『強い心』を持つことである。
では、強い心とは何か。
心の原理を証明することはできない。ゆえに本書では、良くも悪くも歴史に名を遺した魔法使いたちを例に挙げ、その心について考察を加えるものとする。
私が最も強い確信と、同じだけの疑念をもって述べられることがあるとすれば、強い心とは――』
――テセウス著
【魔法使いの心に関する想像と考察】
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静まり返った部屋の中で、燐は背を丸め、床にうずくまっていた。
戻ってきてから、小麦色の獣は一度も口を開いていない。少し離れた場所で宙に浮かび、ただ燐の様子を見つめていた。
「……う、うぅ……うえっ」
身体の震えが止まらなかった。胃の奥から激しい吐き気が込み上げ、燐は咄嗟に口元を押さえた。
人が、目の前で死んだ。人間だったものが、人形へ変えられていた。
信じられない光景が、今になって現実の重みを伴い、次々と脳裏へ蘇ってくる。
恐怖に見開かれた女の瞳。助けを求めていた男の目。そして、その瞳の奥に映っていた自分の姿。
吐こうとしても、溜まった唾液と嗚咽しか出てこなかった。こらえきれない涙が目尻から流れ、口元を覆った指先を伝って床へ落ちていく。
まだ、あの二人に見られている気がした。
いっそ何も感じられなくなれば楽なのに、身体を焼く痛みが、意識だけを何度も現実へ引き戻した。感情と思考は噛み合わず、頭痛が波のように押し寄せてくる。顔の内側へ熱が籠もり、嗚咽に合わせて喉が痙攣した。
「うっ、うぅぅ……っ」
この先、どうすればよいのか分からなかった。
誰かを助けたことに後悔はない。そう言い切った自分が、今はひどく馬鹿らしく思える。
口で言うのは簡単だった。自分で選んだ道だと、きれいな言葉で片づけるのも。
けれど、こんなことになると、誰が想像できただろう。
後悔がないと言えば、嘘になる。
死にたくなかった。
どうして、あの火事で助けに行ったのだろう。どうして、白い部屋であの人の手を取ったのだろう。
後悔していないという言葉は、湧き上がる感情を押さえつけるための言い訳だったのかもしれない。自分の選択を失敗だったと思いたくないだけの意地。善い人でありたいだけの、後先を考えない偽善。
燐は、強い心が欲しかった。
自分の信念に従い、選んだ道を迷わず歩ける心。誰かに流されず、いつまでも同じ場所で悩み続けない心。
妹のような人になりたかった。
ならば、この身体の持ち主である氷月燐は、どんな女だったのだろう。
ぴんと伸びた背筋。自信を湛えた微笑み。自分の意思を隠さない眼差し。燐が憧れていた強さを、そのまま人の形へしたような女だった。
ちゃんと地面へ足をつけ、自分の力で立っている人。
それに比べて、自分はどうだろう。
自分の足元さえ定まらない人間が、そんな女の代わりに生きようとすること自体、最初から無理だったのではないか。
――妹なら、もっと上手くやれたのだろうか。
その考えが、じわじわと思考を埋めていく。
けれど、助けを求めた燐の手を取ったのは、自分だった。それだけは誰かに流されて選んだことではない。
「あ……わたし、って……誰」
足元が砂のように崩れていく感覚に、燐は両手を床へついた。
何か大切なものを忘れている。けれど、何を忘れたのかさえ、もう曖昧になり始めていた。
――わたし、あんたには幸せになってほしいの。
――本当に、許してもらえるわけないけど……ごめん。
突然、誰かの声が頭の中へ流れ込んでくる。冷たい汗が背筋を伝った。
これは、この身体の記憶ではない。
――お姉ちゃん。ねえ、笑っていて。
妹がいた。
いる。まだ、自分の中にいる。
それなのに、顔も声も、名前さえも、遠くへ流されていく。
いつからだろう。
一人の中で二人が混ざり、そのうち一人分が少しずつ消え始めたのは。頭の中に響く声が、誰のものなのか分からなくなったのは。
「あ、あ……ああっ」
いつから、自分の名前を氷月燐だと思い始めたのだろう。
「私の……私の名前は、な、名前は……いや、いやだ……」
頭を振るたび、記憶は陽炎のように揺れ、輪郭を失っていく。
自分が跡形もなく消えてしまう。
罪に問われることよりも、自分が自分ではなくなることのほうが、ずっと怖かった。
「あぅ……うぅっ、うう……」
もしかすると、これは夢なのだろうか。
最初から、凛という人間などいなかったのではないか。ここが本当の世界で、頭に残る別の場所の記憶こそ、ただの妄想だったのではないか。
――違う。
絶対に、違う。
妹がいた。それだけは忘れてはいけない。忘れてしまえば、自分が生きてきたことまでなくなってしまう。
「……帰り、たい」
言葉を零した途端、心の中が不自然なほど静まり返った。
頬を伝った雫が、足元に広がる暗がりへ落ち、ぽちゃんと小さな音を立てた。その波紋が広がるように、同じ言葉が胸の奥へ満ちていく。
帰りたい。戻りたい。
けれど、どこへ。
――あなたが死んだのも、あなたの妹が死んだのも、すべてあの青い炎のせいよ。
――私の願いは一つ。あの青い炎の魔法を消すこと。あの魔法を、裁くこと。
「あ、あ……青い、炎」
燐は冷たい床へ倒れ込み、身体を丸めた。
噛まれた右腕は黒く変色し、指先まで木炭のように色を失っている。痛みは腕だけに留まらず、頭から足先までを食い荒らしていた。雷のような衝撃が脳天を貫くたび、身体が内側から引き裂かれる。
床の上でのたうち回っても、声さえ出なかった。
息をしようと口を開けば、喉の奥から赤黒い液体が溢れ、涙や血で濡れた床へ散っていく。
視界の端で、床に幾つもの線が浮かび上がった。
青白い光を放ちながら広がっていく線は、いつの間にか燐の身体を囲んでいる。あの炎より白く、あの炎よりも冷たい光だった。
――青い炎を探さなければならない。
それが、氷月燐の願いだった。
けれど、私には。
『御主人。また、死ぬのですか』
頭上から降ってきた声は、驚くほど平坦だった。
悲しみも怒りもない。ただ静かで、ほとんど感情の温度を持たない声だった。
――そういえば、いたのか。
燐は視線だけを持ち上げた。
ぼやけた視界の向こうで、小麦色の塊が頭のそばへ行儀よく座り、こちらを見下ろしている。
帰りたい。
そう答えようとしても、言葉にはならなかった。
いったい、どこへ帰るというのだろう。
ぱちん、ぱちん、と耳の奥で音が鳴る。聞き覚えのある音だった。
視界の端から黒く染まり、最後に一際強い青白い光が瞼を刺した。
ぱちん。ぶつん。
耳の奥で、きん、と高い音が響く。
すべてが消え、意識は何もない暗闇の底へ、瞬く間に沈んでいった。
――もう一度。




